第Ⅰ篇《》 第一章(始まり)1話〔はじまり〕
窓から差し込む日差しで、青年は目を覚ました。
青年の名前は田中康介。髪の長さは長すぎず短すぎず、といった感じで、まだ幼さが向けきれていない顔立ちだ。
起き上がり掛け時計を見ると、6時10分を過ぎるところだった。起床時間の20分ほど前に起きてしまったようだ。
二度寝をしても良かったのだが、 気になることがあった。
何故部屋に日が差しているのか、だ。
怪訝に思い掛け時計の反対側にある窓に視線を向けた。
いつも閉めてあるはずのカーテンが開いている。
康介がカーテンを開けることはない。なのにどうして開いているのか……。
この部屋の出入りの方法は、ドア一つだけ。昨夜鍵をかけ忘れたのか、と思いドアの方に視線を向けたが、ちゃんと鍵はかかっている。この部屋の鍵を持っているのは、康介だけ。ドアを無理やり開けた跡もなく、部屋の鍵はちゃんと机の上に置いてある。
ふぅ、とため息を吐き、昨夜自分で開けたのだろうと結論付け、考えるのをやめた。
無駄な時間を過ごしたな、と思いカーテンを閉めた。
時計は、6時15分を過ぎたところだった。
ベッドに戻ろうか、と思ったが、起床時間前には誰かしら起こしに来る。だから、惰眠をむさぼることも出来ないだろう。
そんなことを思っていると、階段を降りる複数の足音が聞こえてきた。
「女子の誰かが起きたのか……。こんな早くにご苦労なこったなぁ」
康介はベッド横のクローゼットを開けて身支度をし、部屋をあとにした。
☆
朝早くから、食堂を掃除している少女がいた。
彼女の名前は伊藤結衣。腰くらいの長さの髪を後ろで結わいている。
背が低く、スレンダーで、中学生と間違われるほどの童顔だが、高校二年生である。
制服の上からエプロンを着けている結衣は、ほうきで念入りに掃き掃除をしたあと、テーブルを拭いていた。
すると、食堂に入ってくる子供たちの声が聞こえてきた。
入ってきた三人の少女たちは、驚いた顔をして結衣を見つめている。
結衣は、子供たちの方を向いて微笑んだ。
「みんな、おはよう」
子供たちは、戸惑いながら、「おはよう」と挨拶をした。
少女たちが戸惑うのも仕方がないだろう。
何故なら、この施設は家事を当番制でやっており、預けられている子供たちが基本的にやっているからだ。
少女たちは、今週私たちが食堂の掃除だよね?、と顔を見合わせていた。
そんな中、一人の少女が結衣に駆け寄り声をかけた。
「ねぇ、結衣ちゃん……、今週当番じゃないよね?」
結衣は、振り返り答えた。
「うん、当番じゃないよ」
「じゃあ、どうして食堂の掃除をしてるの?」
「朝早くに目が覚めちゃって、やることなかったから、施設中を掃除してたんだよ」
「そんなんだ……」
そんなやり取りをしていると食堂の入り口の方から女性の声がした。
「あんたたち、そんなところに突っ立ってたらジャマよ」
食堂に入ってきた女性は、この施設で施設長をやっている千秋だ。
ダークブラウンの髪を肩くらいの長さまで伸ばしている。
誰も彼女の本名を知らない。
さらに彼女の素性やどういう経緯で施設長をやっているのか、など、謎が多いのだ。
だけど、子供たちのことになるとどんなに大切な用事があっても子供たちのところに駆けつけるという、優しい面もある。
だが、怒るととてつもなく恐く、子供たちは怒らせないように気を付けていたりする。
子供たちの間では千秋は、元ヤクザなのではないかとささやかれている。
ぺこり、と頭を下げた二人も結衣の方に駆け寄って行った。
少女たちの駆けた方を見た千秋は、結衣を見つけ感心したように頷き近付いてきた。
「結衣。今日は、当番じゃないのに早起きねぇ……あの坊やにも見習って欲しいものね」
「それは、俺のことを言ってるのか?千秋」
食堂にいた全員が声が発せられた方を向いた。
視線の先にいたのは、食堂の入り口に立っている康介だった。
千秋を除いた食堂に居た全員が怪訝そうに見つめた。その理由は、康介はこれまで一度として、起床時間前に自室を出てきたことがないからだ。
いつもは、誰かが起こしにいかない限り、起きて来ようとしない。
この事は食堂にいる全員だけでなく、施設で暮らしている子供全員が知っていることだ。
「やぁ、坊や。今日はずいぶんと早起きじゃない。熱でもあるんじゃないの?」
クスクス、と笑いながら康介に近付く千秋。
額を触ろうと伸ばした千秋の手は、康介によって払い除けられた。
「そんなわけねぇだろ」
康介は言い放って睨み付けた。
それでも千秋は、クスクス、と笑っていた。
康介はそんな千秋の様子を見て、部屋から出てこなければよかった、と言う風な顔になった。
そのまま食堂を出ようとしたが、
「あっ!?待って、康介くん!」
と言う声に引き留められた。
康介は振り向き、声の主を睨んだ。
睨んだ先には、驚いた顔をした結衣がいた。
「……なんか用か?」
「え、え~と……、一緒に朝食の準備しない?」
結衣は顔が頬を赤くしがら問いかけた。
「…………」
「だめ……かな?」
小首を傾げて康介を見つめる結衣。
康介は困ったように頭を掻き、ため息を吐いた。
「まぁ、いいけど……」
「本当に!!」
結衣は叫び小走りで康介に近付いた。
「あぁ、暇だからな……」
康介はそっぽを向いて答えた。
あまりの嬉しさに顔が綻び、そわそわしている結衣。
何故、ここまで嬉しそうにしているかと言うと、話しは五年前に遡る。
☆
二人が初めて会ったのは、五年前の四月の中旬頃。
最初の数週間は、康介、結衣、千秋の三人だけだった。
千秋はほとんど施設に居らず、結衣と康介の二人っきりで施設に居ることが多かった。
結衣は積極的に声をかけたのだが、康介は頷くだけだった。
二人が出会ってから一週間くらい経ったある日、康介の方から話しかけてきた。
結衣は嬉しい反面『急にどうしたんだろう?』と、疑問に思った。
その日以来、康介から話しかけてくることがあるようになったが、談笑と言える会話は全くなかった。
それから数週間後、新しく男の子一人と女の子二人の計三人の子供が施設に預けられた。
男の子は康介たちの二つ下で、女の子の一人は男の子の一つ下の妹、もう一人の女の子は今年小学校に入学したばかりの子だ。
案の定、千秋はほとんど施設に居らず、康介が積極的に三人の面倒を見るとは思えない、と結論付け……いや、決めつけた結衣は三人の面倒を見ることにした。
結果として、結衣は康介とゆっくり話す時間が取れず、康介に会っても挨拶をする程度になってしまった。
それから約一年が経ち、康介と結衣は中学校に進学した。
その間に五人子供が増えた。
うち二人は二つ下の女の子で、結衣を手伝ってくれて多少は、楽になったが、残りの三人は、幼稚園児一人と小学二年生が二人。そして、三人ともやんちゃな男の子だった。
