遁走イントロダクション
現実が嫌になった主人公が電車に飛び込む第一話。
ボクは電車を待っていた。
まだ朝も早いというのに、ホームはもうスーツを着たサラリーマンやら制服の学生やらでごった返している。
どうして日本人というやつは、こうも群れるのが好きなんだろうか。現代人のパーソナルスペースは広くなっていく一方だというのに、毎朝毎朝こうして満員電車で、ケツに股間が擦りつくくらい密着して、人生の貴重な数十分やあるいは数時間を生贄に捧げながら、やれ自立だ自由だとうそぶきながら実際は、命乞いのように魂を切り売りして、ほんの数瞬延命を図っているにすぎないのではないか。
「三番線に電車が参ります、危険ですので白線の内側まで……」
いかんいかん、ネガティブポエムを垂れ流してしまった。
彼らは実際立派なのだ。つらいつらいといいながら、それでも毎日こうやって律義に電車に揺られて、自分の生活や家族や……それからいろいろ、いろいろだ。いろんなものを守っているんだ。ボクにはとっても真似できない。立派立派。30年ニートをやってたボクなんかにはとても真似できない。
セーラー服の女の子がボクを指さして笑った。ように見えた。
浮いてるって自覚はある。作業服を着ているやつは他にいない。
先月のことだ。これじゃいかんと数年ぶりに家をでて、その日のうちに仕事を決めてきた。ここんとこ世界の終わりみたいに暗い顔してた両親が、今日で世界の終わりかってくらい大はしゃぎして、まるで盆と正月と30年ぶんのボクの誕生日と、それからボクが生まれたときと、そんなの全部ひっくるめたみたいに祝ってくれた。
はじめて親孝行ができた。
今朝もボクが家を出るときに、母さんは朝もはよから弁当こさえて渡して「いってらっしゃい、頑張ってね」といった。父さんなんか、嫌がる犬を引きずってわざわざ近くまで見送りにきた。愉快だろ? 今頃、母さんは男二人のパンツを洗って、父さんは新聞を見ながら、ひいきの球団に文句垂れてるだろう。
本当に、本当に良い家族だと思うよ。
本当に。
憂鬱じゃないか。本当に。
そこのセーラー服のお嬢さんと、ボクとが試しに交代したとして、世界は何にも変わらないのだ。保証しよう。なぜならボクらはただの石ころだ。社会の歯車なんて上等なものじゃなくていい、世の中ってのはボクらの上に何となく乗っかって、そしてボクらも世の中を何となく支えてるだけなんだ。そういうものだ。
一つだけ違いがあるとすれば、そこの女子高生には、彼女には未来がある。選択肢がある。ボクにはないものだ。でもこれは報いなのだ。ボクは何も選択せずに、その権利を放棄してダラダラと暗い部屋の中で、ただ時がすぎるのを祈っていたのだから。
「いいな女子高生」
脈絡なくつぶやくと、となりのOLさんにゴミムシを見る目で睨まれた。
ハイそうです。会社でいじめられてます。
理由ですか? ブサイクだからじゃないですかね。プロボクサーに二十発くらい殴られたほうがマシな顔になるって武田くんが、あ、武田くんは中学のクラスメイトでね、彼はそういったあと本当に二十発カウントしながら殴ってくれたから、もしかしたら彼は思ってたより善人なのかもしれない。
あとはそうだな無能だからでしょうか。ボクの無能エピソード聞きたい? いらない? ああそう、ボクも聞きたくない。
どうでもいいことだ。何もかも嫌になった、どこか遠くに行きたい。
「逃げてぇ……」
今の独り言は少し大きかった。
後ろの男子高校生が「俺も!」といって、友人たちがゲラゲラ笑った。近くに居た妙に無機質で無表情な新社会人に「どこにだよ」と小声でツッコまれた。
どこにだろう、異世界?
異世界かー、いいなぁ、ファンタジーみたいな世界で冒険したいなあ。異世界にいったら彼女できるかなぁ。エルフ、エルフがいいなぁ。金髪で巨乳のエルフとイヤラシイことしたいなぁ。
『それは無理かなぁ』
無理かぁ……じゃあせめて金髪巨乳エルフになりたいなぁ。
『じゃあって、何が“じゃあ”かわからないけど、それならいいよ』
いいの? なんで? 基準わかんないけど。
『なりたい? なりたくない?』
「なりたーい!」
全力で肯定するとOLさんが小さい悲鳴を上げた。女子高生が目を丸くして驚いている。男子高校生の集団はそろって口をあんぐり開けている。新社会人が片眉釣り上げて口をへの字に曲げたまま器用にあごを突き出している。
『おっけー』
「おっしゃー!」
ボクはその場にしゃがむと、やおら尻を高く上げクラウチングスタートの姿勢を取る。
眼の前の人垣が二つに割れた。
「ご協力ありがとうございます!」
右足で思い切り踏み切って、一歩二歩三歩、いま。タイミングはピッタリ、目の前に電車。
バン。
ピストルの音を聞いた。それってスタートのときに鳴らすものじゃない? そういえばゴールのときにも鳴らしたっけ。
まぁ、どうでもいいや。
ああやっと、これでもう全部、はい、おしまい。
ここから面白い話がかけたらいいなー