涙雨
翌朝、寝殿造りを思わせる屋敷の広間には、既に祭壇がしつらえられていた。
柊司の胸は、発作の予感とは異なる違和に満ちていた。
――義姉さんの、あの苦しげな嗚咽……
あれは明らかに病的なものだった。
瑤子は祭壇の傍らで、使用人に献花や調度、茶菓の指示をしている。殆ど眠っていないのだろう、伏し目がちな目元は赤く濡れていた。
ぐ…ッふ・・・
柳のようなな立ち姿が俄かに傾ぐ。手布で口元を押さえ、
――く、ふッ、、うぅ――…ッ
か細い肩を揺らしては、目元を拭うような仕草を見せる。傍から見れば涙を堪えているようにしか見えないが、時折、きひ、きひぅ、軋むような吐息がもつれていた。あれは、と声をかけようとした、その途端
「柊司さん、」
凛とした声に振り返り見たのは義母――亡き惣一郎の母だった。
寝付いていたとは信じがたい、落ち着きはらった態度。若い頃はさぞやと思わせる、鋭い知性を思わせる眼差しは、瑤子の儚さとは対照的だった。
「お身体は如何ですか、」
尋ねる前に尋ねられ、ええ、と曖昧に頷く。
「還暦を過ぎて、こんなことになるなんて……
この家の男子は最早貴方だけです、くれぐれも、人前で見苦しいことのないよう…」
そう告げながら、義母の視線は一点を捉えていた。
瑤子――喪服の合わせから伸びる白い首筋は、百合の花を思わせる。喪服の墨染が濃く深いほどに、病弱な未亡人の肌は青く透きとおるほどに白い。
義母は小さく息をつく。彼女も気づいているのだろう、否、気づかないわけがない。
視線に気づいたのだろう、瑤子が顔を上げ、小さく会釈する。青ざめた真珠のような肌が、喪服の併せ目から覗き、わなわなと震えていた。
透き通るほどに血の気の無い、瑤子の肌。
――あれは、だいぶ胸をやられている肌だ、
柊司は、その顔色を、時折喘ぐ華奢な肩を、みてとった。
ぞわりと、心の臓が波立つ感覚に、ごくりと息を飲む。
惣一郎の葬儀が執り行われたのは、その日の昼下がり。
梅雨の烟る空気の中、青ざめた瑤子の顔は、墨染めの喪服にぼんやりと照るようだった。
夫を亡くした若妻、その傍らに座る亡き夫の異母弟――、そして、息子に先立たれた母…
惣一郎の母――柊司の義母は、寝込んでいたのが嘘のように居住まいを正し、棺と対峙していた。
――舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、
老師の読経と共に、香が強く香る。
ぅ――ッ…っ、ゴ、ほ…ッ
微かに、棺を内側から引っ掻くような音がした。思わずはっと祭壇を見やる。
瑤子は瞳を赤く濡らし、苦しげに肩で小さく息をしながら。う、うぅ、と手布に堪えきれぬ嗚咽をもらす。
「うぅ、うゥ――…っ、ご、ホ…―ッぁ、うゥ…」
苦しい程に痛々しい嘆きは、まるで病の発作のようで、
そう、まるで。
ぐ…ッ、ふ、ぅうーーッ…
苦しげな程に沈痛な面持ちの、胸を病んだ未亡人。胸と口元を押さえ、ぜぃぜぃと肩を喘がせると、ぐ、ぅゥッ、と俄かに前にのめった。
はァ、はァ、ハァ、ゼはァァァァッ、、うぅ――、ぅゥ―…!