結衣一人がやることは減ったが、"仕事量"で見ると、ほとんど変わらないと言っていいほどだった。
ちなみに、千秋に「康介、中学校には結衣と一緒に登下校しなさい」と言われた康介は結衣と登下校することになった。
結衣は康介との登下校が楽しみで仕様がないのだ。
理由は言うまでもないだろうが、康介と話せるからだ。
中学一年生の二学期にある出来事があった――――。
☆
昇降口にいつも通りに行ったけど、いつも私を待ってる田中くんが、今日はいなかった。
今日遅くなるって言ってなかったよねって思いながら周りを見回していると、田中くんが外に出ていくのが見てた。
急いで後を追ったけど、田中くんがカバンを持っていないことに気が付いた。
声をかけようか悩んでると、田中くんは校門じゃなくて、校舎裏の方へ歩いていた。
どうして校舎裏に、と疑問に思ったけど、気付かれないように後を追った。
私が校舎の影から顔を出すと、そこには田中くんともう一人の男子生徒がいた。
その男子生徒に私は見覚えがあった。
中学校に入学したばかりの頃、私に執拗に絡んできた二年の先輩がいた。
『お話しがあるので体育館裏に来てください』という、手紙が下駄箱に入ってたから、その手紙に従って、体育館裏に行くと、差出人の男子生徒と長身の男子生徒、坊主頭の男子生徒の計三人の先輩がいた。
今田中くんといるは、坊主頭の先輩だ。
坊主頭の先――いや、髪が伸びてるから、元坊主頭の先輩と田中くんは、向き合って何かを話してるけど、ここからじゃ遠すぎて会話が聞こえないな。
私が諦めて戻ろうとしたとき、「ふざけんじゃねぇ!!」って言う、怒鳴り声が聞こえた。
何事かと思ってまた校舎の影から顔を出したら、「――……結衣をなんだと思ってんだぁ!!」って怒鳴りながら田中くんが元坊主頭の先輩を殴り飛ばしたところだった。
何があったのか理解出来ず私は目を丸くしていた。
元坊主頭の先輩は田中くんを見上げていたけど、殴られたと理解したら、「テメェ……何しやがんだ!!」って怒鳴りながら田中くんに殴りかかった。
その後殴り合いになって、田中くんはボコボコにされて、地面に背向けに倒れて動かなくなっちゃった。
私があたふたしていると、元坊主頭の先輩が私がいる方に歩いてきた。
咄嗟に草むらに隠れて、元坊主頭の先輩が通りすぎるのを待った。
『気づかれませんように』と祈りながら……。
元坊主頭の先輩は気付かずに通りすぎていった。
私は元坊主頭の先輩が完全に見えなくなったことを確認して、田中くんの元に駆け寄った。
そして「田中くん、大丈夫?」と声をかけた。
だけど、田中くんは私の問いかけに答えないで、「見てたのか?」と問い返した。
首を縦に振ると、不愉快そうな顔をして、「そうか……」とため息混じりに言って立ち上がった。
そして「大丈夫だ」と言った。
何があったのか問いかけようとしたけど、田中くんが通りすぎ際に「お前のことは俺が守ってやるよ」と言った。
少し固まってから「えっ……」と振り返ったときには、田中くんは大分離れたところを歩いていた。
取り残された私は田中くんの言ったことを何度か呟いて、顔がどんどん熱くなるのを感じた。
☆
それからの結衣は康介と会うたびに赤面して、会話どころか挨拶するのすらやっとの状態になってしまって、登下校中も一言を喋らないで康介の後ろを着いていくだけになってしまった。
それでも結衣は、何度か会話をしようと声をかけるのだが、康介の顔を見ると頭の中が真っ白になり何も言い出せず、「やっば、何でもない…………」と言って、立ち去っていた。
そんなことを何度か繰り返していたある日、「用がないなら話しかけないでくれる」と言い放たれてしまった。
それ以来、お互いに話しかけずに今に至る。
☆
康介の隣で、必死に口を押さえて笑いを堪えている千秋。
そんな千秋を一瞥し、康介は結衣を見た。
約4年前のことを覚えていない康介は、俺と話せてそんなに嬉しいのか?、と思いながら椅子に腰かけた。
一方結衣は、未だに顔が綻んでいる。
そんな姿を見ていた三人の少女は、唖然としている。
みんなの視線が集まっていることに気が付くと耳まで真っ赤にして結衣は、顔を隠してしゃがんでしまった。
康介は呆れたようにため息を吐いた。
「で、俺は何をすればいいんだ」
結衣は突然話しかけられて戸惑ったが、それでもなんとか答えようとするが、なかなか言葉が出ずにいた結衣に千秋が助け船を出すように口を開いた。
「坊や、朝食の用意を手伝って貰えるかな?それでいいわよね、結衣」
「はい……」
しゃがんだまま答えた。
「だそうだよ、坊や。さあ、行くわよ」
千秋はそう言うと厨房に入っていった。
康介は結衣を一瞥し、千秋を追って厨房に入っていった。
結衣はまた顔を手で隠してしまった。
「はぁ、折角話しかけられたのに私なにやってるんだろう……」
と結衣は小声で呟いた。
しゃがんだままの結衣を心配そうに見つめる少女たちはどうしたらいいのか困惑していた。
☆
康介が部屋から出ていって数秒経ったとき、ガタッ、と物音がした。
[やっぱり、見えてないかぁ]
椅子は動いただけで、そこには誰もいない。
それだけでなく部屋に声の主の姿すらない。
椅子が元の位置に戻されたかと思うと、今度はカーテンが開けられた。
「今日も………晴れたなぁ……」
寂しさを含んだ声音が響いた。
カーテンを閉めながらため息を吐く音。
ベッドが人の形にへこみ、
「……もうすぐか、……もうすぐあいつの誕生日が来る――」
男の声はそこで途切れ、ベッドは不自然に元に戻った。
まるで、元からそこには"何も"なかったかのように………。
☆
この施設の起床時間は6時30分である。
朝食の時間は起床時間から30分後の7時。
朝食のメニューは、その日によって違うが大体ご飯と味噌汁と焼き魚だ。
今、食堂には千秋と康介の作った朝食が配膳され始めていた。
現在の時刻は6時50分を回るところだった。
食堂に入ってくる子供たちは驚きの声で「康介さんが起きてる」「こーにぃが起きてる」「田中さんが起きてる」「なにかあったのかな?」などと、口々に言っていた。
康介はその様子を尻目に配膳を続けた――――。
☆
配膳が終わり、施設の子供たちが全員席に着いたことを確認した千秋は、
「全員席に着いたわね。それじゃあ……手を合わせて、いただきます」
「「いただきます!!」」
みんな元気よく号令をした。
みんなで食事をすることは千秋が決めた施設のルールの1つである。
この施設――向日葵園は簡単に言うと児童養護施設である。
他の施設と違うところがあるとすれば、ここには"問題児"が集まり安いということだ。
たらい回しにされた子供たちが最終的に辿り着くのがここ、向日葵園である。
この施設で問題を起こせば施設長の千秋が鉄拳を飛ばす。まぁ、グーパンである。
