第1章 メッセージ
目の前に広がるコバルトブルーのグラデーションが綺麗な海。
五十嵐杏は紅いタンクトップにデニムのショートパンツという出で立ちで、ホテルの窓から海を眺めていた。
この景色を見るのは1ケ月前から。
その前は海の見えないホテルに身を潜めていた。
3ケ月ごとに何軒かのホテルを回りながら、日本の政治体制が変わるまで、そう、少なくとも現総理の春日井理が辞職し政権が替わるまでの間、公の場に顔を晒すことはできなかった。
密航船に乗って訪れたのは、旧大韓民国の済州島。
この島は朝鮮半島に住む者たちの居住区とは一線を画し、観光業で朝鮮自治国を支えていた。旧大韓民国時代も済州特別自治道を構成していたので、本島からの命令系統もここまでは及ばないのが実情であった。
一般の日本人観光客が今でも多く、身を顰めるには好都合な場所だ。
杏はオペラグラスを手にして海を眺めていたが、隣で一緒に海を眺めていた不破を小突いた。
「前のホテルよりは見晴らしがいいわね。あら、剛田さんは?」
剛田と呼ばれたのは、以前E4で室長を務めていた剛田勝利。
杏からオペラグラスを奪取した不破一翔は、顔だけ余所を向きながら杏の質問に答える。
「買い出しに行った。本島まで行ったから時間かかるんじゃないかな」
海を眺めるのを止めて、杏はソファに腰かけ大胆に脚を組む。
「1人で大丈夫かしら」
「俺たちの食料品だけだから荷物にはならない、って」
「ついていけばよかったかも」
不破は杏の後ろに回り、その眼を両手で隠す。
「日本人観光客も多いし外を出歩いても目立たないけど、食糧だけは足がつくだろ。心配してるんだよ」
「闇市か。ホントに大丈夫かな」
「本島には知り合いいるらしいし、安心しなよ」
この島には古参のホテルやプライベートビーチを備えたホテルなどが目白押しでありスーパーも何軒かあるが、マイクロヒューマノイド用の食糧は売っていない。あくまで一般の観光客しか受け入れていないというのが朝鮮国の見解であった。
とはいえ、日本国で春日井総理の下弾圧された試用体やマイクロヒューマノイドたちを実質的に受け入れているのは事実で、本島では闇市に足を運ぶマイクロヒューマノイドも多くいた。「受け入れていない」というのは詭弁ともいえる。
尤も、闇市を開いているのは朝鮮国の人間ではなく、他の民族が多かったが。
太陽も西に沈み、夜の帳が辺りを埋め尽くそうかという時、剛田と見たことの無い女性が両手に大きな袋を抱えて戻ってきた。
「帰ったぞ。何か異常がなかったか」
杏は立ち上がり、ドアのところまで迎えに行き袋を受け取った。不破も女性から袋を受け取る。
「何もないわ。かえって剛田さんが心配で。で、お隣の方は?」
「日本にいた時からの知り合いだ。逢坂美春さんだ」
剛田と同年代だろうか。スーツを着てきちんとした身なりの女性。こんな知り合いが朝鮮国にいたとは意外だった。
「こんばんは、貴女は五十嵐杏さん、お隣が不破、不破一翔さんね」
杏と不破が頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
初めに杏たちを紹介しないということは、剛田はこの女性にかなり信頼を寄せていると杏は見た。礼儀上、杏たちを最初に紹介するのが普通だから。
「何十年ぶりに電話が着たから驚いたわ。大変だったでしょう」
この女性は杏と不破がマイクロヒューマノイドだということを知っているのだろうか。食糧を買い込んだ、或いは袋を持った段階で杏たちの身体がマイクロヒューマノイドであることを女性は知っているはずなのだが、杏は少々面喰っていた。
剛田と女性の関係が普段冷静な杏の頭脳を霧が覆い隠すようにおぼろげなものにしたのかもしれない。
杏が何も言えないでいると、不破が微笑みながら女性の相手をしてくれた。
「食糧だけが心配の種でして。本当に助かりました」
「いいえ、お安い御用よ。これからは本島に出なくても私が調達してあげる」
「ありがとうございます」
杏は少しだけ不安になった。調達するということは、こちらの居場所がどこだか逐次把握しているということである。
もしか、この女性が日本に密告したら、杏と不破は捕まってしまう。
