少年少女に告ぐ! 黒板に落書きをすることなかれ!
少年少女諸君! 最初にこれだけは忠告させてくれないだろうか。
――夜の学校に忍び込んで、黒板に落書きするなんて馬鹿なことは、絶対にやめておいた方がいい!
もっともこの言葉には続きがあるのだが……。
もう少しあとになったらお話しするとしよう――
◇◇
俺、浦部 裕輝が中学二年生の秋のこと。
あの頃の俺は、本当にどうしようもない男だった。
学生の本分である勉強や運動をなおざりにして、アニメとゲームざんまいの毎日。
それだけならまだいいが、こよなく愛していたダークファンタジーの世界観にどっぷりとはまっていた、いわゆる『中二病』を患っていたイタいやつだったのだ。
その日は台風が通り過ぎた後だけあって、洗濯物が飛ばされてしまうほどに暴風が吹き荒れていた。
しかし俺という人間は、こういう『異常気象』と呼ばれる日ほど、むしょうに『なにか』行動を起こしたくなる、特異な気質を持ち合わせていたようだ。
自分のことに『ようだ』という語尾を使うのも気が引けるが、実のところ、自分で自分の心情がよく分かっていなかったというのが本音だ。ただ、思春期なんて得てしてみな同じようなものであると信じたいものだ。
「ぶわっはははは! 俺様の黒魔術によってクラスの全員のキモが冷やされる日もそう遠くはないだろう!」
そんな風に高笑いした俺は、誰もいない夜の学校へ疾風のように駆けていった。
この頃の俺の学校は無防備もいいところで、校門こそ鍵がかけられていたものの、どこかしら一か所は窓が開きっぱなしだった。
さすがに物騒に思ったのか、PTAの要請によって、今年度から『夜の九時』には、自動警備システムが作動することになった。
つまり、この時間以降に学校にいると警備会社のお縄にかかってしまう。
ただし、夜の学校に隙がまったくなくなったわけではない。
なぜなら先生たちは『夜の七時』には、全員学校から立ち去ってしまうため、七時から九時の二時間は、誰に見つかることもなく、学校へ忍び込むことができるからだ。
背丈ほどの高さの校門をひらりと飛び越えて校内へ潜入に成功した俺は、そのまま自分のクラスの教室の中へ消えていった。
「くくく、われの黒魔術の前に、ひざまずけ! 下郎ども!」
思わずため息が出てしまうほどに痛々しい発言……。
だがこの時の俺は本気だった。
そして……。
――カッ! カッ! カッ!
と、赤のチョークを黒板へ走らせた。
「うむ。これでよかろう!」
お前は戦国大名か、と思わずツッコんでしまいそうな言葉づかいで、腕を組んだ俺。
言いようのない達成感にしばらくひたった後、人知れずひっそりと帰宅したのだった――
◇◇
翌朝――
それはまさに俺の思惑どおりの展開が繰り広げられた。
「な、なんだこりゃ!?」
「落書き!?」
続々と登校してきた2年C組のクラスメイトたちは、黒板に書かれた赤のチョークの字を見て、口を半開きにして驚きを隠せないでいたのである。
それもそうだろう……。
黒板には見慣れぬ文字で、
――われは居場所を知る者。なんじ、われにひざまずかん。
と、でかでかと書かれていたのだから――
ざわつくクラスメイトたちを、俺はよだれを垂らしそうなほどの喜びにひたりながら観察し続けていたのだった。
だが、そこにクラスメイトたちにとっては『救世主』、俺にとっては『魔王』のような男が颯爽と登校してきたのである。
彼の名は、常原 玲二。
学級委員としてクラスをまとめていた彼は、学業優秀で運動神経も抜群、さらに言えば超イケメンだ。
いつも『ぼっち』で、成績はそこそこでさえない俺と比べれば、月とすっぽんのような違いであった。
彼は教室に入ってくるなり、ちらりと黒板を見ると口元に小さな笑みを浮かべた。
――なんかムカツクな……。
と、この時の俺は自分のしでかしたことを棚に上げて、彼の態度を小生意気と感じながら睨みつけていたのだから、本当に救いようがない。
しかし彼は俺に一瞥もくれることなく、黒板の前に立つと、俺が渾身を込めてつづった文字を、無情にも消し始めた。
――な……なんということをしてくれるのだ……!?