そんな事して問題にならないのか、と思うだろうが、ここにいる子供たちは、まだマシだ、と思っている。
何故なら、虐待やいじめなどと、言ったことにあっている子供がいるからだ。
食事が終わり、小学生・中学生は一緒に、高校生はそれぞれ別々に学校に向かった。と言っても、高校生は康介と結衣だけなのだが。
康介はと言うと…………食堂にいた。
一年生のときの康介は、各学期の必要な出席日数分しか学校に行っていない。
千秋はこのことをちゃんと把握している。
なので今日もサボるつもりだった
だが、今日はそうもいかなかった。理由は、結衣が一緒に登校したいと言ってきたからだ。
康介は困りながらも承諾し、一緒に登校することになった。
☆
二人は向日葵園から歩いて20分くらいの公園近くまで来ていた。
結衣は康介の一・二歩後ろを歩いている。
頬を赤らめてそわそわしている結衣が康介の方を向いて問いかけた。
「康介くん……今まで学校に来てなかったけど…………いつもどこにいたの?」
「………あの公園」
指を差しながら答える。
結衣は小首を傾げながら聞き返した。
「ずっとあの公園にいるの?」
「ああ……」
「退屈しないの?」
「……学校よりはマシかな」
「あっ…………」
結衣は俯いてしまった。
康介が学校で何て言われているのか、知っている結衣は気まずそうにしていた。
康介は結衣を一瞥し、
「気にすることねぇよ、アイツらの好きなように言わせておけば良いのさ」
「うん……ありがとう」
俯いたまま答える。
気……使わせちまったな、と康介は心の中で呟いた。
お互い黙って歩いていたが、康介が結衣に視線を向けず、口を開いた。
「このペースで行ったら、遅刻しないか」
「え?……」
突然話し掛けられ、戸惑いながらも腕時計を確認した結衣は涙目で叫んだ。
「ど、どうしよう。このままじゃ、遅刻しちゃうよ」
「そうか」
素っ気なく答える康介には対して結衣は血相を変えて更に叫んだ。
「そ、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないよ!!早く行かないと」
結衣は走り出したが、康介は焦らずのんびり歩いていた。
「康介クン!!急いでよ!!」
「……分かったよ」
ため息混じりに言うと、結衣に近付いた。
「ちゃんと掴まってろよ」
「え?」
言ってる意味が分からない、と言う風な顔をした結衣だったが、次の瞬間ひゃっ、と可愛らしい声を上げた。
結衣は赤面している。
「こ、ここ康介くん何してるの!?」
「何って……、遅刻したくないんだろ?」
「え、あっ、うん……じゃなくて、答えになってないし、どうして"お姫様だっこ"する必要があるの!!」
そう、結衣はお姫様だっこをされていたのだ。
結衣の抗議の声を気にせず、康介は走り出した。
「それじゃ行くか」
「いやぁぁぁぁぁ」
結衣は道中ずっと絶叫していた……。
☆
康介と結衣は学校近くの住宅街を歩いていた。
今の時刻は8時15分を過ぎたところだ。
結衣は少し不機嫌そうな顔をして早足で歩いていた。
一方、康介の左頬は赤くなっており、結衣の後ろを歩いていた。
話しは数分前に遡る――。
人気の少ない路地を走っていた康介は、大分学校に近づいたことだし、この辺からなら歩いてでも間に合うだろう、と思い足を止め結衣を降ろした。
だが、結衣は歩こうとせず佇んでいた。
不審に思い近付いた瞬間、結衣が振り返りその勢いのまま康介の左頬目掛けて平手打ちをしようとした。
そこで、康介は二つの違和感に気が付いた。
1つ目は、康介自身が走ってきた"距離"だ。
あの公園から学校まで康介が走って15分前後はかかるはず、だが今の時刻は8時10分前、結衣を抱き抱えたとき、結衣の腕時計を見たがそのときの時刻は8時5分だった。
人気の少ない路地を選んで遠回りしてここまで走ってきたはずだから10分は経っていると思っていたからだ。
2つ目は、結衣の平手がほぼ"止まって"見えていたこと。
結衣は右手首に時計を付けているので、そのときに時刻を確認し、違和感を感じたのである。
結衣の平手が左頬に近付くなか、
(少し体を動かせば避けられるよなぁ。でも、俺はこいつを泣かせちまったからな。本当に悪いことしちまったな。避けずに受けるか)
平手打ちを受ける覚悟を決めた。
平手打ちは、結衣にとっては短い出来事だったが、康介にとってはとても長い出来事であった。
それから、約5分間、康介は何度も結衣に謝ろうと声をかけたが、涙目で睨まれなにも言えないでいた。
康介にとって他人がどうなろうが知ったこっちゃないのだが、結衣が泣いていたりすると、モヤモヤ、となんとも言えない気持ちになるのだ。
どうしてこんな気持ちになるのか、康介自身分かっていないが、結衣にすぐ謝りたいと思っている。
だが、結衣の目を見ると言葉がうまく出なくなる。
結衣の目には、悲しみと恐怖の両方がこもっていた。
康介は今まで恐怖の眼差しで見られることはあったが、悲しみと恐怖の両方がこもった眼差しで、見られたことがなかった。
と言うか、康介に対して悲しげな目を向けるのは、結衣が初めてだった。
大抵の人間は、康介に侮蔑の眼差しを向けてくる。
だからなのだろうか……結衣に恐怖の眼差しを向けられることが不快でしょうがなかった。
意を決し、結衣の前に出た康介は頭を下げながら謝った。
「さっきはごめん。俺が無神経過ぎた。おまえの言うことなら、何でも聞く。ここで土下座しろってんなら、すぐにやる。俺にいなくなって欲しいなら、向日葵園が出ていく。だから、その……許して欲しい」
結衣は突然のことに面食らっていた。
その間も康介は頭を下げ続けている。
結衣は混乱した頭で、
「あ、え~と。じ、じゃあ、今度一緒に出かけてくれる?」
もじもじしながら康介を見つめて言った。
康介は結衣の要求が想定外だったのか、目を見開いて戸惑っていると、
「嫌だよね……うん、何か考え――」
「いや、そうじゃなくて」
結衣の言葉を康介は少し焦りを含んだ声で遮った。
えっ、と思わず素っ頓狂な声が出てしまった結衣。
「その……嫌って訳じゃないけど……おまえは俺と出掛けて何がやりたいんだ?」
「えっと……その……特に深い意味はなくてただ康介くんとブラブラ出かけたいなって思っただけで…………。うん、それだけ」
「そうか……、うん、分かった。いつか一緒に出かけるか」
頭を掻きながら答えた康介に対して、
「えっ、いいの?」
結衣はパッ、と顔を明るくして詰め寄ってきた。
「あ、ああ」
少し後退ったが、結衣の笑顔を見て安堵した。そこであることに気づいた。
「なぁ今何時だ?」
はっ、と思い出したように腕時計を見た結衣は固まっていた。
不振に思った康介は、腕時計を見た。今の時刻は8時20分頃。本鈴が鳴るまであと約10分。
走れば間に合うが、抱っこしてさっき泣かせてしまったから、同じことは出来ないなぁ、と考えていると、
