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第四章 愛しさと、ぬくもりと

 ロギが旅に出て、十日ほど経った。

 メリチェルの再試験は数日後にせまっていた。再試験で水を動かせなかったら、入学不許可ということで、メリチェルはもう学院にいられなくなる。

 早朝。

 レオニード先生のはからいで、メリチェルは授業開始前の数分を主幹教諭室で過ごすようになっていた。火事で焼けてしまった部屋はまだ復旧中なので、以前とは別の部屋だ。

 四階のこの部屋は前よりは狭いが、窓から輝くカロア川が見渡せる。

 しかしメリチェルには、ゆっくり朝の眺望を楽しむ余裕などない。

 「エグリスム・グランジェメル・ヴェナディウス・サザルゾン・ゲインデラマウス・デミスタリアス・ゼア・マギョウラ・ランシェ・フィグジョン・デイタラスタアス・マダルラカアス・マクス・ゾラニウス――」

「なげやりに言わない。もっとこう、心から説得するかんじで。一流の詐欺師になったつもりになって文言を唱えてごらん。嘘が上手い人というのは、自分が本当のことを言っていると自己暗示をかけるんだそうだ。術者もおなじだ。水をだますんだよ」

「うう、わたし嘘つきになるのは嫌です……」

「何を言うか。術者は自然の摂理もだまくらかす、大いなる詐欺師なんだぞ」

 レオニードはぴしゃりと言った。

 もの凄い理屈だとメリチェルは思った。けれど、わかりやすい。

 メリチェルの進歩のなさに業を煮やしたのか、主幹教諭が朝の補修をもちかけてくれた。水を動かすなどという術式の初歩の初歩は、主幹教諭の教えることではない。メリチェルは今まで新米の先生に指導してもらっていた。

 おなじことを教わっているのに、レオニードの教え方は入り込みやすかった。

 それはきっと、レオニードが確固とした術式観を持っているからだろう。

「だますという言い方が嫌ならば、詩を語らうという気持ちでいたまえ。詩の内容は本当にあったことではなくとも、詩をきいて動かされた心は本物だろう? さあ、君は吟遊詩人だ。お客さんはこの水槽の水だ。水の心をつかんでみたまえ」

(わたしは吟遊詩人で、水槽の水はお客さん……)

 吟遊詩人という言葉から、ロギに連れて行ってもらった酒場にいた、流しの歌い手を思い浮かべた。知らない歌だったけれど、片思いのせつなさがにじみ出た、素敵な歌だった。

 あの歌をもう一度ききたい――。

 メリチェルは真剣に水槽を見つめ、術式を唱えた。

 さざ波をうつくらいがせいぜいだった水面が、ザブンと大きく跳ねる。水は机をびしょびしょにしながらも、半分がとなりの水槽に入った。

 無様だけれど、完全ではないけれど、「水槽の水を移す」課題の答えらしき結果が出た。

「よし!」

「合格ですか!?」

「微妙だね」

「あうう……」

「でも勘はつかんだだろう? あとは回数を重ねて精度をあげるだけだ。ここから先は君の努力次第だよ」

 レオニードは軽く略式の術式を唱えた。メリチェルが飛び散らかした水が、時間が巻き戻ったかのようにもとの水槽に戻る。

「では、今日はここまで」

「ありがとうございました!」

「また明日ね」

 レオニードはにっこり笑って、扉から出るメリチェルを見送った。

 同類の笑顔だわとメリチェルは思った。レオニードの笑顔は貴族の笑顔だ。

 十四歳のメリチェルは王族主催の正式な舞踏会にはまだ出たことがないが、十六歳になって王都の舞踏会に呼ばれる日が来たら、会場にレオニードがいるかもしれない。

 自分はいつか、自分と同類の笑顔を浮かべる男性と結婚することになる――。

 貴族に生まれたからには、それが運命だとわかっている。

 わかっているけれど……。

 メリチェルはそっと目を伏せた。

 ――ロギは今、どこにいるんだろう。

(ロギにあいたい……)

 決して自分と同類の笑顔を浮かべない、ロギにあいたい。

(ロギ、わたし、術式で水を動かせるようになったわ)

