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普段の家族と仕事中心の生活が始まると、溝口にとってその置き去り事件は別の世界の出来事になった。
パートの聡美の代わりに、娘の詩織の送り迎えをするときだけ、たまに思い出す程度だった。
一般社会生活を送る人間にとって日常に関係のない事件など、いつまでも頭を悩ます必要のないものだからだろう。
溝口もそれでよしと思っていた。
彼が所属する法務部に、一人の若手社員が飛び込んでくるまでは。
「溝口さん、ちょっといいっすか?」
「なんだ、赤嶺。騒がしいぞ」
「すいません、つきあってもらえませんか?」
くせっ毛のある頭を下げて赤嶺が言うので、仕方なく溝口は目を通していた企画書のファイルと模範六法を閉じる。
会社の行った買収について、金融商品取引法の見地からなにかしらの問題がないか検討していたところだった。
慣れない特別法についてなので、わずかな参考書と条解を頼りに頭を悩ましていたところだったので、ある意味いいタイミングといえた。
「課長、ちょっと行ってきます」
「何か知らんが、別に構わんよ。今日中に、それの報告書出せるか?」
「わかりませんね。法務よりも、経理の方が話しやすい内容かもしれませんよ。少なくとも、大学で倒産法専攻だった私には難しい話です」
「わかった。明日までかけてもいい」
「わかりました。……で、赤嶺、なんのようだ」
溝口は赤嶺に手を引っ張られて、そのままエレベーターにまで連れて行かれる。
目的地は最上階だった。
「屋上? 屋上になにかあるのか? 昼休みだけだろ、あそこが解放されているのは?」
「さっき松下と隠れてタバコ吸いに行ったんです」
「松下? 女の子と隠れてコソコソしていたら、バレた時に減棒されるぞ」
「いいじゃないですか。オレら、付き合っているんですから」
「だからだよ。仕事中になにをしてんだよ」
「そんなのはあとにしてくださいよ。で、そこで妙なモノ見ちゃって」
「妙なモノって?」
「来てもらえばわかります。溝口さん、小さい娘さんがいるからきっと頼りになると思うんすよ」
「娘がいたからってそれがどうにかなるのか?」
屋上についた赤嶺が少し奥まった給水タンクや鉄のパイプのある場所に連れて行く。
何やら耳慣れた音が届いてきた。
溝口の耳にはそれは小さな女の子が泣いているもののように聞こえた。
顔を出すと、数人のOLが自殺防止用のフェンスに張り付いて号泣している女の子をなだめているところだった。
女の子は六歳ぐらい。
娘の詩織と同じぐらいだ。
「どうした?」
と、赤嶺の恋人である松下に声をかけると、
「あ、溝口さん。どうしてここに?」
「赤嶺につれてこられた」
「……なにをやっているの、あんたは。あたしは子供の面倒が見れる人を連れてきてって頼んだのに」
「何言っているんだよ、溝口さん、ちっちゃい娘さんがいるんだぜ。泣く子をあやすのだって簡単だろ」
「これだから男子は……。娘さんがいるからといって、男親にそんな器用な芸当出来るわけがないじゃない。あ、すいません、溝口さん。別に溝口さんをバカにしているわけじゃあ……」
「気にするな。おおまかな状況は理解できたし、おまえの言うことももっともだ。だがな、松下。男親にだって器用な芸当が出来る奴もいるってことを教えてやるよ」
そう言うと、溝口はOLたちが取り囲んで必死になだめに回っている女の子の脇に座った。
まだ若いOLばかりじゃあ、こんな小さな子の相手は難しいだろうな、と溝口は思った。
子供相手に上手に立ち回れる人間というのは、ある種の特別な雰囲気を生まれつき持っているタイプと、経験を積み重ねて慣れていったタイプの二パターンがある。
溝口は後者に含まれる。
まず、基本的に視線の位置を合わせる。できたら、子供よりも下がいい。
心理学上、視線を下げるということは上位に立つことにあたり、自分よりも下位者に対しては余裕ができるということの応用である。
「こんにちは」
「……」
次に、わかりやすい挨拶だ。
挨拶は人に敵と味方の区別を与える目安となる。
どんなに嫌な相手でも、毎日挨拶されれば心理的に距離が詰まり、和解のきっかけとなる。逆に言えば挨拶しないものは敵と認定されることが多い。
子供の場合、挨拶は誰でも使えることから、最も交わしやすい第一声となり、警戒心を早期に削ぐことができるのだ。
「おじさん、君と同じぐらいの年齢の女の子のパパなんだ。おじさんの娘は六歳。君みたいに赤いランドセルが似合う可愛い子なんだよ」
溝口は、色々と質問したりせず、女の子の共感を呼びやすい話題を優しく喋った。
実際のところ、この十階建てのビルにどうやって潜り込み、屋上で何をしていたのか聞き出したいところだったが、それよりも見知らぬ場所で感情が高ぶっている彼女を落ち着かせなければならない。
だから、空気を読まずに質問をしようとしたOLを手で制して、溝口は女の子の反応を見た。
泣き喚かなくなった。
ぐずりながら溝口の様子を窺っている。
敵ではない大人と認識し始めている気配があった。
「……飴舐める?」
溝口はポケットから、箱に入れておいたキャンディーを取り出し、手のひらに乗せてみせた。
たまに詩織がへそを曲げたときのために、いつも準備してあるまさに「アメ」だった。
小さな子供を食べ物で懐柔するのはあまりよくない教育なのだが、溝口は妻の聡美に内緒でいつも持ち歩くようにしている。
その用心が他人の娘について役に立つとはさすがに思っていなかったが。
女の子はおそるおそるキャンディーを受け取り、そしてじっと握った。
すぐに口に入れず、祈るように握りしめている。
変哲のないキャンディーがまるで悪魔から身を守る護符になったかのように。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「……」
「こんなところにずっといると、風邪をひいてしまうよ。おじさんやこのお姉さんたちと下の暖かいところにいかないかい」
すでに女の子は泣き止み、必死にフェンスを握っていた手も放されていた。
無理やり連れて行こうとすればできなくないが、溝口はあえて女の子自身の決断を待った。
せっかく落ち着いたのに、無理強いをすれば元の木阿弥になるかもしれないからだ。
「うん……行く」
「よし」
溝口が満面の笑みで頷くと、女の子もぎこちなく笑った。
ただそれは和解というより、仲良しになった証だった。
「行こうか」
「うん。あのおじさんが帰ってこないうちに」
女の子が妙なことを口走った。
あのおじさん?
質問はしないようにしていた溝口だったが、つい口から出た。
「おじさんって誰?」
「純を連れてきたおじさん」
「君、純ちゃんなの?」
「うん」
「……ここに誰かが連れてきてくれたの?」
女の子――純は首を縦に振った。
嘘を言っている感じはしなかった。
溝口は首をひねる。
このビルのセキュリティはかなり高い。
こんな女の子一人でさえ偶然侵入はできないはずだし、まして大人の男と一緒にすり抜けられるものではない。
暗証番号を知らず、キーもなければ到底不可能のはずだ。
では、どうやって、この子はここに侵入したのか。
「純ちゃんはどこからここに入ったのかな? 玄関、裏口?」
溝口は思わず訊いてしまった。
これは会社に報告すべき内容だと思ったからだった。
不審人物が容易く侵入できるとなると、会社にどんな不利益を生じさせるかわからないのである。
だが、純から出てきた答えは想像もしないものだった。
純は言った。
「おじさんがね、純をここまで空を飛んで連れてきてくれたの。でも、おじさんは純を置いてまた飛んで行っちゃった」