「……ねぇ……康介くん?」
顔を赤くして、もじもじとしながら康介の顔を見つめる結衣。
康介は首を傾げながら、
「ん?…なんだ?」
「あ、あの……康介くんって走るの早いよね?」
「ああ?」
「そ、その………」
「?」
もじもじしながら口ごもる結衣。
早く行かないと遅刻するんだけどなぁ、と考えながら学校の方を向いたとき、
「康介クン!!私を抱っこして、学校まで走って!!」
結衣が叫んだ。
えっ、と今度は康介が素っ頓狂な声を出してしまった。
「康介クン早く!!遅刻しちゃうよ」
耳まで真っ赤にして、康介を急かした。
そんな様子を見て結衣の心境を察した康介は、
「分かった。ちゃんと掴まれよ」
結衣をまたお姫様だっこした。
「う、うん」
康介はまた学校に向かって走り出したのだった。
☆
康介と結衣は無事学校に着いた。
康介は数分前まで全力疾走していたはずなのにまったく"息が上がっていなかった"。
自分でも不思議に思いながら校舎を目指していた。
結衣はと言うと、康介の少し先を歩いていた。また機嫌を損ねた訳ではない。
康介は校内ではよく思われていない。
だから、俺と一緒に登校するとおまえも後ろ指を指されるかもしれないから少し離れて登校しよう、と提案した。
結衣は渋々了承し、少し先を歩いているのだ。
康介は結衣の後ろ姿を見ていた。
(あんなに離れる必要あるのか?それに今の時間帯、登校する生徒は少なすぎる訳じゃないんだから、そこまで急がんでも?……そういや、俺とあいつは、同じクラスらしいなぁ)
康介は周りに視線に向けた。そこであることに気がついた。
(そういや、いつと通りに見えるようになったな……。あれはなんだったんだろうか?…………ん?そういや、アイツをお姫様抱っこしてけど、重さを全然感じなかったな……)
少し考えた康介は、分からんことを考えても仕方ないか、と締め括ると校内に入っていった。
☆
結衣は自分の教室の近くまで来ていた。
教室に入った結衣に出迎えたのは、数人の女子生徒だった。
「あ、結衣おはよう」
「うん、おはよう」
「結衣、今日遅かったじゃん」
「そうそう、何かあったの?」
「うん、向日葵園の手伝いで遅くなっただけだよ。何か変なことにあったりしてないよ」
結衣は自分の言葉に自信がなかった。
言うまでもないだろうが、二回も康介にお姫様だっこをされてなにもなかった、とは言い切れないないからだ。
結衣は荷物を自分の席に置いて、先程の女子生徒たちと談話していたときだ、教室にいる全員がドアの方を凝視した。
そこに立っていたのは康介だった。
結衣はなんとなく、腕時計に目を落とした。
時計を見た結衣は目を疑った。
今の時刻は8時30分前。
結衣が教室に着いた時間から約5分経っていた。
康介と結衣は離れて歩いていたが、ここまで時間が開くとは思っていなかったのだ。
気になり話しかけようとしたとき、チャイムがなり、担任が教室に入ってきた。
「お前ら、ホームルーム始めるぞ。席に着け」
結衣は渋々席に着いた。
☆
一時限目数学。
「田中!!なに寝てんだ!!」
…………康介は、爆す――睡眠学習をしていた。
「田中!!」
「……んん?」
康介は何事かと顔を上げた。
数学の担当教師は頭を掻きながら、
「田中よぉ、おまえやっと来たと思ったら、居眠りとはどういうことだぁ」
「………………、もう"覚えている"ので、授業を受けても意味がありませんから」
「進級してから学校に来てないおまえがなに言ってるんだ!!」
康介は耳を傾けず、また眠り始めた。
そのあとも教師は怒鳴った続けたが、康介は聞く耳持たず眠り続けた。
教師は諦め、授業を再開した。
☆
休み時間、結衣は朝のことを聞こうと康介に話し掛けようとしたが、康介はいつの間にか居なくなっていた。
二時限目が始まる少し前に戻ってきた。
話し掛けようとしたが、チャイムが鳴り、教師が教室に来る。
二時限目も一時限目同様、堂々と居眠りをし、教師に怒られ、一度は起きるが「もう覚えているので、授業を受けても意味がありませんから」と言うと、また眠ってしまい、教師は手に負えないと諦め、授業を再開する。
そのあとも、三時限目と四時限目も一・二時限目同様に居眠り、休み時間は突然いなくなり、授業開始前に戻ってくる、を繰り返した。
☆
昼休みになり、教室を出ようとした康介を引き留める声があった。
「康介くん、待って!!」
声の主は頬を赤く染めている結衣だった。
クラスメイト全員が驚きの眼差しで結衣を見ていた。
クラス中の視線が自分に集まってると気が付くと耳まで赤くなり俯いた。
康介は結衣に振り向かず、
「着いてこい」
と、だけを言うと教室を出ていった。
結衣は康介のあとを走って追いかけた。
クラスメイトは全員、唖然としていた。
中庭までやって来た康介と結衣はベンチに腰かけて、お弁当を開いた。
康介はお弁当を食べながら、顔がまだ赤い結衣に問いかけた。
「んで、何のようだ?」
結衣は少し悩んでから康介の顔を見て、頬が赤いままの顔で口を開いた。
「その……、朝来るのが遅かったけど、何かあったの?」
康介の目を真っ直ぐ見て結衣は問いかけた。
「…………先生に捕まってたんだよ」
「そうだったんだ」
気まずそうに視線を逸らした結衣。
康介はため息混じりに、
「気にすることねぇよ」
「うん……」
結衣は俯いたまま答えた。
「話しはそれだけか?」
「えっと……、康介くんは一年生のときも良く居眠りしてたの?」
「ああ」
「授業を受けても意味がないから?」
「ああ」
「でも、それじゃあ、分からないところがあっても聞けないよ?」
「分からないところなんてねぇよ」
「えっ!?それってどう――」
どういうこと、と言う前に康介が遮った。
「教科書を読めば、覚えられるから教えて貰う必要がない……」
寂しそうな目で言う康介。
そんな横顔を結衣は見つめていた。
彼女の胸中を知ってか知らずか、康介は遠い記憶を遡るように目を閉じ、
「だけどな………、俺がこうしてここにいられるのは、千秋や向日葵園のみんながいたからだ」
結衣は驚きで言葉が出なかった。
その理由は、康介が千秋以外の人と話してる姿を結衣はあまり見たことがないからだ。
高校に上がってからは少しは話していたが、上がる前は向日葵園の誰とも関わろうとしていなかった。
なのに『向日葵園のみんながいたからだ』ってどういうことなんだろう。
切り出そうと思った結衣は康介によってまた遮られた。
「おまえ、俺と一緒にいて大丈夫なのか?」
「え?」
結衣は意味が分からなかった。
康介は呆れたように呟いた。
「俺は疎まれてるんだぜ。そんな俺と一緒にいたら、おまえまで同じ目で見られると思うが?」
まぁそれだけじゃないけどな、と心の中で呟いた。
結衣に好意的な眼差しを向ける男子生徒は少なくない。