と、心の中で歯ぎしりをする俺だったが、玲二は俺の心の悲鳴などお構いなしに、黒板を綺麗にしてしまった。
そして教壇に立つと、よく響く透き通った声で言い放ったのだった。
「誰だか分からないけど、こういうのは迷惑だからやめてくれないか! 授業の妨げになるだろう!」
そう言い終えた彼はひらりと教壇から下りると、自分の席へと足早に向かっていく。
クラスの全員が、ぽかんと口を開けて彼のことを目で追っていた。
そして……。
――パチ……パチ、パチ……。
と、誰ともなく拍手が起こると、いつの間にか大喝さいへと変わっていったのだった。
「さすが常原くん! かっこいい!」
「くっそぉ! 玲二のやつ、またおいしいところを持っていきやがった!」
男女関係なく彼をほめたたえていたが、彼は顔色一つ変えることもなく、机の上に一時間目の教科書とノートを広げはじめている。
さも「僕は当たり前のことをしたまでさ」と言わんばかりのクールな彼の仕草に、俺は心の中で「ぐぬぬ……常原めぇぇ……」と、さながらアニメの悪役のような言葉を吐きつけていた。
そのくせ表向きでは、みんなにならって拍手をしていたのだから、自分でも呆れる。
そんな中だ……。
俺にとって悪夢のような瞬間が、まさに訪れようとしていたのは……。
――ガラガラガラッ!!
間もなく始業ベルが鳴ろうかという矢先。
勢いよく教室の扉が開けられると、ツインテールの少女が教室に飛び込んできたのだ。
「あっぶなーい! ぎりぎりセーフだね! ふぃー、間に合ったぁぁ!」
そう言って、教室の時計を見上げながら汗をぬぐったのは笠谷 佳鈴。
周囲からは『天真爛漫の天然系』と可愛がられていたが、当時の俺に言わせれば『ただ騒がしいだけの猪突猛進型』の彼女。
玲二が『クールな月』ならば、佳鈴はさすずめ『明るい太陽』のような存在だ。
互いに容姿端麗で、綺麗好きな点も似通っている。
まあ、あの頃の俺には両方とも「この世の闇を光で染める邪教徒どもめ」と、忌み嫌う存在であったのだが……。
ちなみに笠谷佳鈴は、弟や妹の世話をしてから登校してくるらしく、いつも遅刻ぎりぎりになって教室に駆けこんでくるのだが、この日もそこまでは『平常』であった。
「おっはよー!」
「おはよう、佳鈴!」
彼女が教室の中を歩くと、周囲の女子が次々と挨拶をしていく。
彼女はその一人一人に対して、満面の笑みで返していた。
教室の隅にぽつんと座っている俺が彼女に声をかけることも、彼女から声をかけられることもない。
しかし次の瞬間、『平常』ではないことが起こったのである。
それは彼女が教室の一番後ろに並んでいる自分のロッカーを開けた瞬間のことだった――
「えええええっ!?」
と、彼女は大声を上げて仰天しはじめたのだ。
俺以外のクラス全員の目が彼女の背中に一斉に集まる。
すると、彼女はロッカーの中に顔を突っ込んだまま叫んだのだった。
「ないっ! わたしの体操着がないの!!」
と――
◇◇
その日の放課後――
部活が始まる前の時間を利用して、担任の先生抜きの緊急クラス会が開かれた。
『帰宅部』である俺は、すぐにでも帰宅して録画しておいた深夜アニメの上映会を行いたいところだったが、俺一人が抜けられる雰囲気ではなかった。
なぜなら笠谷佳鈴の体操着が、未だに見つかっていなかったのだから……。
開かれたクラス会の議題は自ずと一つだった。
――笠谷の体操着を誰が盗んだのか。
そもそも、なぜ「盗まれた」と断定できるのか、と俺は名探偵を気取って腹の中でせせら笑っていた。
しかし、集団の空気とは不思議なもので、ひとたび「盗まれたんだ!」と誰かが口にした途端に、クラスの誰しもがそれを信じて疑わなくなってしまったのだった。
そんな中、俺はただ一人だけクラスの空気に染まることなく、かと言って自分の意見を主張することもなく、ただクラス会の行方を見守っていた。
しかし俺はすぐに強い後悔に襲われることになる。
なぜなら、もしあの時に思ったことを口にできていれば、直後に訪れる悲劇にあわなくてすんだかもしれないのだから……。
それはとある女子の発言が発端だった――
――落書きをした人が犯人に違いないわ!
――『われは居場所を知る者』とか書かれていたしな!!
――そうか! ぜったいにそいつが犯人だよ!!
それはまさに青天の霹靂であったのは言うまでもないだろう。
――ガタリッ!