杏が一瞬不安な表情をしたのを剛田は見逃さなかったらしい。
「大丈夫だ、安心しろ。逢坂さんは俺の親友の奥さんだった人だ」
剛田の過去を殆ど聞いたことがない杏。
彼が自分から過去を口にしたのも初めてだった。
逢坂がうふふ、と上品に笑う。
「主人と私は剛田さんにとってもお世話になったの。日本に居づらくなったときにこちらの国に入れるよう画策してくれたのも剛田さん。私たちの恩人なのよ」
「何十年前の話だよ、逢坂さん」
「あら、歳月は関係ないわ。主人が亡くなって、途方に暮れていた私が今こうしていられるのも剛田さんのお蔭。職まで見つけてくださったの」
剛田はブンブンと手を振る。
「貴女が一生懸命勉強していたから、通訳や翻訳の仕事を薦めただけだ」
「ね、剛田さんは普段無口だけどとてもお優しい方なのよ」
杏と不破が目を丸くすると、逢坂はまたうふふと笑った。
剛田が時計を気にしていた。
「逢坂さん、本島に帰る便はあるのか」
どうやら、フェリーか飛行機のことをさしているらしい。
逢坂は気にした素振りもなく、杏たちを見つめている。
「あら、そういえばそうね。今日はこちらのホテルに泊まるわ」
ちゃっかりとポーチの中の化粧道具を杏に見せる逢坂。端から泊まるつもりだったようだ。
杏もつられて笑ってしまった。逢坂は指で「しいっっ」と杏に合図したあと、杏を連れてフロントに向かった。
ツインベッドの部屋をキープしたらしく、杏に一緒に寝ようという逢坂。
スパイの線も崩せないといった面持ちで緊張しながらも、杏は逢坂の誘いに乗った。
逢坂と一緒に、キープした部屋に入ると逢坂は早速ガウンに着替え、ハイヒールを脱ぐ。部屋の冷蔵庫からビールと2つのグラスを持って椅子に座る。
「一杯どう?」
杏は遠慮するといった顔をして頭を下げる。
「すみません、飲めないもので」
逢坂は自分のグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干した。
「あら、ごめんなさい。ねえ、杏さん。九条さんてご存じ?」
急に九条の話をふられた杏は、緊張の糸が張り詰めた。
本当にこの人は一般人の通訳なのか。
当たり障りなく、答えなければ。
「はい、向こうも同じような職種でしたから」
「この島に滞在しているのもご存じ?」
杏は心臓がドキンドキンと鼓動を立て、その音が逢坂に聞かれてしまうような錯覚に捉われたのが自分でもわかる。なるべくポーカーフェイスを装い、声を少し上ずらせながらの返事になってしまった。
「それは知りませんでした」
「九条さんからお手紙を預かってきたの」
杏は尚更、動揺する。
「お知り合いなんですか」
「私の兄が九条さんの父なの。九条さんは私にとって甥。兄は既に亡くなったけれど、私の旧姓は九条だから」
九条は元華族。となれば、この逢坂美春も華族出身者なわけだ。
逢坂の夫がどうして日本を追われたのかは知らないが、華族出身者なら日本でもおいそれと手出しは出来ないだろう。
逢坂は真っ白な封筒を杏に渡した。
宛名も差出人もない手紙。
封筒を開くと、PCで打ち込んだ文字が目に入った。自筆だと都合の悪いことがあるに違いない。逢坂が匿っているのは事実のようだが。杏たちと違い、九条はクーデター計画実行部隊としてその身を追われているのだから、どんな細かいところでも、隙を見せないのだろう。
文章に認められていたのは、旧華族出身のW4は春日井に処刑されることもなく、警察関係の身分剥奪だけで、それ以上の咎めはないから安心して欲しい、という旨の内容だった。よかった、みな無事でいるらしい。
とはいえ、九条は未だ逃走中である。
咎めがないなら日本に戻ってもいいはずなのに。
春日井総理の安室元内閣府長官への私怨は、今も継続中なのだろう。
華族会が幅を利かせている今の世の中だからこそ、身分剥奪で済んだのかもしれない。
それにしても、九条が日本に帰らない理由が見つからないことで、W4のメンバーが本当に生きているのかどうか、それはまだ判断がつきかねた。
これからどうするのかを九条に聞いてみたい気持ちもあったが、逢坂を通すのはこうして秘密裏に事を運んでいる九条に対し失礼な気もしたし、何かあれば逢坂が対応してくれるだろう。
