五月雨
雨は通夜の間も降り止まず、嘆くように降り注いだ。
今朝方やっと熱の下がったばかりの柊司が、逸る胸を押さえて屋敷に着いた頃には、もう兄――正確には異母兄だが――惣一郎の亡骸が、無言の帰宅を遂げていた。
足早に歩む柊司の裾を、色づき始めたばかりの紫陽花が濡らし、土の香を上らせた。
――若奥様のために往診を頼みに行って…
――ハンドルを切り損ねたそうよ、お気の毒に…
女中たちの囁きが、雨音と共になだれ込む。
仏壇の前、惣一郎は南に足を向け、白い布で覆われて横たわっていた。
既に枕飾りや枕屏風が用意され、線香の香りが霧よりも薄く立ち込めていた。
遺された惣一郎の妻、瑤子は居住まい正しく、亡骸の傍らに座していたが、その瞳は虚ろに呆然としていた。
兄の母――亡き父の正妻である義母は、妾腹の子である柊司を引き取り、我が子同然に躾ける気丈な女性だったが、あまりにも突然の事態に床に就いてしまっていた。
ただ一人、義兄の死に向き合う、年若い未亡人。
踏みにじられた、白い桔梗のような憔悴した横顔。ただ一人寄る辺なく夫の棺に寄り添う瑤子。柊司を見止めると、長い睫毛を伏せ、白い手布にごほ、ごほり、と嘆くような咳を零しながら会釈する。
柊司はどくどくと脈打つ胸を押さえる。
――柊司は生まれつき心臓を患っていた。
安静にしていれば日常生活に支障こそなかったが、走ることは勿論、ふとした疲労も発作に繋がり、風邪から肺炎を併発することもしばしばだった。
妾腹の次男であったことから跡取りの資質は求められなかったのが幸いだった。
臥せったり寝付いたりしながらも帝大に通い、小説なぞを書き離れで静養しながら、その日までを数える――停滞し、全てを諦めているが故の、穏やかな日々だった。
――こんな自分より先に、兄が逝ってしまうなんて、
狼狽を隠し切れず、嗚呼、と声を漏れる。
その声に、瑤子はふと青ざめた顔を上げた。
「顔を、兄の顔を、見せて下さい」
口ごもる柊司。未亡人となった瑤子は、こほりと力無い咳を白い厚手の手布に零し、同じ色の布で覆われた夫の顔に視線を落とした。撫でるように、蝋細工のような指がその布を払う。
血の色を失った、兄の顔。
傷ひとつない、端整なままの――、
柊司の胸がどくりと跳ね上がり、
ッ――、ぐ…!
はぁはぁと呼吸が爆ぜる。
「柊司さん――…!」
瑤子が思わず声を挙げ、女中がすわと駆け寄る。
なんとか胸を落ち着かせると、大丈夫、と女中を眼で制した。
「未だ、悪い夢を見ているようで…」
掠れた声で瑤子が呟く。伏せた睫毛の影が、青ざめてやつれた頬に落ちた。
今にも後を追って散る花のような儚げな風情の瑤子。
取り乱すことがないのは瑤子の高雅な血筋のせいか、ことの大きさに受け止めかねているせいか。
月並みな慰めの言葉に、未亡人の細い肩が微かに震えた。
――キぅ、キ、ヒ…っ
柊司ははっとする。雨音の中、蔀戸の軋むような音が、どこからか漏れていた。
三年前の、義母の言葉が甦る。
――幾ら旧家の一人娘とはいえ…… 胸を病んだ娘を…
咲きこぼれる白い芍薬のようだが病弱な瑤子と、資産家の一人息子である惣一郎の婚約を喜ばない者は多かった。