あまりの衝撃に、思わず椅子から立ち上がってしまった俺。
普段は存在感を消している俺が、急に無言で立ち上がったのだから、みなが驚くのも無理はない。
俺に視線が集まる中、玲二が抑揚のない声で問いかけてきた。
「どうしたんだ? 浦部」
彼の目は俺を疑っているようにも、そうでないようにも思える。
――まずい! このままでは俺が疑われてしまう!
俺ははっと我に返って、すぐに元通りに席についた。
「……いや、なんでもない」
ぼそりと口でつぶやいたのがやっとだ。
しかし、心臓ははちきれんばかりに動悸を早め、全身からは汗が噴き出していた。
――やばい! やばい! やばい!
もし俺が黒板に落書きをした犯人だと知れれば、自動的に「女子の体操着を盗んだ変態野郎」という不名誉な称号を授けられてしまうのは目に見えている。
さらに犯人ではない俺が、彼女の体操着など持っているはずもないが、彼らは「早く笠谷に体操着を返せよ!」と俺を容赦なく追い詰めてくるだろう。
だが、持っていないものを、どうやって出せばいいんだ!?
それ以前に、黒板の『痛い』落書きが俺だと知れた時点で、相当な赤っ恥だ。
――絶対に俺が犯人だとバレてはならない! いや、俺は犯人だが、犯人じゃないんだ!
もう訳が分からなかった。
だが一方で、この時点では、甘い見通しを立てていたのも確かだった。
――俺が落書きの犯人である証拠なんてあるはずがない。
と……。
そんな中だった。
『名探偵』を気取っていたのは、俺だけではなかったのだ……。
「まずは容疑者を絞り込もうか」
さながら清流のような爽やかな口調に、全員の目がその人物に集まった。
それは、常原玲二であった。
いや、彼は決して『名探偵』を気取っていたわけではないだろう。
単に犯人探しに一役かってでただけだ。
彼はつかつかと教壇に向かうと、黒板になにやら書き始めた。
「落書きは昨晩書かれたものであることは確かだ。となると、昨日の『午後七時から午後九時の間』にアリバイのない奴が犯人ということに間違いない」
「なんでそう断定できるの?」
クラスの女子から声が上がる。
すると玲二は口元に笑みを浮かべながら答えた。
「ふふ、簡単なことさ。七時までは先生方がいらっしゃるし、九時以降は警備システムが作動する。つまりその間しか犯行におよべないってことだ」
――おおっ!
と、クラス中から驚嘆の声が漏れる中……。
――ぐはぁっ!!
と、俺だけは心に大ダメージを受けていた。
なんなのだ、あいつは……。
ちょっと勉強ができるからといって調子に乗りやがって。
このままではまずい。なぜなら俺には『アリバイ』なんてないからだ。
どうにかしなくては……。
そこで俺は勇気を振り絞って、小さく手を上げた。
「どうした? 浦部。なにか言いたいことがあるのか?」
玲二が再び俺に声をかける。
しかし俺は情けないことに、蛇に睨まれたカエルのように固まってしまった。
こんな大勢が注目している中で、発言なんてしたことないのだから仕方ないと、それは今でも思っている。
すると挙手したくせに何も話そうとしない俺にしびれを切らした玲二が、冷やかな言葉を浴びせてきた。
「……なんだよ……もう部活が始まってしまうんだ。なにもないなら話を進めるぞ」
と、彼は再び黒板の方へ体を向ける。
――ダメだ! 話を進めさせては、俺が追い詰められてしまう!
そう確信した俺は、めいっぱいの大声で言った。
「け、け、警備システム!」
玲二の手がピタリと止まると、俺に訝しい視線を向けてくる。
俺はここで話を止めてはならないと思い必死に続けた。
「も、もし……警備システムを止められる人が犯人だとしたら……アリバイは成立しない……」
それまで浴びたこともないような視線が一斉に俺に集まると、俺は思わず委縮してしまった。
「ご、ごめんなさい……なんでもない」
と、急に怖くなった俺は、シュンとなって席につく。
しかしそんな俺の壊れかけた心に癒しの水を注いだのは、他でもない玲二だった。
彼は顎に手をあてると、つぶやくように言った。
「なるほど……。それは一理あるな」
なんと俺の意見に同調したのである。
その瞬間に、俺の心は空に浮かぶようであった。
ぱっと顔を上げると、瞳を輝かせて玲二を見つめる。
しかし、次に瞬間に彼は『天使』から『悪魔』に一変したのだ。
「しかし、その線を探るのは、今この場では不可能だ。犯人が見つからなかったら、後日先生に聞いてみよう」
――な、なんだと……!?