これが、本当に九条が打ち込んだ文章であればの話だが。
杏は、今はまだ100%逢坂を信用してはいなかった。
ベッドに入り枕元のライトを消しても、杏は暫く寝付けなかった。九条のことを考えていた。ところで、九条はマイクロヒューマノイドなのだろうか。杏は九条のことを何も知らない。
逢坂に聞いたところで、話しはしないかもしれない。本当に九条の叔母なら、甥を何としてでも守ろうとするはずだ。
翌日の朝、逢坂は早々に化粧と着替えを済ませ、杏を起こした。そして杏を連れて剛田の部屋を訪ねた。
剛田は起きたばかりのようで、後ろの髪が跳ね上がっている。
「剛田さん、よろしくお願いしますね、また連絡します」
そういって頭を下げると、逢坂は背筋を伸ばし綺麗な歩行姿勢でホテルを後にした。
剛田の隣に擦り寄って、小声で囁く杏。
「逢坂さん、旧姓九条さんて、ホント?」
「なんだ、昨夜聞いたのか。本当だ。W4九条の叔母に当たる人だ」
「そうなんだ」
「九条が生きていれば、彼女に助けを求めるだろうな」
「ふうん」
杏は昨夜聞いたことを剛田に話そうかどうか迷ったが、九条の話を出すと不破が五月蝿いので止めた。剛田も九条の生死にさほど興味はあるまい。
こうして、九条に連絡を取ることもなく、済州島での隠伏は2年に及ぶことになった。
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杏の髪は伸びた。肩ぐらいの長さから腰の手前まで。
不破も髪が伸びたからか、後ろで纏めてゴムで縛っている。
杏たちは髪を切りに行くことさえしなかった。外出すれば、誰に会うか分らないから。
何度か日本陸軍の制服を見たことさえある。
マイクロヒューマノイドを捕縛するため、日本国陸軍から送り込まれたに違いない。
そんな時は、窓を閉めレースカーテンを引いて、会話さえも小声になった。
グラデーションが鮮やかな海も、窓から眺めるだけ。
最初のうちこそ「綺麗」を連発した杏だが、やがて飽きた。
ホテルを変える度に景色が変わることだけが楽しみだった。
不破はといえば、ゲーム大国朝鮮国のゲームに夢中になって、杏の相手もしてくれない。いつもゲーム機片手に部屋をうろうろしている。
杏はセンチメンタルに星空でもみようかと思うのだが、元々が無骨ときているから夜空を眺めても感傷的にはなれない。
そうなると、必然的にテレビや活字オンラインを見るようになる。
朝鮮国では、あまり日本に関するニュースを流していない。
すると、また退屈になる杏。
そんな時に限って、逢坂が日本の活字オンラインなどを持ってきてくれたり、携帯電話機とポケットルータを持ってきてくれたり。インターネットを探っていくと、日本の現状を知ることができた。
そうして逢坂が何かと世話を焼いてくれたので、生活に困ることはなかった。
朝鮮国の物価は日本より安いらしいが、ホテル代などを誰が払ったのかは気になる杏。
「ね、ここのホテルって安くはないわよね、誰が宿泊費支払ってるの?剛田さん?」
不破はさして気にも留めない様子で返事も上の空だ。
「たぶん」
「聞いてないでしょ」
杏が不破の前に回って両耳を掴んで上に引っ張る。
「いて、いてて。聞いてるよ、ここの宿泊代だろ」
「2年間もホテル泊まり続けてるのよ、お金いくらあっても足りないでしょう」
「出世払いとかじゃない?」
「あ、それならあるか。日本に戻れば働くしね」
「俺たちの給料から差し引かれるぞ」
「それは困る」
インターネットでニュース報道を見る限り、春日井は、総理としての任期を無期限に伸ばすため法律を改変する準備をしていたらしい。
国民投票によって、それを叶える第一歩を踏み出したかったのか、精力的に動いていたと見える。
だが、半年前の国民投票で否決、その野望は潰えたようだった。
春日井の人気も翳りを見せ始めているのだろう。
その後任、次期総理候補として名前が取り沙汰されていたのが、マイクロヒューマノイドに一定の理解を示す槇野達郎だった。
槇野は、マイクロヒューマノイドが消えた瞬間から日本自治国の方々で町の治安が悪くなったと行く先々の演説会場で力説しているらしい。