ゼキぅ――ッ…――ッぅゥ…ぐ、ぅゥ…ッ、
胸の奥を岩が塞いでしまったかのような、無音の喘ぎの後、ぜごり、と岩の軋む音。ぜぉぜぉとあふれ出そうとする咳を、必死で飲み下し、わなわなと手布を押さえる手を震わせ、咽ぶ。
傍らに座しているからこそわかる。ぜひぃ、ぜひぃ、と胸が軋む悲鳴のような音に、ごんごんと痙攣のような咳が泉のように湧く。
恐ろしいほどに病的な咳。
胸の奥から込み上げるそれを、瑤子は口を、胸を必死で押さえ、何とか押し殺そうとしていた。
――ゼェェェぇ…ッえふ…ゥうゥ――…!ッゼェェ…ッ、、っ
幾重にも押し当てられた布越しの、くぐもった咳。後から後から込み上げる胸を穿つような咳を、必死で押さえていたが、
ゼ、ふ…ッ、
瑤子の細い肩が俄に波立つ。
うぅ――、ぅゥ…ッ!
嗚咽するように、白い手布に顔を埋める瑤子。
キぅ――…っゼィッゼィッ、キヒ――…うぅ‥ッ!
傍目には嘆いているようにしか見えないだろう、しかし、ゼキぅ、ゼヒぅ、胸の軋む音が柊司にははっきりと聞こえた。
ぅ、ゥ…!っ ッゴホ…――ッぅゥ…ごッ‥ほ!ゼィゼィ…
苦しげな呻きが、明らかな咳の形になってほとばしりそうになり、ほつれた髪が一筋揺れる。
青ざめた襟元から覗く鎖骨が、ゼキぅ、軋むような音を立てた。
義母の眉がぴくりと動き、瑤子はびくりと身を硬くした。
「瑤子さん、辛いのはわかりますが、お寺様に失礼ですよ」
義母は静かに述べながら、柊司に目配せをする。
――義母も気づいているのだ、この嗚咽が哀しみだけでないことに、
瑤子は必死に咳に成ろうとする胸の澱を、胸を、口元を押さえて押し殺す。
「す、すみませ…ッ――!」
ゼゴぉッ…!ぅう‥ッ、ッキヒ――…!
まるで白い小鳥が、嵐に飲まれていく悲鳴。蝋細工のような瑤子の横顔は、手布の白さが全く目立たないほどに青褪めて白い。
ッ‥ぐ…ふ、ぅゥ‥ッッ!
ゴビゅぅゥゥゥっ、
胸が割れんばかりの喘ぎが鳴り響き、痛みか、苦しみか、瑤子の瞳からつぅと涙の珠が連なった。
「義姉さん…」
墨染の喪服は、瑤子の青く透ける白い肌を際立たせ、哀しみも苦しみもより強く滲ませる。
――依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故――
抹香が湿度を帯びて漂い、まるで香を重ね塗るように濃く匂う。
――ッうゥ…ゼェ、っエッ、ぅうゥ・・!
ぜひゅッ、ぜひゅうゥゥゥ、
手布に顔を埋め、咽び泣くように咳を押し殺す瑤子。
読経に紛れ、その声は遺された若妻が痛々しく咽んでいるようにしか見えない。
「気の毒に。毅然としてはいるけれど…」
「身体も丈夫ではないそうだし、」
親族達はその突然の死を思い、哀しいほど美しい未亡人に哀れみの視線を向けた。
は、ぁァ…――っキヒぅ――…ッゴ、ほ…――っ!う、ぅゥ…!