浮かしてから落とすなんて高度なテクニックをどこで覚えたんだぁ!?
と、心の中で俺は泣き叫んだが、彼は非情にも黒板に何やら書き始めた。
「では時間もないし、みんなに直接聞きたい。昨日、『夜九時まで塾にいた人』。挙手して欲しい」
――バッ!
玲二の言葉の瞬間に、一斉にクラスの連中が手を上げる。
手を上げていないのは、俺を含めて数名だった。
「なるほど……。五人か……。女子の体操着がなくなったことと、あの字からして『女子』であるのは考えにくい。まあ、こればっかりはあくまで推測だけどね」
そう言って、玲二は俺の方をちらりと見てきた。
女子を除けば、残った男子はわずかに三人だ……。
もし残りの二人が『アリバイを証明できるなにか』があったなら、答えはすぐに俺にいきついてしまうだろう。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
すると玲二は鋭い声を響かせた。
「もうみんなの部活が始まっちゃうから、今日はここまでにしよう! あまり考えたくないけど、もし犯人がこの中にいるんだったら、笠谷に謝罪してから、体操着を返してやって欲しい。笠谷がそれで許してくれれば、僕たちはこれ以上の追求はしないと約束しよう。でも、明日までに体操着がでてこなければ容赦しない。再びこの場で犯人を追いつめるから、そのつもりでいてくれ。では、解散!」
そう彼が締めくくると、自然と拍手がわき起こる。
そしてバラバラと全員が席を立ち始めた。
――まずいぞ! まずいぞ! まずいぞぉぉぉ!
どうにかしなくては、このままでは俺は『さらし者』になってしまう。
しかしもはや『犯人は浦部裕輝』というゴールに向けて、一本道しか残されていないと言えよう。
ふと見れば、玲二の周りには、他の『容疑者二人』が集まって、なにやら耳打ちしているではないか。
そしてちらちらと俺の方を見てきているのが分かる。
――どうにかしなくては……。
この一心だった。
俺は無意識のうちに、自分でも驚くような声で教室の空気を震わせたのだった。
「笠谷は『体操着がない』って言っただけで、一言も『盗まれた』なんて言ってないじゃないか!! それなのになんで誰かが盗んだと決めつけられるんだよ!!」
と……。
◇◇
結局、俺の一世一代の叫びなど誰も耳を貸すことなく、教室から一人また一人と姿を消していった。
急に大声を上げたものだから、かえって「犯人は俺です」と言っているのも同然だ。
クラスメイトの視線からは、どこか蔑んだものが感じられたのは気のせいじゃないだろう。
俺は誰に声をかけることもなく教室を出ると、とぼとぼと歩いて校門を出た。
――あーあ……。この世から消えてしまいたいな……。
『中二病』でもなんでもなく、『素』でそう思っていた。
――なんで黒板に落書きなんてしちゃったんだろう……。
この瞬間から俺の『中二病』は快方に向かっていったのは想像するに難くない。
しかしこの時の俺には、そんなことを感じている余裕なんて、微塵もなかった。
このまま家に戻ることなく、誰も俺のことを知らない街へ消えてしまいたい。
本気でそう考えてしまうほど、重い足取りだった。
そんな時……。
「浦部くん! ちょっと待って!」
と、背中から明るい女子の声がかけられたのだ。
俺は「お前が犯人なんだろ!」と問い詰められるんじゃないかと勘違いして、思わず駆け出してしまった。
だが生まれつき運動神経が鈍い俺は足も遅い。
後ろから俺を追いかけてくる軽い足音が、みるみるうちに俺のすぐ背後まで近付いてくると、鞄の紐をむずっとつかまれしまったのだった。
「やめろ! なにすんだよ!」
「それはこっちのセリフよ! なんで逃げるのよ!」
どうもその声に聞き覚えがあると思い、ちらりと背に立つ人物に顔を向けた。
そして目に入ってきたのは、予想通りに笠谷佳鈴の仁王立ちした姿であった――
◇◇
――ちょっと話したいことがあるから付き合ってちょうだい!