自分が総理になったらマイクロヒューマノイドを復活させ町の治安を守るとともに、クーデターに繋がるような動きを随時観測できるよう取り計らうつもりだという。
マイクロヒューマノイドがクーデターを起こしたらそりゃ生身の人間との差は歴然だが、随時観測とは。脳監視でも行うつもりなのかと首を捻る杏。
実際には春日井が全権を掌握する陸軍にマイクロヒューマノイドは大勢いたのだが、マイクロヒューマノイドを弾圧する施策をとっていた春日井は、軍を治安好転のために投入することはできなかったはずだ。二枚舌もいいところになってしまう。
そんな春日井総理宛ての書簡は何通も内閣官房に届いたはずだが、独裁を貫く総理に手渡せるものはいなかった。現在内閣府長官の小和田正志は、すっかり春日井総理の言いなり、子飼いだったとみられる。
そこが国民の支持を得られない理由になったのは火を見るよりも明らかだった。
日本の総理大臣選挙も最終局面を迎え、槇野がそのままレースを引っ張る牽引役になり国民の支持の大筋を得ていると思われた。
そして、どこから情報が漏れたのか、軍にマイクロヒューマノイドが多数いることが週刊誌にすっぱ抜かれ、春日井総理の人気は地に落ちた。
春日井が全権を掌握していたころは、週刊誌を発行している出版社は皆発行停止の沙汰を受けていたものだが、今回はそれすら間に合わなかったようだ。
国会でもこの問題は連日取り上げられ、小和田内閣府長官はおろおろするばかりで何も答えられず、春日井総理は毎度のように論点を外しながらの答弁で逃げ続けたが、最終的に内閣支持率は10%を切り、死に体と化していた。
2年の任期が満期終了し、春日井は総理の職を辞するとともに、心労で入院し政治家を辞めた。
政治家は都合が悪くなると心労で入院すると、国民の間ではSNSなどを通じ大炎上になった。
しかし、春日井前総理はそれに応えることもなく、談話が発表されることもなかった。
新しく総理になったのは、かねてから声のあった槇野達郎。
槇野は一時的に軍のマイクロヒューマノイドを治安好転の為に町に配置し、春日井によって潰された国立科学研究所の再開を明言した。
とはいっても、全国に3カ所あった国立科学研究所は建物も壊滅状態だったため、新築するところから事業が始まっていた。地下に隠れていた研究員たちがやっと日の目を見るに至ったのである。
春日井前総理のマイクロヒューマノイド弾圧政策の終熄を確認、槇野現総理の動きを察知した剛田、杏、不破の3人は、日本に戻る日が近いことを感じていた。
逢坂に頼みフライトチケットを準備してもらおうと思ったが、生憎パスポートを準備していなかった杏と不破。剛田は出張やらで外国にいくため、いつもパスポートを所持していたが、こうなっては一緒に帰る手立てがない。
島からの密航船は出ていたが、無事に帰れる保証はなかった。
それでも、パスポートが無いからには偽のパスポートを作るか、密航船に乗るしかない。
杏と不破は、密航船を選択した。
剛田は相変わらず心配性だ。二人に合わせて自分も密航船で帰国するという。
「じゃあ俺も一緒に船に乗ろう」
「やだ、剛田さん。あたしたちだってもう十分大人なんだから大丈夫よ」
「そうですよ。俺等が帰った時に迎えてくれる人がいるほうが嬉しいです」
「それはそうなんだが」
杏が飛行機で日本へ帰る様、剛田を説得する。
「剛田さんはマイクロヒューマノイドじゃないから、船の中で何かあったら大変だし」
「そうそう。俺達はその点は大丈夫ですからね」
とうとう剛田は折れた。最初に日本へ戻り、杏たちの帰りを待つという。
「それなら、俺は最初に戻ってE4再生のシナリオを作るとしよう」
「そうね、みんなにも会いたいし」
「お願いしますよ、剛田室長」
「室長になれるかどうかは上層部次第だがな」
剛田は優しげな目をして、笑った。
逢坂の準備した航空チケットで金沢へ向け済州国際空港を出発する剛田。それを見送った逢坂と杏、不破の3人は軽いランチの後、逢坂から密航船のチケットを譲り受けた。
「これは」
「私からの最後のプレゼント。元気でね、杏さん、不破さん」
二人は同時に礼を言う。
