正義の味方は遅刻気味
迷子があわやの第十五話
バターを塗ったパンを落とすと、必ずバターを塗った面が下になる。ネコは背中から落としても必ず足から着地する。
「バターをたっぷり塗ったパンを、猫の背中に縛り付けて落とすとどうなるか」
「おいししそう!」
食いしん坊ミューズ。こっちのほうがボクは好きだけどね。でもネコは食べちゃだめ。
「どうなるの?」
「空中でグルグル回る」
「あはは、すごい! なにそれ面白い! あははは!」
おお、ウケたウケた。
ミューズはいい子で素直だし、頭もいい。それにいろいろなことを知っている。といっても、新参者のボクが知らなすぎるのだけど。コミュ障のボクはそんな彼女についていくので精一杯だった。いやそんな努力しなくたって、きっとミューズは落胆も軽蔑もしないのだろう。それでもボクは彼女を楽しませようと、こうしてネットで見かけたジョークなんかをアレンジして披露している。今回はマーフィーの法則を拝借した。ボクにはストーリーテリングの才能なんかないから、知識と才能のある他人様になりきって、それでやっと、自己顕示欲求の発作が治まるのだ。今ならキャバ嬢に気に入られようとするおじさんの気持ちがわかる。
「マーフィーってどんな神様なのかしら」
「うーん、雨乞いとか? 汝、雨を欲するならば洗車――ゴホン、洗濯をするべし」
「あはは、へんなの!」
自虐と悲観と後悔の神様。きっとボクの守護神だ。
「ねえミューズ。この街って治安が悪かったりするの?」
「そんなこともないよ、いいほうだと思うわ」
城壁を通り抜けてすぐに、町並みははじまっていた。てっきり市場やなんかがあるものと思っていたが、そんなものはなく、建物がところ狭しと並んでいる。第一印象は『埃っぽい』だった。おそらく、地面むき出しの無舗装の道のせいだろう。
「なにかあればマルカスさん達が飛んでくるだろうし。なにかあったの?」
「いや、とくに……」
特別になにもない。
なのもないが、なんというか空気が通常と違う気がする。アウェー感というのか。それに妙に人がいない。いても足早に去ってゆく。
「ねえマリー、もしかして城壁沿いに歩いてる?」
「え、あ、うん」
街をぐるっと見て回ろう、そう思った結果だ。どこか落ち着ける場所、噴水とか花壇とか、そういった物があれば、座ってミューズとオヤツでも食べようと思ったのだが。どういうわけか、進めば進むほど道は狭くなるし町並みも薄暗くなってゆく。
「マリー、何が見える?」
「えっと……お店の看板。薔薇の館、黒薔薇の園、薔薇の貴婦人……薔薇の湯?」
異世界にも風呂屋があるのか。それにしても、バラバラバラ、薔薇ばかりだ。他にもあるが薔薇の名を冠した店舗が多い。
「薔薇が名産、てわけでもないんだよね。どう見ても花屋じゃないし」
「あのねマリー、薔薇は性愛の隠喩なのよ」
「へー」
なるほど、つまりここは風俗街なのか、どおりで派手な格好のお姉様がチラホラいるわけだ。そしてどおりで童貞のボクが疎外感を感じるわけだ。
「……戻ります」
「まだ朝早いから慌てなくてもいいよ」
本格的に賑わうのはやはり夜なのか。
薔薇の花を彫り込んだ看板の下で、仕事前のお姉様方が談笑していた。一人がボクに気付いて手を振る。ボクは気まずいやら恥ずかしいやら、とにかく一刻も早くその場を離れたくなって早歩きになる。後ろから笑い声がした。顔が熱くてたまらない。
「マリー、あんまり早く歩くと、わたしおしりが痛くなっちゃうわ。マリー? 今度は急に立ち止まったりして、どうしたの?」
「……ミューズ」
「なぁに?」
「迷ったかも」
「まぁ」
もと来た道をたどったつもりが、余計に入り組んだところに入り込んでしまった。おかしいな、ボクは方向音痴ではないはずだけど。ウロウロと出口を探して歩いていると、ついに袋小路に迷い込んだ。困った。
