小雪
――ゴホン、ゴホンゴホンゴホン…ゴホゴホゴホゴホ… っ、
しんしんと、凍てついていく空気が鼓膜まで凍らせるかのような、そんな微かな音だった。
曇天の空から舞い散る小雪の中、女の影が一つ、傘も差さずに楚々と歩んでいた。
――コン、コホンコホンコンコン…ゴホン,ゴホンゴホン・・ッ―――…コンコン…コホンコホン…
影、と見えたのは、女の着物が黒檀のような漆黒だったからだ。
女は喪服を纏っていた。
街中が白く沈んで行くかのようなしじまの中、喪の色はくっきりと女の姿を浮かび上がらせる。
――ゴ、ほ…ッコンコホンコホンゴホンゴホンゴホンゴホンゴホン……っ、、
ぅ――、ッ…ごほッ、ゴホンコホンコホンコホンコホンコンコン…っうぅ…
黒いショールに包まれた肩は、小刻みに空気を引っかくような咳に震え続けている。
松の木も、山茶花の垣根も、何もかもが白い沈黙に沈んでいた。
通いなれた道のはずがまるで幽世にいざなわれているかのように思えてしまう。
――本当にそうならば、どれだけ良いか、
女は縹深い瞳を伏せ、ショールで覆った口元から、ごほり、と一つまた深い咳を零した。
墨染めの衣が黒ければ黒いほど、女の美貌は雪よりも眩く、痛々しいほどに際立っていた。
携えた手桶には、柄杓の他に白い野菊と、赤い南天。
嗚呼、夫を亡くしたのだな、と誰もが思い至るほど、女は儚げで今にも雪風に攫われそうだった。
ッ――キぅ、
血の気の薄い唇に、軋むような音と共に白い吐息が灯る。
ッ――、ごほ、ごほ、ゴホンゴホンゴホンゴホンゴホンゴホン、っゼヒぅ…ッう…――、ご、ほ…ッ、、
咳き入りながら、墓所へ向かう女――未亡人。
まるで季節はずれの蝶がもがいているような、力なくくぐもった咳。
咳き入る度、未亡人は黒いショールを口元に掻き寄せ、物憂げに眉を寄せては、長い睫毛を伏せた。
肩にはらはらと雪が六つ花を咲かせた。
ぜほ、ごほり、ごほ、ごほり、
咳が咳を誘い、未亡人はショールに深く顔を埋める。
――っ、ゼほッ、ゼフ…ッうゥ…ごほ、ゴホゴホゴホゴホ…ッゼヒうゥ…っ!
舞う程度の雪にも関わらず、胸に吹雪が巣食っているかのような、幾重にも爛れた音が咳に絡みつく。
胸を長く患う者特有の咳だった。
黒いショールに覆われた頬は、雪よりも白く真珠のような青い艶を帯び始め、喪の黒を冴え冴えと際立たせる。
ぜぃぜぃともつれた吐息が白く、ショールの上に灯る。
うゥ――…っ、ゼぉンっゴホンゴホンゴホンゴホンゴホンゴホン…
未亡人は口元と胸を抑えたが、なんの足しにもならず、咳ばかりが薄闇を穿った。
咳き入れば咳き入るほど、凍てついた空気が胸をきぅきぅと締め付けて、また咳になる。
どど、と傍らの松の木から雪が雪崩れ落ちる。俄かに風が強まった。
ゼッぉほ…ッ!っゼほンッ、ゼホンゴホンゴホンゴホンゴホンゴホン…ぜぃッぜぃゼィゼィ…
岩戸を押し広げるような咳とも音とも付かない喘ぎの後、必死で戸を支えるように震える咳が迸る。まるで皹を広げるように反響する咳、咳、咳。
とさり、未亡人の携えた手桶が落ち、野菊と南天がばさりと雪の上に咲く。
キ、ヒぅ…――っ…
甲高い笛のような吐息が、肋骨の間から軋むように響いて、雪の暗がりを切り裂いた。未亡人はぜほぜほと烈しい咳に身を折り曲げた。ショールがはらりと落ち、陽を浴びたことがないかのような白く細い首筋が露わになる。
未亡人は傍らの塀に縋り、ぜぃぜぃと喪服の肩を喘がせたが、か細い身はそのままずるりと傾ぎ、下駄の爪皮がつっと雪を掃いた。
「――義姉さん!」
突如、未亡人の身体は抱きとめられた。
眩む意識の中、その腕がまるで女のように華奢なことに気づき、はっと相手を振り仰ぐ。
