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「置き去りだって?」
妻の口からあまり聞いたことのない単語を聞き、溝口は思わずオウム返しに声を出した。
手にしていたビールの缶がなぜかいつもよりも冷たく感じられた。
「ええ、最近このあたりで多いらしいの。ちっちゃな子供を妙なところに連れて行って、そのまま放置してしまう事件」
「妙なところって?」
「三階建てのアパートの階段の踊り場とか、学校の屋上とか……かな?」
意味がわからなかった。
そんなところに幼児を連れ込んで、そいつは何がしたいのか?
溝口は肴にしていた七味をかけた酢だこを口に運び、ゆっくりと咀嚼してからビールで飲み込んだ。
考え事をすると物を飲み込むのが遅くなるのは彼の癖だった。
「……随分前に似たような事件がなかったか? 子供が国道の分離帯とかに置き去りにされたままでいたのを、トラックの運転手が保護したってやつ」
「ううん、それとはちょっと違うわ。あれは、少し年上の女の子が犯人だったの。ママ友から聞いた話だと、その女の子はちょっとおかしな子で、自分に懐く子供を虐めることを楽しんでいたんだって」
「懐いていくるのに虐めるのか。普通は懐かないから虐めるんじゃないのか?」
「噂だけだとノイローゼ気味の母親からひどいネグレクトを受けていたみたい。だから、自分が母親にされていたことの仕返しを、自分よりも小さな子供にすることで満足していたんだって」
「それはそれで嫌な話だな」
「だよね」
溝口は自分の部屋で寝ている娘の詩織のことを考えた。
まだ小学生になったばかりの娘が、そんな目にあって泣くことにでもなったら、相手の子供に例えどんな理由があったとしても怒りを抑えられる自信がなかった。
詩織は彼にとって、もっとも大切な宝ものなのだから。
「でも、あれは子供同士のトラブル扱いだったから、学校もまともに対応しなかったんだけど、今回のは大人の男の人が絡んでいるらしくて、緊急メールが配信されてきたの。これ、見てよ」
妻―――聡美が差し出したスマホの画面には、小学校からの連絡事項のメールが写っていた。
なんでも、低学年の子供を連れ去り、学校やマンションの屋上といった高い場所に置き去りにする事件が発生していて、それに対して保護者への注意喚起と、子供達の集団下校の案内、そして情報提供を呼びかけるものだった。
それから、印刷されたプリントまで渡された。
Excelで作成された読みやすいものだった。
要点がひと目でわかる。
「随分としっかりした対応だな。俺が子供の頃の教師って、もう少し適当だったような気がするけど」
「ううん、これでもダメな方なのよ。保育園では掲示板に必要な情報がすぐに上がって、保育士さんたちが直接親に伝えて注意を呼び掛けてくれたりしたけど、小学校ではこの程度が手一杯みたい。それでも、詩織の通っている学校は良くしてくれている方らしいわ。よその学校では……」
「それで、犯人はわかっているのか?」
とりとめもなく話を続けそうな聡美を制して、溝口は一番大事なことを訊いた。
犯人の目星がついていなければ、また同じ事件が起きる可能性があるのだ。
詩織にもしものことがあった場合、彼は生きていけない自信があった。
「まだ、全然。被害にあった子供たちの証言が今ひとつはっきりしないらしいの」
「被害って? もしかして性的なやつなのか?」
小さな子供を狙う性犯罪者はどこに潜んでいるかわからない。
警戒しすぎてもそれにこしたことはないのだ。
「うーん、学校からの連絡やママ友たちの話からだと、そういう感じではないかな? ロリコンの変質者という感じではなかったわ」
「それが正しいとはわからないだろう。性癖をまだ隠しているだけなのかもしれない」
「それはそうなんだけどね」
「おまえも少しはしっかりしろよ。うちには小学校に上がったばかりの娘がいるんだぞ。ピンポイントで危ないじゃないか。この間はヘリコプターが河原に落ちたし、最近は物騒なことばかりなんだから」
正当な文句を言うと、気分を害したのか聡美は口を尖らせる。
「わかっているわよ、あなたに言われなくたって。今日だって、学校に迎えに行ったのよ、パートが終わってから」
「……あたりまえだろ、詩織に何かがあってからじゃ遅いんだ。おまえが迎えに行けそうにない日は俺が代わりに行くから、あとで帰宅時間のすり合わせをしよう。しばらくは残業もあまり入れないようにする」
娘のことで必死になる溝口を、聡美はにこにことした笑顔で見つめた。
なんだよ、その顔は、と問いただそうとすると、
「いやあ、いいパパになったよねぇ、あのわがまま溝口くんが。ムスメ第一で、残業も入れないようにするなんて。とても、サッカーと撃ち合いゲームしか興味がなかった彼と同一人物とは思えませんな」
楽しそうにからかわれた。
溝口は視線をそらし、
「撃ち合いじゃない、FPSだ。真剣な男同士の戦いだ。一瞬のマウス操作が生死を分かつリアルな戦場だよ。女にはわからない」
「あーら、残念。詩織にもわかってもらえないわよ」
「うるさいな。ほっとけよ。あと、おまえももう少し飲め」
「なんで?」
「久しぶりに一緒に寝よう」
笑いの形が、今度はにまにまという擬音が浮かびそうなものに変わる。
お気に召したらしい。
聡美は、冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールをとってきて、溝口の頬にぴたりとつけた。
冷えたアルミが心地よかった。
「何をするんだ」
「だったら、あまり深酔いしちゃダメよ。うんと可愛がってもらうんだから」
そういって甘えるように寄りかかってくる聡美。
溝口は妻とじゃれあうことで、さっきまで念頭にあった置き去り事件のことをきれいさっぱり頭の中から追い出した。
そうしなければいけないような気がしたからだ。
結局のところ、その予感に裏切られ、溝口はその事件に深く関わることになってしまうのだが……。