事実、ファンクラブができるほどの人気である。
だから、結衣に近付く男がいれば狂気の眼差しが向けられるのは、確実だろう。
さっきから感じる殺気はその連中だろうと康介は推測した。
結衣は康介の言葉を受けて困ったような顔をした。
その様子を見て康介は、首を傾げた。
「どうした?」
「え、え~と………」
少し間を置いてから、頬を朱色に染めて結衣は答えた。
「私は康介くんと話したいから、周りからどう思われても気にしないよ……」
康介は驚きを隠せなかった。
(俺と話したいから気にしないか……)
康介の表情を見た結衣は俯いてしまった。
結衣が立ち上がり、教室に戻ろうと思ったとき、
「なんか不思議な感じがするな」
「え?」
「おまえみたいに、俺と話したいだけで一緒にいたがる奴がいなかったからさ」
「え、じゃあ」
「ああ、おまえの好きにしろよ」
そっぽを向いて答える康介。
その言葉を聞いた結衣は康介の隣に再び座り、康介と初めての談話を楽しんだ。
☆
今は五時限目の開始5分前。
五時限目は体育なので着替えて外で寝ている康介。
案の定、教師に怒られた。
「田中、なに寝てんだ!!」
「眠いから寝てるんです」
クラスメイト全員が大爆笑した。
「ハハハ、そりゃそうだ」
「田中ってあんなこと言うやつだったか?」
教師は振り返り、
「おまえら静かにしろ!!」
教師は怒鳴ると再び康介に向き直り、
「……授業を受けないってんなら、単位はやれねぇな」
教師はニヤリ、と笑みを浮かべ康介を見下ろした。
康介は考える素振りを見せて、
「………一人で10点入れたら、寝てても文句ないですよね?」
「ああ」
やれるもんならやってみろ、と言わんばかりの笑顔で頷いた。
康介は立ち上がりコートに入っていった。
体育の内容はサッカー。
コートには康介とクラスメイト全員が入っていた。
「田中~、本当に良いのか~」
「ああ~」
クラスメイト全員が顔を見合わせた。
その理由は"クラスメイト全員"対康介と言うチーム別けになったからだ。
本当にこれでいいか?、と顔を見合わせていると、笛がなり試合が開始した。
☆
あっと言う間に康介は10点を取ってしまった。
クラスメイトは康介に全く歯が立たなく、教師は呆然と佇んでいた。
「これで文句はありませんよね?」
教師はぽかん、と口を開けて固まっていた。
(また、止まって見えたな……)
康介が木陰に移動し始めた。
「田中、待てよ」
と言う声に引き留められる。
声のした方に振り返り見つめた。
「なんか用か?」
「おまえ、あんなに動けるのにどうしてちゃんと授業を受けないんだ」
「……面白くないからな」
「面白くないって、俺らとやっても詰まらないってことか」
康介は首を横に振った。
「……"完璧に出来ちまう"から、興味がないだけさ」
「完璧にって、おまえどこかのクラブチームに入っていたりしたのか」
康介は再び首を振った。
「じゃあ、なんなんだよ!!」
そのクラスメイトは青筋を立てて、怒鳴った。
「……なんの努力もしなくても出来るから興味が湧かない。それだけだ」
その言葉にこの場にいる全員が息を呑んだ。
努力しないで、あんな動きをしたと言うのか。
重たい空気の中一人がポツリ、と呟いた。
「でも、やっぱりすげぇよな」
「ああ、あんなに動けるなんてすごいよな」
「あいつの動き全然見えなかったよな」
称賛の声が上がり、次第に大きくなっていった。
☆
授業が終わり、教室で結衣が戻ってくるのを待っていた。
理由は六時限目は選択授業で康介と結衣は同じ科目を取っているからだ。
数分後、結衣が勢い良く教室に入ってきた。
「康介くんお待たせ」
「全然待ってないよ。もう行くのか?」
「あ、うん、ちょっと待ってて」
結衣は自分の席に行き、選択授業で必要な物を用意した。
「それじゃあ、行こうか」
「ああ」
二人は選択授業に向かった。
☆
六時限目は一切居眠りが出来なかった。何故なら、康介の隣の席に結衣が座り、結衣が居眠りの邪魔をしていたからだ。
ちなみに、結衣は授業中ずっとそわそわしていた。
帰りのホームルームが終わり、教室を出ようとした康介は呼び止められた。
「康介くん、一緒に帰らない?」
康介は顔を見ずとも声の主が誰かすぐにわかった。
「……まぁいいよ」
頬を赤くした結衣に振り返り答えた。
結衣は小走りで康介に近いた。
「康介くん早く帰ろ」
教室を出ようとする二人に、
「「結衣バイバイ」」
「田中、明日も来いよ」
「うん、バイバイ」
結衣は手を振った。
「気が向いたらな」
康介はそれだけを言うとスタスタと教室を後にした。
☆
昇降口で靴に履き替えながら結衣は問いかけた。
「康介くん、いつの間に仲良くなったの?」
「仲良くなってねぇよ。……ただ体育でちょっとな」
結衣は首を傾げてさらに問いかけた。
「体育で何かあったの?」
「まぁ気にするな」
結衣は頭の中が疑問符でいっぱいになってそうな顔でキョトンと、していた。
「置いてくぞ」
「あっ!?待ってよ」
結衣は急いで上履きを下駄箱に入れて、康介を追った。
「置いて行くなんてひどいよ」
結衣は口を尖らせて、康介の横に並んだ。
「本当に置いて行くわけねぇだろ」
「本当に?」
「ああ、本当さ。それに置いて行くんだったら、走ってるぞ?」
考える素振りを見せてから、
「それもそうだね」
頬を朱色に染めて微笑んで康介を見上げた。
その笑顔を見て何となく結衣の頭に手を置いた。
一瞬何があったのか理解出来なかった結衣だったが、頭を触られていると理解した瞬間、耳まで真っ赤になり、
「あ、あああ、いやぁぁぁ」
康介は本日二度目の平手打ちが左頬を襲った。
康介は左頬を擦りながら自分のやった行為を振り返っていた。
(また、やっちまったなぁ。こいつとだとなんか調子が狂う……)
一方、結衣は頭を触られたこととまた平手打ちしてしまったことで、しゃがんでいた。
康介は見下ろして、結衣が立ち上がるのを待っていたが、なかなか立ち上がらないから、しゃがんでささやいた。
「さっさと帰っちまうぞぉ」
えっ、と康介の顔を見た。
康介は立ち上がり、悪戯っぽく笑った。
「早くしないと、本当に置いていくぞ」
「あ、待って康介くん」
そのやり取りを呆然と見ていた生徒と、殺気を込めた視線向けていた生徒がいた。
☆
正門を出たところで結衣が口を開いた。
「康介くん、怒ってないの?」
「別に」
「で、でも私二回も平手打ちしたよ?」
結衣が俯いて、もじもじしながら呟いた。
「俺が変なことしたからいけねぇんだよ。おまえが気にすることじゃない」
「でも……」
「しつこいなぁ、また触ってやろうか」
「そ、それは恥ずかしいからやめて」
「そうか」
康介は呆気なく諦めた。
結衣はチラチラ康介を見ていた。
(ちゃんと謝った方ないいよね。でも、ちゃんと聞いてくれるかな?)