という有無を言わせぬ彼女の一言に、俺は抵抗する術を知らなかった。
引き続き重い足取りで彼女の背中を追っていくと、連れてこられたのは近所の公園。
彼女は、そこへ着くなり「ちょっと待ってて!」と、俺を一人にしてどこかへ消えてしまったのだった。
――はぁ……。きっとクラスの女子グループが俺を問い詰めるために連れてこられたんだ……。いやだなぁ……。
と、沈んだ気分になっていたが、逃げ出すわけにもいかない。
ブランコに腰かけるとそれを揺らしながら、傾きかけた夕陽を眺めていた。
だが、しばらくして俺の目に飛び込んできたのは、思ってもいない光景だった。
なんと笠谷佳鈴は一人で公園に戻ってきたではないか。
しかもその小さな手には、缶コーヒーを二つ持っている。
「はいっ、コーヒーでいい?」
俺は予想外の展開に、目をぱちぱちさせて彼女が差し出した缶コーヒーを眺めていた。
すると彼女は俺の手に押し込むようにそれを渡してきた。
「……なんだよ、これ」
コーヒーをおごられる意味が分からず、思わず問いかける。
すると彼女は俺のとなりのブランコに腰をかけて告げてきたのだった。
「聞いて欲しいことがあるから……」
この展開は……。
まさか『告白』では……!?
しかし、どう考えても彼女と俺では『つり合い』が取れないだろ!
一方はクラスの人気者の女子で、一方はどうしようもない男子。
たとえ天地がひっくりかえっても、彼女が俺に『告白』するなんてありえない!
逆ならまだしも……。
しかし胸の高鳴りはとどまることを知らず、俺はまるで沸騰したやかんのように頭の中が熱くなっていた。
「絶対に笑わないって約束してくれる?」
彼女は上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
俺はただブンブンと首を縦に振るしかできなかった。
「あのね……。実はね……」
そう切り出した彼女。
いよいよ俺にとっての『春』がやってくるのか!?
そう期待に鼻の穴が大きくなってしまったのはやむをえないというものだ。
しかし彼女の口から発せられたのは、予想外の衝撃的な『告白』だった――
「ごめんなさい! 実は、わたし……。ただ体操着を学校に持ってくるのを忘れてしまっただけなの!」
一瞬、彼女が何を言ったのか理解できず、俺の思考はピタリと止まってしまった。
そして頭が正常に動く前に口をついて出てきたのは……。
「はあぁぁぁぁぁ!?」
という叫び声だった――
◇◇
「いや、最初はね。本当に『盗まれた!』と疑ったのよ! でもよくよく考えてみれば、今日は体育の授業なんてないじゃない? ふと思い起こしてみたら、単に家から持って来なかっただけって気付いたの!」
缶コーヒーをがぶ飲みしながら話を聞いていた俺は、あまりにびっくりして「ぶっ!」と口の中のコーヒーを吹き出してしまった。
「ど、どうしたの? 急に!? コーヒー、美味しくなかった?」
「い、いや! 俺はこの甘ったるいコーヒーを愛している。……って、そんなことじゃねえよ!」
そして恨めしい目を彼女に向けた。
「そもそもなんでクラス会の時に言い出さなかったんだよ。いつでも言えるチャンスはあっただろ」
「ほんとゴメン。とてもじゃないけど、言い出せる空気じゃなかったし、気付いたのはクラス会が終わる直前だったから」
「もしかしてそれって、俺が叫んだ時か?」
俺の問いに彼女はコクリとうなずいた。
俺は「はぁ」と大きなため息をつくと口をとがらせた。
「俺なんかじゃなくて、玲二に言えばよかっただろ」
すると彼女はぶるぶると首を横に振って、まるで捨てられた子犬のような瞳で見つめてきた。
「そんなことしたら、クラスのみんなにばれちゃうでしょ。そしたらわたし……恥ずかしくて学校に通えない……」
「待て、待て! じゃあなんで俺に話した?」
「浦部くんだけは、『盗まれたんじゃないのではないか』って疑ってくれてたから……」
彼女がうつむきながら言った言葉が、胸に突き刺さる。
なぜならあの時の発言は、単に俺の『後ろめたい事実』を隠そうと必死だっただけであり、誰かをかばおうと考えたものではなかったからだ。
このまま『あの事』を黙ってたんじゃ、フェアじゃないよな。
そう思った俺は、彼女に打ち明けることにしたんだ。
「実は、黒板の落書きの犯人は俺なんだ!」
と――
「えっ……!?」
彼女の目が大きく見開かれると、俺の顔を穴が開くほど覗き込んできた。