 そう言ったら、ほめてくれるだろうか。あの大きくて暖かい手を頭にのせて、分厚い手のひらで不器用になででくれるだろうか。

 彼の手のひらの感触を思い出したら、メリチェルの胸がきゅんとうずいた。

 ロギとはいつまで一緒にいられるのだろう。

 編入試験に合格すれば、メリチェルはあと数年、デジャンタン術式学院で過ごすことになる。けれどロギは、学べることを学んだら去ってしまうのだろう。

 ロギが去っていくときには、たくさんたくさん蜂蜜の飴を贈ろう。

 なるべく長い間、自分のことを思い出してもらえるように。

 蜂蜜色の髪をした令嬢に手を焼いたことを、忘れないでいてもらえるように。

(ロギ、大好き……)

 これが恋というものなのか、それとも兄のように慕っているだけなのか、自分でもよくわからない。

 ただはっきりわかるのは、ロギとさよならしたくないということだけ。

 はなればなれになっても、どこかでつながっていたいということだけ。



 アーチ天井の石造りの廊下に、メリチェルの足音が響く。そろそろ朝の授業が始まる時間だ。つきあたりの階段下から、女生徒たちの楽しげな話し声がする。

 メリチェルが聞くともなしにその声を聞いていたら、こんな言葉が聞こえた。

「あなた知ってる? カロア川の精霊を呼び出した人」

 メリチェルは思わず、階段を下りる足を止めた。

「紺制服の人でしょう?」

「なんだ、知ってたの」

(紺制服の人――?)

 どういうことだろうか。メリチェルは眉をひそめた。ただのうわさ話として、広まっているだけだろうか。

 疑問に思い、そのまま会話に耳を傾ける。

「カロア川の水で、あの水龍そっくりの龍をつくって見せたって話をきいたわ」

「そう。きのう、カロア川の堤防で見た人が何人もいるんですって」

「龍だけ? 精霊は?」

「精霊はいなかったみたい」

「じゃあ、術式で龍をつくっただけじゃないの?」

「『だけ』って言うけど、あなたあの龍つくれる?」

「え、無理」

「でしょう? ミラさんはすごいわ! きっと精霊を呼び出したのもミラさんよ」

 ミラさん。

 メリチェルは、寄宿舎に入ろうとしたときにモメた、華やかで気の強そうな紺制服の女生徒を思い出した。

 あの火事の日に現れた水龍は、精霊の乗りものとしてメリチェルが前々から想像していたもので、なぜか精霊とともに出てきてしまったのだ。あの精緻な龍を形づくったのは、カロア様本人だと思う。

(水を形づくるのが得意なら、模倣してみたくはなるわよね)

 とくにミラは、自己顕示欲が旺盛そうだし……。

 あれを模倣できるなんてすごいわと、メリチェルは素直に感心した。自分なぞ、水を水槽から水槽に移すのに四苦八苦しているというのに。

(呪術でやればわたしにもできるかしら……)

 むくむくと対抗意識が頭をもたげる。

 しかし、今はそんなことをやっている場合ではない。メリチェルは頭をふって、今やるべき課題に集中しなくちゃと自分を戒めた。

 三階の廊下には、さっき話をしていた女生徒たちをはじめ、大勢の緑制服の生徒がいた。この校舎棟は、緑制服と紺制服の教室で占められているのだ。

 茶制服以下は別の校舎棟なので、メリチェルは急いで階段を下りようとした。

「ちょっと。赤マントがなんでこの校舎にいるのよ?」

 踊り場で、下から階段を上って来た女生徒たちに捕まってしまった。

 うわさのミラと、その取り巻きだった。

 ミラは豪商の娘で、生まれ持っての女王様気質から、いつも子分をはべらしている。寄宿舎で一番幅をきかせているのは、白制服のマヨルでも舎監のコレットでもなく、間違いなくミラだという話だった。