結衣はずっと康介の顔色を伺っていた。
康介は本当に気にしてない様な顔をして歩いている。
結衣が悶々しているうちに向日葵園に着いてしまった。
☆
向日葵園に帰ってきた二人を出迎えたのは、朝の三人の少女たちだった。
「結衣ちゃん、お帰りなさい」
「結衣ちゃん、お帰りー」
「……おかえり」
あれ?スルーされた、と思いながら康介は自室に向かった。
自室に入った康介はカバンを机の上に置き着替え始めた。
着替えながら、今日一日のことを振り返った。
今日は何回怒鳴られただろうかな?
(千秋におど……言われて、通ってはいるけど…………無意味だとしか思えない)
はぁ、とため息をして、椅子に腰掛けて、ぼんやりしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
(誰だ?この部屋に来るのは……千秋だよな……。でも、今は夕食の用意をしてる頃だしなぁ。後、来るとしたらアイツくらいだなぁ)
再びノックされて康介は思考をやめて、ドアを開けた。
「なんか用か」
だが、開けられたドアの前に立っていたのは、予想もしていなかった人物だった。
☆
結衣が少女たちから解放されたのは帰って来てから、5分くらい経ってからのことだった。
結衣は着替えるために自室にいる。
着替えている最中、今日の出来事を思い出して、赤面していた。
(私、変な声出してたよね………恥ずかしい)
さらに顔を赤くして、しゃがみこんでいた。
(康介くんにちゃんと謝ろう。平手打ち二回しちゃったし………)
そう決心し、制服をハンガーにかけたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
誰だろう?、と思いながらドアを開けると、そこには朝一番最初に駆け寄ってきた少女が立っていた。
「美咲ちゃん、どうしたの?」
少女の名前は、小鳥遊美咲。小学6年生で、結衣ととても仲がいい。小柄で、髪を腰くらいまで伸ばしてある。
美咲は少し間を置いて、口を開いた。
「結衣ちゃん、その……話があるんだけど……いいかな?」
「……?いいけど……話って何?」
結衣は小首を傾げて問う。
「……あの……た――」
「あっ!?話すなら部屋の中の方ないいよね?」
美咲の言葉を遮るように提案した。
「あ、うん……」
結衣の急に問いかけに、戸惑いながら美咲は頷いた。
「さあ、入って」
結衣は美咲を部屋に入れると、ドアを閉めた。
美咲は椅子に座り、結衣は向き合うようにベッドに座っている。
「それで話って……相談?それとも悩み事?」
「えっと……結衣ちゃんに聞きたいことがあって」
「聞きたいことって?」
「あっ……うん。えっとね」
美咲は俯いた。少しして、決意した様に顔を上げると、口を開いた。
「今日、田中さんと何かあったの?」
美咲の口から康介の名前が出てくるとは思っていなかった結衣は、赤面しそっぽを向いた。
「な、なにもなかったよ」
結衣は首を振って答えた。
だが、美咲は訝しげに結衣を見つめて小首を傾げた。
「本当に?」
「うん、本当だよ」
首をブンブン横に振って答えた。
美咲はそんな結衣の様子がおかしいことが気掛かりだった。何故なら、結衣は帰って来てからずっと康介のことを気にかけている様子だったからだ。
「変なことをされたりとかも?」
「うん、ないよ…………ちょっと叩いちゃっただけで」
結衣が歯切れ悪く呟いた。
「田中さんのことを叩いたの?」
「うん……」
「田中さんに変なことされたの?」
結衣は耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
その様子を見た美咲は急に立ち上がった。
「美咲ちゃんどうしたの?」
結衣は戸惑いながら聞いた。
美咲は少し考える素振りを見せてから、
「……田中さんのところに行ってくる」
え、と結衣は素っ頓狂な声を上げた。
美咲は結衣を一瞥して部屋を出ていった。
結衣は美咲を追いかけようと立ち上がったが足が縺れて、倒れてしまった。
「はぁ……私本当になにやってるんだろう………」
結衣は自嘲気味に呟いた。
☆
美咲は康介の部屋のドアの前に立っていた。
彼女は意を決してドアをノックした。
だが、数秒経っても出てこなかったので、美咲は首を傾げながらもう一度ノックした。
(…………田中さん何処か行っちゃったんだろう………)
美咲が諦めて戻ろうとしたときドアが開いた。
「なんか用か」
ドアを開けた康介は、そこに美咲が立っていたことを驚き、目を丸くしている。
康介は唖然と美咲を見つめ、美咲は困ったように視線を下に向けている。
意を決した様に美咲が先に口を開いた。
「あの田中さん……、お話しがあるのですが……お時間宜しいでしょうか?」
康介は我に返り答えた。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「ありがとうございます」
ペコリ、と美咲は頭を下げた。
「まぁ、立ち話もなんだから部屋に入れや」
と言って美咲を自室に招く康介。
美咲は困惑したが、少し考えてから頷き、部屋に入っていった。
☆
康介がベッドに美咲が椅子に向き合って座っている。
先に口を開いたのは康介だった。
「それで、話ってなんだ?」
美咲は康介の目を見ないように答えた。
「えっと、お話しと言うのは、結衣ちゃんのことなのですが……」
「アイツがどうしたんだ?」
康介は心の中で、結衣のやつお姫さま抱っこされたこと話したのか、と思考を巡らせていた。
「えっと、その………帰ってきた結衣ちゃんの様子がおかしかったので、田中さんなら何か知ってるかなって思いまして……」
「ああ、そう言うことか……」
お姫さま抱っこのことは聞いてないのか、と康介は安堵した。
「その、どうなのですか?」
美咲が小首を傾げて問う。
「あぁ、それは………」
康介は口ごもり、美咲の目をチラッと見て、心の中でため息を吐いた。
(やっぱり…………怯えるよな……。それに、コイツの場合はあんなことがあったから尚更男が怖いだろうに……そんなに結衣のことが心配だったのかな?)