「マリー、何が見える?」
「あー、端的に表現するとだね」
「うん」
「スラム」
「出て、今すぐ」
ミューズがめずらしく強い口調で言う。
先の見えない暗がり、散乱する誰かの衣服、壊れてぶら下がった扉。どう見てもアナーキーです本当にありがとうございました。風俗街で麗しのお姉様方にからかわれるくらいならまだよかった。今目の前にいるのは、正体をなくした酔っぱらいと、酔っ払いと、酔っぱらいと、ナイフを持ったが男数人。
いつの間にか囲まれていた。どこに行ったってボクは最高に間が悪い。
「大声出したってムダだぜ? 誰にも聞こえやしねぇし、聞こえたって衛兵の奴らがここまで来るまでに、なにもかにも終わっちまうからよ」
眼の前の男が黄ばんだ歯をむき出すと、取り巻きが笑った。
「良いべべ着てんじゃねーか。金持ってるか?」
「知らねぇ、俺は中身がほしい」
「乳がでかすぎんだろ」
クソッタレのゴロツキ共、好き勝手言いやがって。
「後ろのアレは俺にくれよ」
「おめえ、あんなので勃つのかよ」
「穴がありゃ同じだろ」
狭い路地にゲラゲラとこだまする薄汚い笑い声。
「でしたら旦那方、わたしがみんなお相手しますから、この娘には手を出さないで下しまし」
「ミューズ? なにいって――」
「マリー、わたし平気よ」
平気じゃない。そんなのボクが平気じゃない。
「おい聞いたかよ! この“かわいそうな”お嬢ちゃんが、俺達を慰めてくださるとよ!」
ふざけんな、そんなことさせるか。お前らなんかに指一本だって触らせてたまるか。
「そんな体でどうやって楽しませてくれんだ」
「口でもなんでも突っ込んじまえよ」
ゲラゲラゲラ。笑うな、耳障りだ。なにも考えられないじゃないか。
なんとかしなきゃ、なんとか。なのに、なんでボクの脚は震えて動かないんだ。
「マリー、わたしを降ろして。それからむこうへ行って、目をつむって、耳をふさいで。ね、マリー、いい子だから。できるよね」
ミューズが虫の音の声で優しく諭すように言う。やめて、そんなこと言わないでよ。ああ、どうしよう。ボクはどうすればいいんだろう。
「マリー」
ミューズがもう一度ボクを呼んだ。
いつもそうだ、ボクは怖くて、どうにもならなくて。誰も助けてくれなくて。それで今は、好きな女の子一人守れなくて。いやだ、そんなのは嫌だ。助けて、誰か。助けて。
「だれかぁ! たすけてぇ!」
「心得た」
路地の暗がりを切り裂くような、よく響く声だった。
「下郎、二人から離れろ」
「ああ? 何だおめぇ」
「通りすがりの神の使徒だ」
フードで顔が見えないが、高い声と華奢な体つきは女性のものだ。右手には抜き身の剣をぶら下げている。彼女がブーツを鳴らしながらがら、反吐とゴミ屑のランウェイを歩いてくる。重なり合った屋根の隙間から射す灰色のスポットライトを浴びて、純白の胸当てが鈍く光った。
「これはこれは聖女様ごきげんよう。おめえが俺達の相手してくれんのか? あん?」
「ああ、やぶさかではない」
「はっは、コイツはいいや、神様が俺達に贈り物をくださっ――」
水風船が割れるような音を残して、ゴロツキの顔の下半分が吹き飛んだ。
「その薄汚い口で二度と神の名を呼ぶな」
剣に付いた血を振るいながら彼女が言う。
ボクはただ、恐怖と安堵でへたり込みながら「いやいやそれじゃもう喋られませんがな」というツッコミを、唾の塊と一緒に飲み込んだ。
中世にもスラム街ってあったんすかね。風俗“街”ってのもなかったようですが。風呂屋はあったけど衛生面よりも娯楽が目的だったそうで。中にはいかがわしい風呂屋もあったとか。なんか落語のクスグリみたいな後書きだな。