「ありがとうございます」
「日本に帰れることになって良かったわ。私もいつか帰るから、その時はよろしくね」
不破がステキな顔で微笑む。
「任せてください」
「じゃあ、ここでお別れ。二人とも、お元気で」
去っていく逢坂の背中に向けて杏は挨拶した。
「逢坂さんもお元気で」
密航船のチケットは、その日の夜間に出航する予定だった。
杏も不破も、いつ日本に帰ってもいいように荷物の準備はしていたし、ホテルの精算も剛田が済ませていた。
出航まであと8時間。それまでどうやって時間を潰そうか。
済州国際空港は、昔なら国内線の旅客向けの免税店しかなかったが、地球全土から観光客を呼び込むため、今は国際線旅客向けの免税店がある。免税店で剛田が気に入りそうなものを選んでぶらぶらと時間を潰し、空港内のロビーで昼寝がてらに暇を潰してみたものの、出航まであと何時間もあった。
島の南側に済州港があり、普段はフェリーが往来している。フェリーに紛れて、密航船も普段なら1週間に1度くらいの頻度で行き来しているという情報を逢坂が拾ってきた。
港に行こうかと相談し合っていた杏と不破。
「ねえ、不破。ここにいても飛行機乗れるわけじゃないし、港に行きましょう」
「そうだな、港の方が何かあった時でも船に飛び乗ればいいだけだから」
確か、向こうにもターミナル施設があったはず。もう二人の心は逸っている。
早く日本の土を踏みたい衝動が、二人を突き動かしていた。
空港から出てタクシーを捉まえ、済州港まで、と運転手に説明する。朝鮮語は話すことができなかったが、観光パンフレットを持っていたのでうまくコミュニケーションを図ることができた。
いち早く済州港内に着いた二人は、沿岸旅客ターミナルと国際旅客ターミナル、2つの旅客ターミナル施設の中を見学することにした。
待合室、特産物販売店、スナックコーナー、食堂、免税店。再び免税店をぶらついたのち、待合室での出来事だった。
疲れてしまい不意にうとうとしてしまった杏。不破もなんだかんだと疲れていたのだろう、ふと目を閉じてしまった。
その時である。
杏の荷物を強引に持ち去ろうとする輩が現れた。
相手は3人。
観光客のスーツケースを盗み、中に入っているものやケースそのものをインターネットで売却してしまうのである。パスポートが入っていたりすると始末が悪い。
杏も、帰れる嬉しさに浸り過ぎたというべきか。
さして心配せずに、密航船のチケットをケースに入れてしまっていた。
不破が薄らと目を開けた時には、杏のスーツケースを持ったごつい体格をした若者たちが走って逃げていくのが見えた。
「杏!チケット!」
不破の一言で杏は我に返った。
そして、ハイヒールのまま杏は物凄いスピードで相手を追いかけはじめた。
「不破はそこにいて!」
マイクロヒューマノイドは一般人に比べ足も速い。ところが、相手になかなか追いつかなかった。
まずい、相手もマイクロヒューマノイドか。
兎に角、チケットだけでも取り返さないと、日本に当分帰れなくなる。
杏はギアチェンジして1.5倍の速度で相手を追いかけた。やっと背中に手が届くまでに近づいた。
杏は反動をつけて一気にジャンプし、3人の前に躍り出る。
「いい子だから、それを返しなさい」
意外にも、相手は片言ながら日本語を喋った。
「何言ってる、これ俺たちの物」
カチンときた杏。両手を広げて相手を威嚇する。
「なら何故逃げる」
杏の恫喝に対し、相手は答えに窮したようで杏に殴り掛かってきた。
杏は普段拳銃を使って勝負する方なので、E4時代には、肉弾戦は西藤に任せていた。
しかし今はその拳銃も持っていない。
仕方ない。素手で倒すとするか。
相手のパンチを難無く避けて防ぐ杏。
そして一度だけ深呼吸すると、相手の1人に回し蹴りをかました。回し蹴りをもろに食らった相手はもんどり打って倒れ、他の2人はその場から逃げようとする。
(逃げるだと?そうはさせるか)
杏は2人目の男の腹を目掛け、パンチを続けざまに3発入れた。その男も膝を折り、その場に倒れた。
と、最後の1人が逃げ出していた。
追いかけようとしたところ、相手が何かに躓き転んだのが目に入ってきた。
(躓いた?)