悲しみに耐え切れなくなったかのように、手布に顔を深く伏せ、うぅ、うぅぅ、白い首筋を引き攣らせ、咳き込むように嗚咽しながら、幾度も華奢な肩を波立たせる。
「義姉さ、」
「柊司さん」
せめてと背を擦ろうとした柊司を、義母が鋭い視線で咎める。
確かに、瑤子が必死で咳を殺しているというのに、背なぞ擦れば、病い身であることが知れ渡ってしまう。
「ぅ、うゥ…――、く、ふッ…ぁ、ぐぅ・・ッ、うゥっ――、」
ゼィィィィィ――っ、ゼィッゼィッゼィゼィゼィ…
烟るような睫毛が、苦悶の涙に濡れる。
ぜゴ、ゼゴり、
途端に濁った胸の病がほとばしり、
「義姉さん――、」
ぎくり、その病的に過ぎる音に、怜悧な義母も眉を顰める。
ッぅぅ――…ゼィゼェェェェ゛ィっ、―うぅゥ…、ぐ、…ッ、
烈しく迸ろうとする咳は嘆きと混ざり合い、うぅ、うぅぅ、と苦しげな嗚咽となってより悲愴に薄煙を切り裂いていく。照るほどに青く白い肌に、喪服の墨色は重く濃くのしかかり、儚げな瑤子を今にも幽世に誘いそうに思える。
ぐ、ッぅゥ―……ッ!ふゼフッ、うゥ―…!ッう…
うッぅゥ…ゼィゼィゼィ――…ッぐ…!うゥゥ……
涙に喉を詰まらせ咽んでは、咳を呼び、また咽び…
哀しみより苦しみが勝り、ゼごり、ゼゴりと背が戦慄き続ける。綾を成す、嘆きと喘ぎ。
「義姉、さ ――っ!」
どくり、ドッドッドッドッ…
気を揉んだせいだろうか、柊司の心の臓が早鐘を打ち始める。だらだらととめどない汗が滴り落ち、
「柊、司さん!」
血の気を失った顔色に、義母も声をあげた。
ぐ、ゥ――…ッ!
痛みを増していく胸を押さえ、柊司は前にのめるようにくずおれた。
ざわざわと参列客が波立つ。
「しゅぅ、じ さ…」
ぜほ、ぜほり、
咳き入りながらも、瑤子が背を擦る。
――違、う、、義姉さんの方が…、
意識が遠のきかけては揺らぐ。
「瑤子さん、柊司さんを部屋へ…」
義母の指示を背中で聞きながら、瑤子と女中とに支えられ、何とか場を辞する。
触れた瑤子の肩は、息づく度に、ゼびぅ、ゴビゅぅ、と嵐の音に打ち震えていた。
葬儀の広間から三部屋奥まった空き室につくと、柊司はずるりと壁にもたれた。
ッは… ぐ、‥ッ――!
女中に差し出された薬を無造作に呷り、発作が遠のくのを荒い生き使いで待つ。女中はばたばたと医師を呼びに駆けていった。
「柊じ、さ…ッ ぅ――っ」
呼びかけが、咳を生む。
っゼほ――、ゼゴ、ぉォォォっ、うゥ…ッ! ウッウッウッ…
ほとばしる咳を、瑤子ははっと手布で抑えたが、胸の嵐は止まずに溢れかえろうとする。
苦しみに歪む顔を袖と手布にうずめ、
うぅゥ・・っうぐゥ…ッ!ゼキうゥゥ―…うゥ…ッ!
っゼゴぉッ、キヒぅ――…ッ!ゼごッ、ゼゴぉおォォォッ、、
悲嘆に暮れるように顔を歪め、胸を押さえ、必死で咳を逃がそうとするが、押さえるほどに胸の病が異音を絡ませて、胸を裂いていく。
ぜぼ、ぜごり、
白い眉間に深く苦しみが刻まれ、ゼィゼィと戦慄くように白い首が、鎖骨が軋む。
ッぐ…うゥぅ・・!
きつく押さえた手布は、その酷い異音にも僅かほどもはためかず、瑤子の顔をさらに青褪めさせた。
ごぅごぅと、荒れ狂う咳の嵐に蹂みにじられる白百合――
柊司は、ぐ、と息を飲んだ。
「無理を、せず‥咳いて、」
汗に塗れ壁に凭れながら、柊司は瑤子の袖を引いた。
ッ――、キヒュ――…っ
一瞬、喘鳴が鋭く響く。
「っ、な、にを…ッ――!」
瑤子の瞳が強張り、背がビクリと波立った。
ッ――、ゼひィ――…ッゼほっ,,ゼほ、ゼぃっゼぃっゼぃッ、、
反駁は形に成らず、ゼゴ、ゼゴりと押し寄せる咳に瑤子はがくりと膝をつく。
その背に、柊司の震える手が触れる。背骨をなぞれるほど咳にやつれた背。
キヒ――…っ、ゼ、ふ…ッ
弾みがついたように胸がぜふりと喘ぎ
っゼぉォォ――‥っ!ゴぉンゴンゴンゴンゴンゴンゴン…っ!
