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 溝口は慌ててスマホを掴むと、エレベーターまで走った。

 何があったかは不明だが、先輩がいきなり走り出したので赤嶺もそれを追った。

 エレベーターがくるまで、溝口は別のアプリを起動させる。

 それは詩織のスマホについている強制遠隔通話のためのものだった。

 娘がどうなっているのか、どうしてこんなところにいるのか気になって仕方なく、つい起動させてしまったのだ。

 強制遠隔通話は、呼び出し音を鳴らすことなく、持ち主の周囲の音を溝口のスマホに送ってくる。

 当然、溝口の声も届くはずなので、娘に呼びかけようとした時、スマホから奇妙な語調の声が聞こえてきた。

 甲高い、しかし紛れもない男の声。

 間違いなく詩織のものではない。


『どうしてとばない』


 空気に異物が混入したように、異常なまでにその声は甲高かった。

 まるでヘリウムガスを吸ってだした声のように。

 アヒルのように耳障りで不気味そのものの声だった。

 耳にした瞬間に、溝口の背筋に感じたことのない寒気が走った。

 黒板を爪で引っ掻いたとしてもこれほどの怖気は走らない。

「どうしたんスか、溝口さん」

「ちょっと黙れ!」

 エレベーターの中に入っても、溝口は受話口から耳を離すことはしなかった。

『……ここ、どこ』

 次に聞こえてきたのは、娘の――愛する詩織の声だった。

 良かった、無事だ。

 だが、どうして、まだ小学校にいるはずの娘がこんなところにいるのかだけは全くわからない。

 そして、あの甲高い声の男はいったいなにものなのか?

『そらにちかいいおりのそば』

『おじさんは誰なの?』

『身どもはまうものだよ。そらをとぶもの。――どうしてとばない』

 また、同じ問いを男は発した。

 溝口には声しか聞こえないその主がとてつもなく怖いもののように聞こえた。

 そいつは真剣そのものだったからだ。

 声には老いの響きがあった。

 甲高いのはともかくとして、それは痴呆にかかった老人のもののように嗄れてもいた。

 滑舌が悪いのは、おそらくは歯がないからだろう。

 黙っているとしゅーこーと歯のない口の隙間から漏れる音が耳触りなくらいによく聞こえる。

 会ったこともないそいつには確実に前歯がないはずだった。

 エレベーターが止まり、溝口と赤嶺は外に転がり出た。

 目の前の階段を上がると、内側から鍵のかかった屋上にでるための扉があった。

 ノブを掴み開けようとしてもやはり開かない。

「く、あかねえ」

「ど、どうしたんですか、溝口さん!」

「屋上に出たいんだ。詩織が、詩織がそこにいる!」

「ちょっと待ってくださいよ、どうして詩織ちゃんがうちの屋上にいるんですか!」

「知るか、天狗の仕業だろ! だが、間違いなく、すぐそこにあいつはいるんだ!」

「わけわかんないっすよ!」

「うるせえ、黙れ、とにかく鍵はねえのか、鍵は?」

 頭から怒鳴り散らされた赤嶺だったが、溝口の必死さに打たれたのか、すぐに鍵をどうすればいいか考え出す。

 一番いいのは、守衛室あたりにいってマスターを借りてくることだが、そんなことをしている暇はない。

 溝口が無理矢理に体当たりで開けようと決意した時、

「だったら、一度、そこのはしごを登って一旦給水タンクの脇に出ましょう。それから、ちょっと遠回りしていけば屋上にでれますよ」

「時間がねえんだぞ」

「下まで行っている方がもっとかかりますよ。さ、そこを上がってください。俺は警備員さんを呼んできますから!」

 赤嶺の指した先には、丸い上に続く通路と上り梯子があった。

 点検用のものだが、水道点検の業者ぐらいしか使用しないため、鍵などは中から閂が閉めてあるだけだ。

 屋上への扉の厳重さに比べれば適当なものだったが、それはこの際考えない。

 溝口はがむしゃらに梯子を登り始めた。

 そして、閂を外して、丸い蓋を外して外に出る。

 両手と背広がひどく汚れてしまったが、そんなことを気にしている余裕はない。

 外に飛び出し、屋上の広場の反対側に降り立つ。

 そのまま一周して、詩織がいるはずの屋上へと向かった。

 彼が力の限り暴れているあいだも、詩織と男の会話は続いていた。

『どうしてとばない』

 男の問いは執拗に続く。

 まだ小学一年生の詩織は男の質問の意図がわからず、まともな返事もできない。

 あの人見知りしない子が、ほとんど喋ることもできずにいるのは男がよほど怖いからだろうか。

『あのね、詩織たちはね、人間だから飛べないんだよ』

『むかしむかしはとべなかった。でも、ひとはとべるようになっている。身どもはしっている』

『詩織には羽根もないから飛べないよ』

 小さな女の子にしては現実的な発言だった。

 普段からプリキュアが好きな夢のある子供だと思っていたけど、女というものはやはりどんなに小さくても現実的なんだなと焦りながらもしょうもないことを考えた。

 だが、男には届かなかったようだ。

『まえに大きなてつのとりにのってとんでいた。身どもがなのったらにげた。身どもがおったらおちてしんだ』

 ……大きな鳥?