だが利害とはどう転ぶかわからないもので、母を八つの折に亡くし、十七で父を亡くした瑤子の後ろ盾の無さとその遺された財産に、これ幸いとする親族が居たことも確かだった。
舶来の洋装も様になる美丈夫の惣一郎と、華奢で白い花の化生のような瑤子が並び立つ様は、現実味のない絵のような美しさで、
――それが、婚約から一年、祝言を挙げてたった二年で……
柊司は、婚礼の際の瑤子の白無垢姿をまざまざと思い出しながら、喪服の黒に沈んで行くような瑤子を見遣った。
惣一郎の顔の白布の下、もう吐息に震えることさえない唇が、微動だにせず、凍てついていく。
雨が弱まったのか、一瞬線香が強く香った。
――ぅ――、ッ…ごほッ、っうぅ…
喪服の花嫁が、白い手布に顔を伏せ、う、ぅ、二つ咳き込むように咽ぶ。
くふ、うぅ、と痩せた喪服の背を波立たせる瑤子。
悲しみと喪失感が波のように押し寄せてきたかに見えた。細い肩がかたかたと震え、黒い衣が重くのしかかる。
「義姉さん、」
大丈夫かと、問いかけようとした途端、
――柊司、
駆けつけた親族が、なだれ込んできた。瑤子は深く頭を伏せ、そのまま嗚咽めいた声を漏らし、仏間を後にする。
その頼りなげな後姿に、叔父の一人が呟いた。
「……気の毒に、せめて、子供でもいれば…」
――ッく…、っぅう… ッ――…!
その声を聞き終える間もなく、か細い背がわなわなと震え、雨音に揺らぎ遠ざかっていった。
瑤子は口元を押さえ、ゼイゼイと肩を喘がせながら、小走りに廊下を渡り、自室へと向かった。
小間使いさえ近づけたことのない、奥まった自室。縋るように襖を開け、ぴしゃりと閉めた途端、
ゼッ、、ふ…―ぅッ!ゼぉッゼぃッゼぃッゼィゼィッ、、ゼホンゼホンゴホンゴホンゴホゴホゴホゴホッ…!
ッうぅ…ゼほ、ぜェェ――…っ!ゼぃッゼぃッゼぃッゼ…ゼフぅ、うゥ…っ…!!
まるで胸を塞いでいた岩が決壊したかのように、咳がほとばしる。瑤子はがくりと膝を折った。
両の手と分厚い手布できつく口元を押さえるが、烈しい咳は手布から溢れ、蝋細工のような細い指の隙間をぜひぅ、ぜひぅ、と病んだ音で次から次へと滴り落ちる。
ッひ…!ゼふ、ぅ…ゥッ、ゼぉ゛ッ…――!ゼぇほゼホンゴボゴホンゴホンっゼィゼィゼぇェェェィっ
うゥ――…!ゼほ、ゴッ…ほ!ゼぉンっ、ゼホンゼホンゼホンゼホンゼホン…ッ、ぅぁ…ッ、
息を継ぐ間も無い、絶え間ない咳、咳、咳。
瑤子は喪服の袖できつく口を押さえ、何とか押し殺そうとする。
血の気を失った顔は、墨染の袖の中にますます白く、苦しみに歪んだ。
ゼぇィッゼぃッゼぃッ、ゼぉ゛ゼほッ――…ッうゥ…!ゼぇほゼホゴホゴホゴホゴホゴホ…ゼェ、
っエッ、ぅうゥ・・! ぜひゅッ、ぜひゅう――ゥゥ…ッ、
悲鳴のような病んだ笛のような音が雨音を切り裂き、ぜほごほと胸を裏返すような咳が尾を引いた。
瑤子はずるりと文机に縋った。
――ゼゴぉッッ、、ぐッ…ゥ、うぅ――ッ…!
咳を押し殺しながら、袂の二寸四方ほどの包み紙をほどき、中身を口に含み、切子の水差しから一息に水を呷る。
ッぐ、ふ――…ゥう・・・!
反射的に嘔吐しそうになるのを、胸を掻き毟るように押さえ、必死で飲み下した。
ッヒぃィィィ――…っゼぉ゛ンゴぉ゛ンっ、ゼぃッゼぃッゼぃッゼ…ゼフぅ、うゥ…っ…!!