気まずい沈黙が流れ始めると、「ああ、やっぱり打ち明けるんじゃなかった」と後悔していた。
――きっと『こいつはイタい奴だ』って心の中で大笑いしているに違いない。
そんな風に思えてならなかったからだ。
自然と彼女から視線をそらす。
すると……。
「あははははっ!! そうだったのね!! よかったぁ! あははっ!」
なんと彼女は大笑いを始めたのである。
まったく意味がわからずに、眉をひそめて彼女を見つめていた。
「そんなに笑うことないだろ……」
ぼそりとつぶやいた俺に対して、彼女は笑いすぎて目に浮かんだ涙をふきながらニコリと微笑みかけてきた。
「あははっ! ごめんね! でも嬉しかったの! わたしだけじゃないってわかったから!」
「わたしだけじゃない? どういう意味だ?」
すると彼女は太陽のような笑顔で、手を差し出してきたのだった。
「わたしたち、二人とも『犯人』だね!」
と……。
その顔を見た俺は、悔しいがときめいてしまったのを覚えている。
いや、『悔しい』と表現するのは語弊があるかもしれない。
とにかく、あの時の彼女の姿はまるで天使みたいに輝いていた。
ぽかんと口を開けながら茫然としている俺の手を、彼女は強引につかむ。
彼女の手はふんわりと柔らかくて、なおさら心をくすぐった。
そのまましばらくぎゅっと俺の手を握っていた彼女は、ふとその手を離すと、それまでの笑顔を引き締めて言った。
「ねえ、どうにかしてわたしたちの犯行を隠せないかしら?」
彼女の言葉と真剣な表情に、ようやくわれに返った俺。
まるで夢から現実に戻されたかのように目が覚めると、こめかみに手をあてて考え込んだ。
しかし、出てきた答えは残念なものだった。
「それは無理だな。いつかは絶対にばれるだろ。そもそも体操着はまだ笠谷の家にあるんだろ?」
「うん……」
「だったら絶対に出てくることがないじゃないか」
「そうよね。わたしが誰かに渡す以外に、わたしの家から体操着がなくなることはないもの」
「ああ、そうだな。笠谷が誰かに渡す以外は……」
そう言いかけた瞬間だった……。
まるで電撃が走ったかのような衝撃が全身を襲ったのは――
「そうか……! その手があったか!」
「えっ!? どうしたの?」
突然俺がブランコから立ち上がったのを、彼女は目を丸くしながら見ている。
そして俺は思わず彼女の両手をとって告げたのだった。
「玲二は言ってたよな!? 笠谷のもとに体操着が返ってくれば、これ以上の追求はしないって!」
「え、ええ。そう言ってたわ」
「だったら、『笠谷が誰かから体操着を返された』ってことにすればいいんじゃないか! そうすれば、体操着のことも、黒板のことも、誰も追求してこなくなるから!」
「えっ? えっ? 言っている意味がよく分からないんだけど……」
俺の真意を計りかねている彼女は、目を白黒させている。
しかし俺には確信が芽生えていた。
――これならピンチを乗り越えられる!
と。
そして俺は彼女の肩をつかんで、燃えるような瞳で告げた。
「なあ、笠谷! 手伝って欲しいことがあるんだ!!」
こうして『犯人からの脱出計画』は幕を上げたのだった――
◇◇
翌朝――
笠谷佳鈴はいつも通りに、始業ベルぎりぎりに登校してきた。
「ふぃー! 今日もセーフ! やったね! みんなぁ! おっはよー!」
ここまでは『平常』の彼女。
しかしいつもと違って、クラスの女子が挨拶の代わりに、声をかけてきたのである。
「佳鈴! 机! 体操着が返ってきたのよ!」
「うえええっ!?」
笠谷佳鈴は大げさに驚くと、視線を自分の『机』の上に向けた。
するとそこには洗濯されたばかりのように綺麗な体操着が、きちんと折りたたまれて置かれているではないか。
「ど、どういうこと!?」
彼女が教室じゅうに響く大声で問いかけると、クラスの女子の間から声があがった。
「また黒板に落書きがあったの。そこには、『探し物は見つけておいた。待たせてすまなかった』ってね。絶対にそいつが犯人だよ! 怖くなってこっそりと返したに決まってるわ!」
その言葉を耳にした瞬間に、俺はニヤリと口角を上げた。
なぜならその発言こそ『作戦どおり』だったからだ。
俺たちの実行した作戦はこうだ。
昨晩、笠谷佳鈴と俺は二人で学校に忍び込んだ。
そこで彼女は自宅から持ってきた体操着を自分の机の上に置き、俺は黒板に『探し物は見つけておいた。待たせてすまなかった』と書いておいたのだ。
