私をおいていかないで
雨降って地固まる第十九話
「ねえ、どうして? どうしてわたしを置いていこうとしたの?」
ミューズが再度問う。
ボクは彼女を向かい合って抱きしめ、背中に手ぬぐいを当てたまま動けない。
「……死んじゃうと、思ったから」
一度死んだボクだって、死の恐怖からは逃げられなかった。
「わたし、おこらないわ。誰だって死ぬのは嫌だもの」
「……ボクは、なんにも知らなくて、なんにもできなくて。怖くて、動けなくて。だから、守れないから」
ボクは弱い。戦い方どころか身の守り方も知らない。なら、どうやって彼女を守れというのか。
「うん。だから、仕方ないの。怖いと思ったり、逃げ出したいと思ったり」
ミューズが優しく言う。
仕方ない。そうだ、仕方ないのだ。ボクが彼女を守る手段など何一つだってないのだ。
「でもね、だから、どうして?」
「ボクも、ボクだってキミが傷つくのはやだよ! キミが傷つくのも、苦しむのも少しだって見たくなんかないんだ! でもボクはモッドさんやメグさんみたい強くないよ! でも!」
嗚咽混じりに言う。後半などほとんど言葉にならない。
「怖くて、ほかになにも、考えられないから……」
それ以外に思いつかなった。
「だから、わたしを置いて死のうとしたの?」
自分が犠牲になれば、それで彼女が救われるのではと、それ意外思いつかなかった。少しぐらい刺されたって、頑張れば衛兵の居るところまで走れるのではないかと考えたのだ。今となれば甘い考えだったと思う。それでも、それで自分が死んでも、命と引換えでもミューズが助かるのなら、それでいいと思った。
「……うん」
ボクは小さくうなずく。
「……ばかマリー! マリーのばか! ばか!」
ミューズが声を荒げて怒った。ボクの顔の目の前で彼女が本気で怒っている。
勢いが付きすぎて額と額がぶつかる。
「死んだら終わりなんだよ! 一緒に行こうって言ったのマリーじゃない! 死んじゃったら一緒に旅もできなくなっちゃうんだよ!」
ミューズは泣いていた。怒らせることや悲しませることよりも、彼女の瞳から涙をこぼさせることが、なによりも大きな罪のような気がした。
「ボクはダメなやつだから、ボクなんか死んでも、キミが無事なら、それで――」
「いいわけないでしょう!」
「ボクがいなくても、キミは旅を続けて――ぎゅっ!」
ミューズがほとんど手加減無しで頭突きをくれた。彼女の額が鼻のあたりに思い切りめり込んで、顔を抑えてベットに倒れ込む。壁に打ち付けた後頭部が鈍い音を立てた。お腹に乗ったままのミューズが、今度は手首に噛み付く。
「ミューズ! いたいよ! やめて! やめてったら!」
まるで獣のように唸りながら噛み付くミューズが恐ろしくなって、ボクは突き飛ばすように振り払ってしまった。
ミューズがドタリと音を立ててベッドの下に落ちる。
「いだいよぅ、なにするんだよぅ」
情けない声を出しながら手首を擦る。右腕にくっきりと歯形がついた。鼻血が落ちてシーツが汚れてしまっている。
静かになった部屋に、血の混じった鼻水をすすり上げる音だけが、しばらく響いた。
「……ミューズ?」
彼女は床の上でうつ伏せになったまま、青白い背中を震わせて泣いていた。
ああ、ボクはなにをしているんだろう。
「ミューズ、ごめんね。怪我してない? ごめんね。ごめんなさい」
ベッドを降りて彼女に近づき、ひざまずいた。
胸がつぶれるほど痛々しい涙声でミューズが言う。
「……ずっと、これからずっと、貴女が死んでしまったって、いつでも、どこにいたって思い出すようになるんだよ。わたし、そんなの、そうやって旅を続けるのなんていやよ」
心臓を鷲掴みされたかと思った。
本当に、ボクはなにをしているのだろう。彼女を傷つけたくないとうそぶいて、その実、この先永遠に、ボクが望むように彼女が生き続ける限り永遠に、不要な後悔や苦悩を押し付けようとしていたのではないか。
たった昨日出会ったばかりりのボクに、彼女がどうしてそこまで思い入れてくれるのか。それはひとえに、彼女がそも愛情深いからだろうか。彼女と今まで出会って共に旅した人たちも、やはりそうだから、彼女のことが好きになったのだ。そうして彼女は長いこと旅を続けることができたのだ。そんな彼女だから、ボクの浅はかな自己犠牲などでは、ただ深く傷ついて、そして怒ったのだ。
ボクはバカだ。なんて身勝手な無駄死にだ。それは卑怯者の自己満足だ。
ミューズの腹の下に手を入れて、そっと抱き上げる。