ゼィゼィ、ゴンゴンと、溢れ返る病を、震える手と手布で必死に押し殺す。。
ばりばりと薄氷を踏み締めるような咳は、柔らかな雪色の綿布に受け止められ、嗚咽めいて響き始める。
美しい未亡人は必死で胸を、口を押さえ、獰猛なまでの咳を押し殺そうとするが、
っヒッ、うぅ―…っ!ぅ、え゛ほっ、ゼほぉッッ!!ゼぉンっゼほゼホゼホゼホ…うゥ、
ッぜほっ、ゼひィィぃ…――ゴホンゴホンゼホンゼホゼホゼホ…っ!
波に押し戻されるように、怒涛のような咳にがくりとくずおれた。
白いうなじはじっとりと汗ばみ、ぜぃぜぃと喘ぐ度に肌は濡れた真珠のように青く艶めく。
眉根をきつく寄せ、白い手布に顔を埋めたまま、何度も何度も咳き込む。嘆きのような咳の発作。
ゼぉ゛…ッうゥ―…ゼホゼホ…っ!ゼはッ、ぁッ…、ッゼほゼホゼごッ ぅゥっ――…!
長い睫毛に涙をにじませて、ゼィゼィと必死に蒼ざめた息をつく。
永遠に続くかと思えた咳は、次第に喘ぐ時が長くなって行き緩慢に治まっていった。
瑤子は汗を拭い、乱れた髪を梳いて、もう一度胸を押さえると、ごほりと咳をした。生まれ持った喘息が、ひぅ、と鎌首をもたげたが、吹雪に杉皮が震えるような音は薄れていた。
はぁ、とため息を吐く。
ぐったりと文机にもたれたまま、籐の屑籠に薬包紙をはらりと落とす。
其処には同じ紙が既に幾つも、白い花弁のように捨てられていた。
瑤子はそれらを誤魔化すように、書き損じの半紙を投げ入れ、その上を覆う。
――効き目が、弱くなってきている……
ひと月ほど前、丁度梅雨に差し掛かる頃から、咳が酷くなっていた。
知的で毅然とした武家の出の義母は、口にこそしないものの、あまりにも儚げで虚弱な瑤子に、不満を抱いていることは明らかだった。
だからこそ、妻として完璧でなければならなかった。
病弱だから、年若いからと、そしられることの無いよう、常に凛とした立ち居振る舞いをもってした。
月に幾度か胸の病が燻ることはあっても、決して人前で咳き入ることのないよう、惣一郎が気遣い、発作が治まるまで自室に連れ帰ってくれていた。
日中の無理がたたり、止まらぬ咳に苦しみ続けた夜も、もう大丈夫ですからと固辞する瑤子に、惣一郎は寝ずの看病を続けた。
今日も夜の開けきらぬ内に、雨の中車を出して、それで――
「貴方――、」
その惣一郎は、もういない。
だからこそ、倒れてはいけなかった。最期まで、やり遂げて送らなくては……
疲労からか、胸の病はほんの弾みにごほりと零れがちになっていた。葬儀中に席を立つわけにはいかない……
手布をきりりと握り、押し寄せる悲しみを呑み込もうとした途端、
――ぐッ、、ゥぅ―…ッ!ふゼフッ、ゼぉ゛――…ゴボンッゴぼっゼホンゼホンゼホンゼホン…っ、、
再び濁った咳が込み上げ、瑤子はがくりと喪服の膝をつく。
ゼッ、、ふ…―ぅう…ッ!ッぁ、ゼェぃゼェぃッゼェぃッ、うゥ…ゼほ、ぜェェ――…っ!
うゥ…ッ、ゼふ、ゼヒュゥぅ――うゥ…ッ!、、ゼヒぃ――…ゼホゼホゼホゼホゼホゴンゴン…ッゴホっ、ゴホっ、
苦しみとも悲しみともつかない涙が、咳とともに溢れ出す。
慟哭のような咳は雨音に絡み合い、いつしか嗚咽になるまで喪服の未亡人を苛み続けた。