ちなみにその落書きは、すでに常原玲二の手によって綺麗に消されている。
さあ、あとはこの作戦の仕上げをするだけだ。
佳鈴が俺をちらりと見たところで、俺は小さくうなずいた。
すると彼女は大きな声を上げたのだった。
「よかったぁ! しかもちゃんと謝ってくれたのね! なら、笠谷佳鈴は犯人さんを許すとしよう! これで一件落着ね! あははっ!」
少しだけ見えすいた演技のように思えてならなかったが、何も知らないクラスメイトたちにしてみれば、彼女が寛容に感じられたに違いない。
それを示すように、クラスのあちこちから「さすが笠谷さんだね!」という声が上がっていた。
そしていつの間にか、『黒板の落書きの犯人は誰か』ということについては、誰も何も口にしなくなっていたのだ。
――やったぜ……。これで全て終わったんだ……。
そんな風に俺は教室の片隅で、誰に気付かれることもなく、一人肩の力を抜いていたのだった。
……だが、始業ベルが鳴り響く中、この決着に納得いかない者が確かに存在していたことに、気の抜けてしまった俺は気付かなかったのだ。
そして、それが後に『一大事』をもたらすとも知らずに――
◇◇
その日の昼休み――
俺は玲二に呼び出された。
この時点で嫌な予感はしていたのだが、断れるはずもない。
昼食を終えた後、至福の昼寝タイムを断念した俺は、彼の待つ屋上へと足を運んだ。
そして彼は俺を見るなり開口一番、自分の推理を告げてきたのだった。
「なあ、浦部。黒板の犯人はお前だろ?」
あまりにはっきりとした物言いに、思わず「うん」とうなずきそうになってしまう。
だが、そこをなんとかこらえて言い返した。
「なんでそう思うんだ?」
「アリバイだよ。浦部以外の『容疑者たち』には、昨晩は確固たるアリバイがあった」
「そのアリバイが嘘かもしれないぜ?」
苦し紛れの言葉に、彼は口元を緩める。
「ふっ……まあ、そうかもな。でも、それはもういいんだ。一つだけ言うことがあるとすれば、もう黒板の落書きはやめておいた方がいい。先生たちに見つかったら大変だから」
「……ご忠告ありがとさん。話がこれだけなら俺は教室へ戻らせてもらうぜ。少し昼寝しないと、午後の授業が辛いんだ」
少しでも早くその場を立ち去ろうと、彼に背を向けて手をひらひらさせた。
するとそんな俺の背中に、鋭い一言が浴びせられたのだった。
「笠谷の体操着は『盗まれた』わけじゃなかったんだな!」
俺は思わず目を丸くして、彼を見つめた。
彼は、狐につままれたかのような俺の顔を見て、再び笑みを浮かべる。
「その反応……。やっぱり浦部は知っていたんだな。ということは、今日の『アレ』は、笠谷と浦部の二人で仕組んだってことか」
「……なぜ『盗まれたわけじゃない』って思ったんだよ」
俺が問いかけると、彼は穏やかに続けた。
「実は昨日、浦部に言われてから、考え直してみたんだ。よくよく考えたら『綺麗好き』な彼女が体操着を学校に置きっぱなしにするかなってね。そして今朝確信したんだ」
「ほう……」
言葉を切った彼は、少しだけ表情を引き締めた。
「返ってきた体操着は、まるで洗濯した直後のように綺麗だった。しかも丁寧におりたたまれて机の上にあった。もし誰かに盗まれたなら、わざわざ洗濯して返すか? ご丁寧におりたたんで机の上に戻すか? これは彼女自身が自宅から持ってきたものに違いないってね」
完璧な推理だった。
だが、俺には『守らねばならぬもの』があった。
それは自分のちっぽけなプライドなんかではない。
もっと大きなものだ。それを守るために必死の抵抗を試みた。
「……だとしたら、なんなんだよ?」
「うん、それなんだけど、一つだけどうしても分からないことがあるんだ。どうして彼女は『家に体操着はある』と、すぐに打ち明けてくれなかったのか。もし、深い理由があるなら、力になれないかなってね。『共犯者』の浦部なら何か知っているんじゃないか?」
こいつ……。やはりただものではなかった。
もはや完敗を認めざるを得なかったのだ。
そして俺は……。
「誰にも言わないって約束してくれないか……」
と、全てを打ち明けたのだった――
俺の話を黙って聞いていた玲二。
話し終えると、彼はニコリと微笑んだ。
「ありがとな、包み隠さず話してくれて」
「……誰にも言うなよ。俺はいいけど、傷つくのは笠谷なんだから」
玲二は俺の言葉に目を丸くした。