「しゅう、じ――さん…」
ぜほ、ぜほり、
咳き入りながら未亡人はその名を呼んだ。
柊司と呼ばれたその青年の顔には、焦りと不安が色濃く浮かんでいた。
屋敷から早足で追ってきたのだろう、柊司もまた息を乱し、ぜぃぜぃと喘ぎを白く、雪に灯らせていた。
黒縁の眼鏡をかけていなければ、女性的とさえ言える繊細な面差しに、未亡人は微かに亡き夫を想った。
ッ――、ゼひィ――…ッゼほっ,,ゼほ、ゼホンゼホゴホゴホ…っうゥ――…ッゴホゴホゼホゼホっ…
未亡人は柊司から身を背け、喪服の袂で咳を押し殺そうとする。
烈しい咳は袂から溢れ、蝋細工のような細い指の隙間をぜひぅ、ぜひぅ、と病んだ音で次から次へと響いた。
後れ毛のほつれた、暗がりの真珠のような首筋に、苦しみの汗が浮かんでいる。
柊司は滑り落ちた毛織のショールを拾い上げ、雪を払うと、未亡人の肩にかけ直した。
ッうゥ… ゼィっゼィっ、、ッぅ――ご…ほッ――…!ゼェィゼィゼィゼィ…
未亡人のやつれた背が、押し殺されずに喘鳴となってほとばしる咳に波立つ。
拒まれると知りつつも、柊司はその背をさすった。
喪服越しにもはっきりと、骨の在り処とぜひ、ばり、と薄氷を踏むような胸の音が伝わる。
「大丈夫、ですか、」
そう問いかける眼鏡の奥の瞳はほの暗く、哀しげだった。
未亡人は無意識に柊司の腕に縋りながら、震える手で懐から薬包紙を取り出し、薬を口に含んだ。
ッぐ…ぅっ、ぅ――…っ! ゴ、ふ……
咽返ろうとする胸を押さえ、必死で飲み下す。ぜぃぜぃと華奢な肩が起伏し、百の喘鳴と千の咳を繰り返しながらも、凶暴なまでの咳は僅かずつ治まっていった。
未亡人はぐったりと、苦しげに長く濃いまつ毛を閉じて、胸を喘がせる。
唇に黒髪が一筋貼りついて、ヒゥ、と震えたとき、雪がひとひら、唇に咲いた。
見止めるや否や、ゼひ、と零れた白い咳に溶ける。
「す、み…ま、せん・・・」
――ッゼほっ、ゼぉ、ゴホゴホゴホゴホゴホ…っ、
未亡人はかすれた声で呟くと、柊司から身を背け、ふらりと立ち上がった。
「まだ休んでいた方が、」
つぶやく柊司に未亡人は俯いたまま、いいえ、と小さく呟いた。
「……何もこんな雪の日に、」
墓参など、と柊司が続けるより早く
「月命日、なのです…… あの人の」
弱弱しくも凛とした声で、未亡人が柊司を制した。こほり、咳き入りながらショールを胸元へ掻き寄せる。
柊司の口元に、ため息が白く灯った。どくり、と胸の奥が不穏にうごめく
「せめて付き添いを、僕で不都合なら、誰か家の者を呼んで来ますから」
「柊司さん、」
ぴしゃりと遮るように、その声は響いた。
「一人で…あの人を偲びたいのです、」
悲痛な気迫が瞳に宿ったと思うや、
――ゴホっ、、ゼヒぅ――…ッ、
「義姉さん!」
言葉を切り裂くように未亡人の胸から咳が込み上げた。
「大丈夫です、から…――」
ぜほ、ごほり、
胸を裂くような咳を繰り返しながらも、ふらりと場を辞する。
「――早く、お戻りを。柊司さんがまた熱を出されたら、お義母さまも…私も、」
未亡人はショールから横目で柊司の、胸の辺りを見遣った。
ぎくりと、まるでピンで刺された蝶のように、柊司の足はその場に押しとどめられる。
ゆらり、喪服の袖が雪に舞う。
――ゴホン、ゴホンゴホン…ゴホ、ヒぅ、こほ コホンコホンコホン…
喪服の後ろ姿が、雪と咳に揺らぐ。
――瑤子さん、
口にしようとした名前が、胸の奥で燻ったまま、痛みとなって疼いている。
――コホン、コンコホンコホンゴホン…ゴホン、
ゴホゴホゴホゴホ… コン、コホンコホン…
足音さえ埋もれさす小雪の中、咳ばかりが柊司の鼓膜に張り付いては、溶けていった。