 アンゼラなど、ミラの取り巻きの緑制服よりずっと目立たなかったそうだ。

 貴族の娘が寄宿舎に入るときいたとき、ミラは女王様としての立場が危うくなると思ったのではないか。だから阻止したかったのではないかと、今になってメリチェルは思う。

「レオニード先生にご用があって」

 ひかえめにほほえみながら、メリチェルは言った。刺激すると面倒そうな相手なので、特別指導を受けていることは言わないでおく。

「……まさか、寄宿舎に入りたいとか頼んだんじゃないでしょうね?」

 ミラが下からにらみ上げてくる。

 やっぱりおびえてるんだわとメリチェルは思った。身分に固執する者は、身分におびえる。寄宿舎に入らなくて正解だったと思った。

「いいえ。わたしは寄宿舎には入らないわ」

「じゃあ、なんの話よ?」

「編入試験のお話」

 なぜミラに話さなくてはいけないのだと不快に思いつつ、顔には出さないでメリチェルは答えた。

「あーあ、そうね! あなた、まだ入学許可も下りてないんだものね! 水槽の水も動かせないんだものね!」

「半分くらいは、となりの水槽に移せるようになったわ」

「半分!」

「ええ。やっと」

「あははは! 水槽の水半分ですって! お話にならない。そう思わない?」

 ミラは取り巻きたちをふりかえって、甲高い声で笑いながら言った。

「手で移したほうが早いじゃないの」

「訓練なしでもできる人はできることよ」

「才能ないわね」

「術式を学ぶ意味ないわ」

「ここにいる価値ないわよ」

「ご令嬢の道楽につきあわされる先生方がかわいそう」

 緑制服と紺制服の取り巻きたちは、口々に言って笑った。ミラがちらりとメリチェルの表情を確認してくる。泣くのを待っているのかしらとメリチェルは思った。

「ミラ」

 メリチェルは冷静に、ミラの名を呼んだ。

「なによ?」

「ローザ、マナ、リンディ、ソフィー、セシリア」

 取り巻きたちの名前も呼ぶと、彼女たちはぎょっとした顔をした。

 いつもミラの陰に隠れているから、名前を呼ばれるとぎょっとするのよ。メリチェルは苦々しくそう思った。

「わたしがここにいる価値があるかどうかは、あなた方じゃなくて先生がお決めになるの」

 メリチェルがそう言い返すと、取り巻きたちの顔がさっと強張った。

 視野の隅で、メリチェルは取り巻きたちの表情を見ていた。視野の真ん中で見つめているのは、ミラの顔だった。

「先生は、あなたが価値ある生徒だと認めるわ」

 メリチェルの目をまっすぐ見返しながら、ミラは言った。

「なぜそう思うの?」

「貴族だからよ。あたしが、金持ちの娘だから価値があるのと一緒よ」

「……寄付金の話かしら」

「そういうことよ」

 メリチェルが入学することになったら、ソシュレスタ伯爵は寄付金の名目で、いくばくかのお金を学院にもたらすだろう。それはきっと、豪商のミラの生家も行ったことだろう。決まりではないが、家の格式にかけて寄付金はなしでは済まされないのだ。

 「金持ちの娘だから」と言ったとき、ミラの表情に一瞬だけ、くやしさのようなものがにじんだ。メリチェルはそれを見逃さなかった。

(ミラは、お金持ちの生家ではなく、自分自身が価値ある存在になりたいんだわ……)