「マリー、約束して。もう二度と、わたしのために死のうとしないで」
「……ボクもキミと離れるのは嫌だ。これからもキミと旅をしたい……ミューズ、キミが好き」
ボクは彼女の銀髪を優しく撫でた。
「わたしもマリーが好きよ」
ミューズがボクの胸に顔を埋めて言った。
それから、ボクら二人で声を上げて泣いた。どうして泣いているのかさっぱり分からない。それでも今は泣かなきゃいけない気がして、とにかく泣きじゃくった。我ながら女心はわからない。はたから見れば、美女が二人抱き合って泣いているように見えるのだろうが、実際の所ボクはアラサーの成人男性だ。一廻りは年の離れた女の子の胸を借りて泣くのは、ものすごく情けないことこの上ない。いや、ミューズがボクのオッパイに顔を埋めているのだから、胸を貸しているのはボクなのだろうか。まぁいいや。
しばらくそうしていると涙も枯れてしまって、いつの間にかボクらは、どちらからと言わずにお互いの顔を見つめていた。もちろんミューズの目は見えていないのだが、それでも彼女はボクを見ていた。彼女の白濁した瞳は、涙で潤んで薄桃色の水晶のように美しかった。瞳は美しいのだが、まぶたは腫れ上がっているし、顔中涙でグシャグシャだし、あろうことか鼻水は垂れているしで全体的には酷いものだ。
「ふふ、ふふふ」
「どうして笑うのマリー」
「だって、ミューズひどい顔」
「うそ、どんな顔?」
「んっと、かわいいよ」
「なぁにそれ」
ミューズが無邪気に笑った。多分ボクはもっとひどい顔をしている。
「終ったかい? しかし派手にやったねぇ」
腕を組んだローザさんが戸口に立っていた。裸で抱き合うボクラを見て面白そうに口の端を吊り上げている。なにこれめっちゃ恥ずかしい。っていうかノックが聞こえませんでしたよ。してください。
「いつから……」
「ばかマリー、ってとこから」
クライマックスですね。
「あーあーこんなに汚しちまって、女の喧嘩でどうやったらこんなに血だらけにできるのかねまったく」
ローザさんがため息をつく。
シーツはボクの鼻血で汚れ、タライはひっくり返って水浸し、しかも色々なものが混ざったのが床一面を覆っている。
「追加料金もらうからね」
「あの、はい。ごめんなさい」
「ごめんなさい」
女将は怒る代わりに、ドスの利いた声で宣言したので、ボクらは素直に謝った。
それから部屋を掃除するからと、ミューズと二人で裸のまま隣の空き部屋に放り込まれた。同じ間取りの同じような部屋だが、椅子が一脚置いてある。
くれぐれもシーツは汚すなとほとんど脅しみたいな口調で釘を刺されたので、ボクとミューズは全力で首を縦に振った。
「ああ、それとね」
「う、あ、はい」
「服着な、モッドが見たら卒倒しちまうよ」
百戦錬磨のモッド氏も一般女性の裸には耐性がないのだろうか。
しかし、ボクの服はアレ一着で、着替えはあるにはあるが下着くらいしか持っていいない。
「そっちのお嬢ちゃんのも洗っとくからね」
「あ、おねがいします」
「あいよ」
ローザさんがシーツやら服やら山ほど抱えて降りていく。
ご迷惑おかけします。
「わたしの服?」
「うん、さっきので濡れちゃった」
先程のドタバタで床に落ちてしまったミューズの服は、例の形容し難いホラー水溶液に浸っていた。
「どうしよう、わたしあれしか持ってないわ」
「ボクも下着しかないけど……大丈夫、アテはあるから」
「あて?」
ミューズを椅子に乗せて、ガマグチを開ける。最近はこいつから布製品ばかりだしている気がする。現代人の身の回りには清潔な布が溢れていたのだなと、感慨深く思いながら腕を引っこ抜く。
「……そうきたか」
濃い緑色のジャージと体操服が出てきた。
白いラインの入ったジャージには 『マリー』 の名札が縫い付けてある。体操服には 『ミューズ』の名札。ともに手書きのカタカナである。誰が書いたんだよ。
「ねえミューズ」
「なに?」
「ブルマって、アウト? セーフ?」
「ブルマ?」
誰の趣味かはわからないが、ボクも嫌いではない。むしろ好きです。良いですね。でも、この世界の道徳基準では確実に下着扱いだろうな。まぁ出てきちゃったものは仕方ない。もったいないもったいない。
「とりあえず着ようか」
「いいけど、マリー、どうして鼻息が荒いの?」
「荒くないよ、ちょっと興奮してるだけだから。全然荒くないよ」
なお、ブルマは却下された模様。
ファンタジー成分が足りなくて申し訳ない。