その方向を見ると、なんと九条が男の足を引っ掛け転ばせたのだった。男は、杏のスーツケースを置いたまま、何処かへ消え去っていく。
ケースさえ戻れば、別にこれ以上追う必要もない。
九条に近づき、スーツケースを手にしながら礼を言う杏。
「ありがとう」
「どういたしまして」
杏はふぅと息を整え歩きながら九条の横顔を見る。
「逢坂さんから手紙もらったわ。日本に帰るの?」
「ええ。ただし僕もパスポートがないから非正規の方法で帰るしかないんですよ。美春さんがチケットとってくれたので助かりました」
「甥っ子なんですって?」
「そうですよ、あんな男と結婚したばかりに、日本を追われて。叔母は可哀想です」
「あら、なんのこと?」
苦々しげな表情に変わる九条。
「逢坂というのは通名でしてね、いや、偽名と言った方がいいか。本名は本木。やつは生粋の日本人じゃなかった。叔母は騙されて結婚したんです」
「剛田さんが昔助けた、って聞いたけど」
九条は驚いたように杏を見た。
「逃がしたのは彼でしたか。叔母を軟禁したんです、本木にに会えないように。なのに、いつの間にか姿を消していた。一度だけ手紙が届いて、無事であることが分ったんです」
杏は吹き出した。
「なんだ、剛田さん悪いことに一役かってたのね。どうりで詳しく言わないはず」
九条もつられて笑い出した。
「もう本木も私の父も死にましたから、昔の話ではあるんですが。日本に戻れば、といっても聞き入れてくれない」
「たぶん、思い出がこちらの国に詰まっているんじゃないかしら。いつか帰るって、そう言ってた」
「そうですか。叔母には叔母の人生がありますから」
思い出したように立ち止まって、九条を見つめる杏。
「ところで、九条さんはマイクロヒューマノイドなの?」
一瞬目を大きく見開き、意外そうな顔をした九条。首を傾げながら杏の質問に答えた。
「ええ、W4では僕だけだった。だからクーデターを抜きにしても日本にはいられなかったんです」
「そういうことだったのね」
「さて、この辺で僕はお暇しましょう。お宅の家人が凄い目でこちらを睨んでる」
九条の指差す方を見ると、不破が不機嫌そうにこちらを見ていた。杏はどういう顔をしていいか分らず、九条にあらためて礼を言った。
「本当にありがとう。これがなかったら帰れなかった」
「お互い様ですよ、では、ここで」
九条と別れ、不破の下に行く。不破は本当に不機嫌になっている。
「なんであいつが此処にいる」
「スーツケース取り返すのに協力もらったのよ、感謝」
「いいや、ここにいる理由」
「あたしたちと同じ。密航船に乗るみたい」
「なんで、どうして」
「パスポート持ってないらしいわ」
「やっぱり、あいつもずっとこちらに隠れていたのか」
「逢坂さんの甥っ子。さっき本人に聞いたら、マイクロヒューマノイドだって言ってたわよ」
不破は2度吃驚したように目を瞬かせる。
「そうか、逃げ回っていたのはクーデター計画の首謀者だからだとばかり思ってた。実際はマイクロヒューマノイドだったのか」
不破の機嫌が漸く直り、杏は不破の横顔を見ながら、ほっと一息吐いた。
フェリー埠頭の待合室も、電気が消える時間になった。
杏と不破は一度外に出て、港の周囲を散歩する。荷物を持ちながら同じように散歩したり地べたに座り込んだりベンチにどっかりと寝ていたり。
皆、マイクロヒューマノイドに違いないと杏は当たりを付けた。
もうすぐ密航船が到着する時間。
夜9時。時間通りに密航船が港に到着した。
何人もの客がタラップを上がる。さきほど寝ていた人物も船に近づいてきた。
密航船に乗る客の中には、杏や不破、九条の姿もあった。
乗組員が周囲に注意を払いながら、中で何か指示されているように見えた。
そして、船は静かに港を離れ、日本へと向かった。