 なんのことだ。

 耳にスマホを当てながら、ようやく屋上の二人のところへ溝口がたどり着くと、そこにはやはり詩織と―――男がいた。

 薄汚れた黒いコートと同色の山高帽をかぶった男の後ろ姿が見えた。

 思ったよりも背の高さなども普通だった。

 こちらからは表情はわからないが、おかしな様子は見当たらない。

 それなのに溝口はその背中を見ただけで今まで感じたことのない震えに襲われた。

 あのコートの背中は異常だ。

 見るだけで人の心を怯えさせる何かがある。

 何かがある。

 思わず、恐怖にすくみきって物陰に隠れてしまった。

 詩織がそこにいるというのに。

「ひとが身どものようにとべるようになったのなら、ともにとぼう」

「だから人間は飛べないんだって。プリキュアじゃないんだから」

「そんなことはない。おまえいがいのやつはとべるっていっていた」

「飛べないよ!」

「おまえ、そこからとべ」

 男は遠くを指さした。

 黒ずんだ汚らしい肌の色と伸びきった爪が目立つ、長い腕だった。

 袖が十センチ以上たりないので、非常に不格好な腕をしていた。

「いや!」

「とべるからとべ」

「いやだってば!」

「ひとはとべるようになったのだろ。身どもとともにそらであそぼう」

 詩織の抵抗をまったく意に介さず、男は飛ぶことを強要する。

 あの男は溝口の娘に死ねと言っているのだ。

 そして、自発的に跳ばなければ……突き落とすのだろう。

 前の二人の子供のように。

 そんなことはさせないと勇気を振り絞って、溝口は物陰から飛び出した。

 そのまま男の腰にタックルする。

 溝口の思っていた以上に、男の腰の感触は華奢だった。

 だが、全体重をかけたというのに男はふらつくことさえもなかった。

 自分の腰にしがみついてきた溝口を振り向いて、じっと見つめた。

 初めて顔をみた。

 ぎょろりとした目の形と白眼がまず目に入った。

 肌はカブトムシのように黒く艶々とし、頬骨が前に出ているせいで鼻が突き出て見えた。山高帽は髪も眉もない頭を覆い隠し、コートの下にはなんの服も着ていない。そして、唇のない口の中には一本の歯も見当たらなかった。何よりも鼻をつくすえた汗の臭いが不愉快極まりなかった。

 これが……天狗。

 溝口はそう素直に考えた。

 無策でしがみついてしまったことについて後悔するまもなく、男―――いや、天狗は溝口を振り切った。

 振り切っただけではない。

 そのまま空に浮き上がった。

 ぼろぼろのコートの下には巨大な鳥の羽がついていた。しかも、その羽根は気持ちの悪いことにところどころが抜け落ちて、古い櫛のように歯がかけているというのに、天狗を空に舞わせていた。

「とぼう」

 天狗は言った。

 どういうわけか、その声は無邪気な子供のもののようにさえ聞こえた。

「とちゅうまでもっていってあげるから」

 両手を広げ、まるで博愛と慈悲の心に溢れた聖者のように。

「ねえ、とぼう」

 歯のない口がにたりと笑う。

 心の底から嬉しそうに。

「パパっ!」

 駆け寄ってきた詩織を抱きしめ、天狗から隠すために背中に回し、溝口は叫んだ。

「人間は飛べないっ! おまえにつきあってやることはできないっ!」

「うそをいうな。だってとんでいたじゃないか」

 溝口ははっと気がついた。

 こいつが言っているのは、あのヘリコプターの墜落事故のことだ。

 あのとき、こいつはたまたまヘリコプターに接触して、中の操縦者やカメラマンを見て、人間も飛べることができるようになったと勘違いしたに違いない。

 こいつと一緒に飛べる仲間が出来たと勘違いしたんだ。

「だから、人は飛べないんだって!」

 天狗はつまらなそうに顎をしゃくった。

「おまえ、うそつきだ。身どもはうそつきとはあそばない。……おまえはとべるんだろ」

 その視線の先は詩織に向いていた。

 だが、詩織は天狗に答えることなく、父親の背中に隠れた。

 すると、天狗はさらにつまらなそうに、

「つまらない。かえる」

 と、身を翻すと、大きな羽根を羽ばたかせてそのまま空の彼方へ飛んでいった。

 後に残ったのは溝口親子と沈黙だけだった。

 扉の封印を開けて赤嶺たちがやってくるまで、親子は一歩もそこから動こうとはしなかった。

 もし動こうとしたら、どこからともなくあの天狗がやってくるような恐怖に囚われたからだ。

 ずっと遠くの空から見張られているような、そんな恐怖感があった。

 いや、多分、ずっと上から見ているのだろう。



 空も飛べずに地上で蠢く、下界のものたちのことを。


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