ゼゴぉ――‥っゴぉ゛ンゴぼゴホンゴホンゴホンゴホンゼぉンゼぉンっ、ぅゥッ…!
絶え間ない咳に、瑤子はがくりと膝をつく。まるで胸の奥からずるずると大蛇が這いずり出て来るような、咳、咳、咳。
白足袋が、ずず、と畳になびく。
うぅ、うぅぅ、
押し殺そうとする呻きは怒涛のような咳にかき消され、瑤子は必死に手布と喪服の袖を口元に宛がうが、何の足しにもならない。
――口実に、なれて良かった。
柊司はぜぃぜぃと自分の息が再びもつれるのも構わず、必死に義姉の背をさする。
喪服越しにもざわざわと病の枝葉が咳に吹き荒らされるような震えが伝わる。
っゼキうゥゥ――…ッゼゴぉォォォッ、ゴンゴンゴンゴンゴンゴンッ、ゼぉ゛ォォォッ…――っ!
瑤子はきつく口元を押さえながらも、震える手で袂を漁る。
ゼぇほッゼぉ゛ォォッゼぉンゼぉンゼホンゼホンゴホンゴホンっ…っゼぇェェェィっゼィゼィゼィ…っ
ばた、ばたばた、
小さな包み紙がばらばらと畳に散らばった。
――薬…!
柊司はその見慣れた包み紙をつまみ上げ、洋杯の水に溶く。絶え間ない咳の狭間に瑤子の唇に押し当てた。
「呑んで、義姉さん、」
ふっと、長いまつげが羽ばたいて、生理的な涙に視線が揺らぐ。
ぎり、と発作とは異なる痛みが柊司の胸を捉えた。
ッ…、ゼッ――…ふ、、
瑤子は背中ごと裏返りそうな胸を必死で押さえ、細く白い喉がごふりと鳴って、何とか飲み下す。
ッ――!ゼェェぇぃぜィぜィぜィっゼェェェ――っ…!ぇフッ、
ゼぉンゼぉンゼホンゼホンゼぉッゼぉッ…
戒めが決壊したかのような、怒涛のような咳が溢れた。
ふらついた身体を、咄嗟に柊司は支えたが、
「っく…、」
発作の余韻に、もろとも崩れそうになる。
ッゼェィッ、ゼぃっゼぃッゼぃッ、、ゼゴぉォォッ、ゼホンゼホンゼホンゼホンゼホンゼホゼホ…
ッぜぃッゼぃっ、ぅゥ…ゴ、ほ・・!ゴホンゼホンゼホンゼホンゼホン…っ
喪服の襟から覗く首筋はじっとりと汗に塗れ、病に炙られた蝋燭のよう。
幾百も幾千も咳き入って、ようやく発作は落ち着きを見せた。
ゼィゼィと喘ぐ瑤子の、透けるほどに白い顔。青ざめた真珠質な頬の上を、苦しみの涙がなぞっていた。
乱れた髪が、咳に乾いた唇の上、ひぅひぅと揺れる。
「義姉さ、」
「…ぃ、ないで……くだ、さ・・」
ぜほり、咳に掠れた声がもつれる。
――言わないで、下さい、
未だ虚ろな意識の中で、瑤子は呟いた。ゼィゼィと未だ縺れる吐息の中、ふらりと身を起こし、乱れた髪と襟を正す。
「ご迷惑を…、席に戻りますので、柊司さんは休まれて… ッ――」
ごほ、ごほり、手布に咳を零しながら、楚々と立ち上がろうとする、義姉の手を柊司は掴んだ。
はっと瑤子が振り返る。交差する、病に濡れた眼差しが。
「いいえ、僕も戻ります――」