康介がなんて答えようか考えていると、
「田中さんは何か知っているのですか?」
美咲は怯えた目で聞いてきた。
隠していても仕様がないか、と康介は決心した。
「えっと……知ってるって言うか……俺がアイツを………」
「田中さんが結衣ちゃんをどうしたのですか?」
美咲は少し語調を強めて問いかける。
「その……俺がアイツをお姫さま抱っこしたんだよ」
「えっ……どういうことですか?」
美咲は困惑しながら問い返した。
「まぁ、言い訳にしかならないけど……、遅刻しそうになってしたってだけだよ」
「……そうなんですか」
美咲は少し俯いて頷いた。
「俺の言ったことを信じるのか?嘘をついてるかもしれないぜ」
美咲は少し考えて、切り出した。
「結衣ちゃんが心を開いた人なら信じられるかなって思っただけです……」
康介は目を細めた。
「そうか……」
「はい………」
返答を聞いた康介は笑顔を作った。
「用事は済んだか?済んだのなら勝手に出てってもいいぞ。あんまり男と二人っきりで居たくないだろ?」
「あっ。そ、その……、まだお話しがあります……」
「まだあるのか?」
康介は普通に答えたつもりだったのだが、美咲はビクッ、と体を強張らせた。
「ああ、悪い。怖がらせちまったな。すまん」
康介は頭を下げて謝った。
「あ、えっと……その……田中さんが謝ることはないと思います……」
康介は再び笑みを浮かべた。
「そう言って貰えると助かるな。それで、まだ聞きたいことがあるのか?」
「あ、その……聞きたいことではなくて……田中さんとお話しがしたいな、と思いまして……」
康介が目を丸くして問う。
「俺と話がしたいのか?」
「はい……」
「どうして、急に」
「結衣ちゃんが言ったことが気になって…………」
康介は首を傾げて問いかけた。
「アイツが言ったこと?どんなことだ?」
「田中さんは他の男の人とは違うって言われたので、それで……お話ししたいなって思ったんです」
そうか……アイツ、俺のことをそんな風に見えてるのか、と心の中で呟いた。
「それで、おまえは平気なのか?」
「あ、はい……少しは……」
康介は関心したように美咲を見つめた。
(コイツは父親に酷いことをされたのに変わろうとしてるんだな……)
康介は微笑んだ。
「おまえの気が済むまで俺は付き合うぜ。その前に敬語止めて貰おうかな?」
美咲は戸惑いながら答えた。
「でも、目上の方ですし……」
「俺は少し堅苦しいなって思っただけだよ。敬語を使うな、とまでは言わないよ」
美咲は少し考えてから答えた。
「わかりました。気を付けます」
「おう」
康介と美咲は話が盛り上がっていた。主に結衣の話で……。
そんな中、美咲がぽつりと呟いた。
「田中さんって優しい人だったんだですね」
「俺はそんなに怖いイメージがあったのか?」
美咲は、クスクス笑った。
「田中さん、いつも不機嫌そうな顔してたので怖い人だなって思ってました」
「……そんなに不機嫌そうな顔してたのか」
康介は目を逸らして答えた。
「その…………田中さん」
康介は小首を傾げた。
「ん?どうした?」
「私には小鳥遊美咲って言う名前があるんです」
「ああ、知ってるぞ」
「その……だからおまえって呼ばないで欲しいです」
「そうか。じゃあ、美咲って呼べば良いのか?」
「えっ、あ……」
「嫌か?」
「嫌ではありません。ただ驚いただけです」
「そうか。それじゃあ、これからよろしくな」
康介は握手しようと右手を出した。
美咲も握手しようと手を出したが、すぐに引っ込めてしまった。
康介は微笑んだ。
「男に触るのは怖いか?」
「はい、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。酷い目にあったのに俺とこんなに話せるようになったってだけで、今はいいんじゃないか?」
「そう……ですね」
美咲は顔を明るくして頷いた。
康介は部屋の掛け時計を見た。
「そろそろ夕食の時間だなぁ」
「あっ!?」
「ん?どうした?」
「私手伝いがあるんでした」
美咲は扉に駆け寄り、失礼しました、と言って部屋を出ていった。
一人残された康介はベッドに倒れこんだ。
アイツ一度も目を合わせなかったな、と物思いに更けているとガタッ、と音がした。
周りを見渡したが誰も居なく、なにも落ちていなかった。
康介は気のせいだと決定付け、部屋を出ていった。
☆
話は少し前に遡る。
自室で着替える康介を見つめる視線があった。
康介はその視線に気が付いていない。
気が付かなくて仕様がないことだろう。
何故なら、誰にも"見えないのだから"。
[はぁ、やっぱり見えてないか………]
男の呟きは康介には聞こえない……。
男は康介に触ろうと手を伸ばしたが、その手は康介を"すり抜けて"しまった。
[ふぅ………触れないよなぁ]
そう呟いたとき、ドアがノックされた音が響いた。
[………ドア開けねぇのか?]
もう一度ノックがされて、康介はやっとドアに向かい開けた。
「なんか用か」と、言って康介は硬直していた。
[アイツ何固まってるんだ?]
先に口を開いたのは来訪者だった。
男は康介の背後に立ち、来訪者を確認した。
[子供じゃねぇか。しかも女……はぁ情けねぇな]
聞こえないことをいいことに言いたい放題の男。
男が康介を罵倒していると、「まぁ、立ち話もなんだから部屋に入れや」と、康介が少女を部屋に招き入れた。
二人は向き合って座った。
[こいつらどうして1mくらい離れて、座ってんだろうな…………]
男は床に座り、二人を見上げながら呟いた。
男は二人の話を口を挟まずに聞いていた。挟んでも聞こえないのだが……。
[………結衣ってのは……“ ”の彼女のことか?]
男が疑問を抱いてるうちに康介と少女は雑談で盛り上がっていた。
[ガキの名前は小鳥遊美咲って言うのか………“ ”とはどういう関係なんだろうか?]
男が呟きながら考えていると、少女が「私手伝いがあるんでした」と言って出ていった。
少女が出ていき、康介はベッドに倒れこんだ。
男が椅子に座ろうとしたときガタッ、と音をたててしまった。
康介は周りを見渡しただけで、それ以外のことをせず、部屋を出ていった。
[はぁ、もう少し気を付けないとな………]
男はドアノブを握った。だが、ドアノブを"回す"ことができなかった。
[やっぱり無理か……]
男はベッドに座った。
[この部屋から出れないから、外のことが全然わかんないな………]
そのまま寝っ転がり、天井を見つめた。
[………………あと少しか。アイツの誕生日が来れば本当に俺が見えるようになるのだろうか……]
そう呟くと男は突然消えた。
☆
夕食後、康介は食堂でコーヒーを飲んでいた。
(明日も学校行かねぇといけないんだろうなぁ………はぁ、あいつと同じクラスじゃなければサボるんだけどなぁ)
コーヒーをすすっていると後ろから声をかけられた。
「康介くん、ちょっといい?」
振り返ると結衣が立っていた。
「ああ、なんか用か?」
康介はコーヒーをすすりながら答えた。
結衣は康介の目をまっすぐ見てから頭を下げた。
「康介クン、二回も叩いちゃってごめんなさい」
急なことに面食らったが、康介はどうにか言葉を発した。
「その、な……別に、気にしてない……ぞ?」