それもそうだろう。
いつも一人で、誰とも仲良くしていなかった俺が、彼女をかばうような行動にでたのだから……。
実は、彼に真相を打ち明けると決めた時、俺には『とある覚悟』が芽生えていた。
それは『彼女に恥をかかせてはならない』というものだ。
俺に『告白』したことでさえ、彼女にとっては大きな恥だったに違いない。
ならばこれ以上は、彼女を傷つけたくなかった。
言うのもためらわれるが、昨日の彼女の笑顔を見て、そう心に決めていたのだ。
そして俺は、『ありったけの勇気』を振り絞った――
「もし……真相がバレそうになったら、『全部、浦部がやったこと』にしてくれないか。頼む! この通りだ!」
そう告げた後、玲二に深々と頭を下げたのだ。
本当は土下座をしてやりたかったが、それをするとかえって『演技』っぽくなってしまうだろう。
だからこうして彼に向かって九十度に腰を曲げることが、俺ができる『精一杯の誠意』だった。
だが、自分でも不思議だが、屈辱なんて微塵も感じていなかった。
ただ『彼女を守りたい』、その一心で、とにかく必死だったのである。
どれだけ時がたっても構ない。
なんなら放課後まで彼に頭を下げ続けてやったっていい。
彼が「うん」と言うまで、俺はこうしているつもりなんだ。
そんな風に本気で思っていた。
しかし玲二の行動は早かった。
俺が頭を下げた直後に、彼は優しく俺の肩に手をかけると、頭を上げるように促してくれたのだ。
そして、いつになく真剣な口調で言ったのだった。
「これは男と男の約束だ。僕は絶対に浦部も笠谷のことも『悪者』になんかしない。だから安心してくれ」
俺はぱっと顔を上げて、彼の瞳を見た。
それは絶対に嘘を言わない、素直で澄んだ色……。
驚くことに、その瞳を目にした瞬間にがくり肩の力が抜けてしまった。
さらに涼やかな秋風が頬に当たると、自然と固くなっていた心がほぐれていく。
そしてほぼ無意識のまま、気の抜けた声で、本音を漏らしてしまったのだった。
「常原……お前、案外いいやつなんだな」
「はははっ! 『案外』とか言うなよ! しかもそれを言うなら僕だって言わせてくれ」
そう前置きをしながら、爽やかな笑顔を浮かべた彼は、右手をぐいっと差しのべてきた。
「浦部がこんなにも『熱い』男だって知らなかったぜ! 僕は浦部みたいな男が大好きだ! これからは良い友人でいてくれないか?」
男にこう言われても迷ってしまうほど、ひねくれてはいない。
――ガシッ!
なにを考える間もなく、彼の右手を握りしめていたのだった――
◇◇
この際、大切なことだから、もう一度だけ忠告しておきたい。
――夜の学校に忍び込んで、黒板に落書きするなんて馬鹿なことは、絶対にやめておいた方がいい!
しかし、先も述べたように続きがある。
それは万が一、君たちが何らかの過ちを犯してしまったら、ということだ。
いや、過ちのない人生なんてあるのだろうか。
誰でも一度は激しい後悔に襲われるほどの過ちを犯してしまうものだ。
そんな時は『ありったけの勇気を振り絞ってみる』ことをおすすめしたい。
自分でしでかしてしまったことを打ち明けるのもいい。
誰に気付かれる前に、黒板を綺麗にしてしまってもいい。
素直に頭を下げたっていい。
『ありったけの勇気』がもたらす一時の恥ずかしさや苦しみは、きっと『大きな幸せ』を生んでくれるはずだから――
俺の場合は生まれて初めての『親友』ができた。
『中二病』からも無事に脱却することもできた。
だが、それだけじゃない。
なんと『おせっかいな親友』が、俺の憧れの女子に対して、俺のありったけの勇気を全て打ち明けてしまったのだ。
その結果……。
「裕輝!! お待たせ! これでいい?」
「また缶コーヒーかよ? しかも、甘ったるいやつ……」
「あははっ! いいじゃない! わたしは、裕輝がこれ好きなの知ってるもん!」
今、俺の右手には、その子の柔らかな左手が添えられている。
そして、太陽のような彼女の笑顔が、俺に向けられているんだ。
これを『大きな幸せ』と言わずして、なんと言おうか。
だから、もう一度だけ言わせてくれ。
少年少女よ! 黒板に落書きをすることなかれ!
過ちを犯した時は、『ありったけの勇気』を振り絞るべし!
(了)
御一読いただきましてありがとうございました。
これからも心をこめて作品を作ってまいりたいと思っております。
なにとぞよろしくお願いいたします。