「許してもらおうなんて思ってない……。わたしが謝りたかったからそうしただけたから……」
康介は、どう言ったらいいのか、という顔で頭を掻いた。
「…………あのな、オマエにビンタされた原因は、元々俺にあるわけで……、オマエが謝る必要はないって思うわけで…………」
うんうん唸っている康介を見た結衣は、クスクスと笑った。
不審に思った康介は、首を傾げて問いかけた。
「どうしたんだ?」
「必死すぎる康介くんが面白くて……でも、康介くん、ありがとう」
そう言うと、結衣はニコッと微笑んだ。
彼女の笑顔を見た瞬間康介はドキッとなり、不思議な気持ちになった。
この気持ちをどう表したらいいのか……、康介は分からない。その気持ちを表す言葉を彼は知らないのだ。
康介が俯いて固まっていると、結衣が彼の顔を覗き込むように見た。
「康介くん、どうしたの?」
「ちょっと考え事してた」
「そうなんだ…………えっと……それでね、康介くん?」
結衣は康介の返事を聞かずに小首を傾げて問いかけた。
「夕食のときに美咲ちゃんと話してたよね?」
「ああ、話してたが、それがどうしたんだ?」
結衣は真剣な顔になり口を開いた。
「美咲ちゃんが男の人が怖いのは知ってるよね?」
「ああ、知ってるさ。千秋に念を押されたしな」
「そう……」
結衣は安堵の息を漏らした。
そして、考える素振りをしてから、怪訝そうな顔になった。
「じゃあ、どうして美咲ちゃんと話してたの?」
康介は困ったように頭を掻いた。
「どうしてって、言われてもなぁ……、美咲が俺と話したいって言ってきたからな。理由が知りたいならあいつ自身に聞いたらどうだ?」
えっ、と結衣は素っ頓狂な声を出して驚いた。
彼女が驚くのも仕方がないだろう。
何故なら、美咲は父親に虐待を受けて男性恐怖症になってしまったことは、向日葵園の全員が知っていることなのだからだ。向日葵園に来たばかりの頃に比べれば、男と話せるようになったが、自分から男に近付いて行くなんて今までなかったのである。
結衣は驚いた表情で問いかけた。
「康介クン!今の話し本当」
「ああ、ホントだ」
康介は断言した。
それを聞いた結衣が口ごもっていると、三人の少女が食堂に入ってきた。
最初に結衣と康介に気が付いたのは、美咲だった。
「あっ、結衣ちゃんと田中さんがいる」
その言葉を聞いた少女二人も美咲と同じ方を向いた。
片方の少女が手を振りながら、
「あっ、本当だ。結衣ちゃん」
もう片方の少女は、康介と目が合うと美咲の後ろに隠れてしまった。
俺はそんなに怖いのか………、と康介が心の中で嘆いていると、結衣が手招きしながら美咲を呼んだ。
「美咲ちゃん、ちょっと来てもらえる?」
美咲は小首を傾げて結衣の下に駆け寄った。
「結衣ちゃん何?」
「夕食のとき、康介くんと話してたよね?」
「うん、話してたよ」
結衣は少し考えてから口を開いた。
「……無理矢理にとかじゃなくて?」
美咲はブンブンと横に首を振って答えた。
「違うよ!!私から頼んだの。田中さんはなにもしてないよ」
結衣は胸を撫で下ろして、もう一つの疑問を投げ掛けた。
「美咲ちゃんは男の人が怖いんだよね?」
「うん………」
「康介くんと話してて平気なの?」
「うん、平気だよ。田中さん優しいし……わたしを怖がらせないように気を遣ってくるの。……それに結衣ちゃんと仲がいいから大丈夫かなって思ったの」
「美咲ちゃんがそう言うなら、平気なのかな」
結衣と美咲はクスクス笑っていた。
一方、康介はそっぽを向いてコーヒーをすすっていた。
なんか恥ずかしいな………、と康介は心の中で呟いた。
理由は結衣と美咲が康介のすぐ近くで話していたから、話の内容が康介にも聞こえていたからだ。
そんなことを知らない二人は話し続けていた。
☆
食堂の入口で二人の少女は困惑していた。
男性恐怖症のはずの美咲が同い年以下の男の人にあんなに近付くのを二人は見たことがないからだ。
美咲は康介に対してほとんど恐怖を感じていないように見えた。
それに、夕食のとき自分から康介の下に行っていた。
二人は考えれば考えるほど、訳がわからなくなっていた。
そのとき、美咲が二人の方を向いて手を振りながら呼んだ。
「由梨ちゃんと明日香ちゃんもおいでよ」
由梨ちゃんと呼ばれた少女の名前は七瀬由梨。口数が少なく、いつもおどおどしている。背は美咲と同じくらいで、髪はセミロングヘアである。
明日香ちゃんと呼ばれた少女は近衛明日香。結衣より少し低い背の高さで、髪はショートヘアである。三人の中で一番活発な少女で、とても友達思いである。
二人は美咲と同じ学校に通う小学六年生である。
美咲、明日香、由梨は仲良しでほとんど一緒いる。
はひっ、と二人は素っ頓狂な声を上げてしまった。
美咲は首を傾げて問いかけた。
「どうしたの?」
明日香は首を振って答えた。
「なんでもないよ。ね、由梨ちゃん」
由梨はコクコク、と頷いた。
美咲は不思議そうな顔をしながら催促した。
「そう?なら、早くおいでよ」
明日香と由梨は一緒に美咲たちの下へ行った。
二人が美咲たちの下に来てから、美咲が康介の方を向いて問いかけた。
「田中さんは二人のこと知りませんよね?」
康介は首を傾げて答えた。
「知らないけど……?」
美咲は康介の返事を聞くと明日香の横に立って二人の紹介をし始めた。
「この子が近衛明日香で、その隣にいるのが七瀬由梨。二人とも私の友達なんです」
康介は苦笑しながら返した。
「そうか……、二人ともよろしくな」
康介が挨拶すると、明日香は、ペコリと頭を下げて、由梨は美咲の後ろに隠れた。
美咲は困ったように頭を掻いた。
「由梨ちゃん、田中さんはそんなに怖い人じゃないよ」
由梨は少し顔を出して呟いた。
「……私のこと、睨んでて……怖い」
由梨の言葉に康介は、顔を引きつらせている。
美咲は振り返り、
「そ、そんなことないよ。睨んでるように見えるかもしれないけど、とっても優しい人なんだよ。ね、結衣ちゃん?」
突然話を振られた結衣は戸惑いながら口を開いた。
「あ、うん。康介くんはすごく優しいよ。二人が思ってるほど怖い人じゃないよ」
明日香と由梨は顔を見合わせた。
「結衣ちゃんが言うなら……」
明日香はそう答え、由梨はコク、と頷いた。
美咲は二人の後ろに回って、
「ほら、もっと近付いて」
二人の背中を押そうとしたとき、
「俺、もう寝るわ」
そういうと康介は立ち上がって食堂を出て行こうとしたが、美咲が引き止めた。
「田中さん、寝ちゃうんですか?」
康介は振り返り、
「ああ……、また明日な」
「はい……」
康介は食堂を後にした。
☆
ある国の豪邸の一室。
「ハハハハハ。“ ”の記憶を消してから七年が経つ。もうすぐ、世界に変革が起きる。フフフフフ、おまえたちの息子がもうすぐ覚醒するぜ。嬉しくないか?………ん?おっと。そういや、お前らは話せなかったな。これは失敬、ハハハハハ。笑いが止まらねぇな。“ ”が目覚めるのにおちおちしていられねぇなぁ。………。“ ”のところに行くか。フフフ、楽しくなってきたぜ。"能力"が認知されていないこの世界が"能力"が当たり前の世界に変わる……。フフフ……フハハハハ。さあ、行くぞ野郎共!!」
青年の声が部屋中に響き渡った。