 あの水龍の模倣など、並大抵の技術でできることではない。そこまでできるようになるには、長年積み重ねた努力があったはずだ。

 しかし、白制服はミラではなくアンゼラへ、アンゼラののちはマヨルへ渡った。

 ミラの苛立ちは、メリチェルが思うより、ずっとずっと深いのかもしれない……。

「ミラ」

「なによ」

「わたし、編入試験がんばるわ」

「はあ?」

「わたしが赤マントじゃなくなったら、きちんとお話してくれるかしら?」

「嫌よ。貴族は嫌いなの。えらそうで」

「……あなたのほうが余程えらそうだけど」

「えらいんだからいいのよ! この学院では、あんたなんかよりあたしのほうがず――――っとえらいの!」

「はいはい」

「はいはい!? 軽く流さないでよ!」

 ミラが怒りをあらわにすると、取り巻きたちが「赤マントのくせに」「生意気!」とののしってくる。メリチェルはもう面倒になったきた。

「授業だわ。さようなら」

 つきあっていられなくなって、メリチェルがミラたち一行の脇をすり抜けて階段を下りようとすると、うしろからローザの声が追いかけてきた。

「ミラは、カロア川の精霊を呼んだんだから!」

 メリチェルはふりかえった。

 一番の取り巻きらしい紺制服のローザが、鼻息も荒くふんぞりかえっている。ローザの声は石の階段に反響し、踊り場から二階にも三階にも響いてしまった。

「カロア川の精霊――? ミラが?」

「そうよ。あの火事の日に」

 ミラのほうを見ると、ミラは「だめでしょ、言っちゃ」とローザをなだめつつも、にやにやしている。

 ミラのにやにや顔に、うしろめたさはなかった。

 メリチェルは、すっと体が冷えるのを感じた。

 さっきまで、ミラに同情していたのに。

 「金持ちの娘だから」と言ったとき、にじんでいたくやしさに心を動かされたのに。

 こんな嘘をついてまで、ミラは価値ある人間になりたいのだろうか。

「ミラ、あなた、自分の力でえらくなりたいんじゃないの?」

「どういう意味よ?」

「自分でわかってるはずよ」

「どういう意味かって訊いてるの!」

「――言わせないで」

 ローザの「カロア川の精霊を呼んだ」という言葉に、緑制服や紺制服の生徒たちが、三階からも二階からも踊り場のミラに注目している。

 みんなのいる前で、事を大きくする気はなかった。

 メリチェルは階段を駆け下りた。二階から集まって来た生徒たちをかきわけ、さらに階段を下りて急ぎ足で中庭へ出る。

 外でほっと一息ついたのも束の間、メリチェルは背後から聞こえる声にぎょっとした。

「あたしに恥をかかせて逃げるんじゃないわよ!」

 ミラだった。ミラが憤怒を顔に張りつかせ、大股で中庭へ出てくる。

「あたしが嘘ついたみたいな言いがかりつけて!」

「嘘ついたなんて言ってないわ」

「言ったも同然よ! あやまりなさいよ!」

「どうしてあやまらないといけないの?」

「あたしに恥をかかせたからよ!」

「恥をかかせたのはわたしかしら?」

 ローザでしょ。心の中でメリチェルは言った。

「あなたに決まってるでしょ! あやまりなさいよ! 赤マントが紺色に歯向かっていいと思ってるの!?」

「誰が誰に歯向かったら駄目かなんて、決められることじゃないと思うわ」

「あははは! お貴族様からその言葉が出るとは思わなかったわ! じゃあ、あたしがあなたになにやっても、お咎めなしよね?」

 ミラはつかつかとメリチェルに歩み寄ると、怒りにまかせて両手でおもいきりメリチェルの肩を押した。

「きゃ……」

 前から強い力で押され、メリチェルは石畳の上に尻もちをついた。

 ミラが、無様に倒れたメリチェルを真上から見下ろす。

 メリチェルにとっては生まれてはじめての、屈辱的な姿勢だった。

「地面に手をついてあやまりなさいよ。あたしを嘘つき呼ばわりしたこと」

「そこまで言うならはっきり言うわ。ミラの嘘つき」

「この……!」

 ミラの足が、メリチェルを蹴ろうとするかのように地面から浮いた。

 メリチェルは痛みを予測してきつく目を閉じた。

 しかし、痛みはおそってこない。

「馬鹿ね。蹴るわけないじゃないの」

 あざ笑うようにミラは言った。

「ミラ、ひとつきいていい……?」

 押し殺した声で、メリチェルは言った。

「なによ?」

「マヨルにも、こんなことしてるの? アンゼラにも、こんなことしてたの?」

「してないわ?」

 これも嘘だわと、ミラの白々しい表情を見てメリチェルは思った。アンゼラはこの中庭で、マヨルを思いきり突き飛ばしていた。あれは、やられたことをやり返していたのではないだろうか。ミラにではなく、歯向かわないマヨルに矛先を変えて。

 捌け口――。

 嫌な言葉が、メリチェルの脳裏に浮かんだ。

 捌け口を必要とするほどに、ミラがアンゼラを蝕んでいたのだとしたら――?

「なにがなんでも入学してやるわ。あなたとは、ゆっくり話をしなくっちゃ」

「あたしは茶制服なんかと話をしないの。いいから、あやまんなさいよ。さあ!」

「あやまらないわ。ミラの嘘つき」

「嘘つきですって。あたしが嘘つきですって!」

 ミラはなぜか、高らかに笑いながら言った。校舎の窓という窓から、生徒たちが鈴なりになって中庭の騒ぎを見ている。四階の一室に、ちらりと白い制服が見えた気がした。マヨルだったら、大急ぎでこの中庭に駆けつけてくることだろう――。

「この子、あたしを嘘つきって言ったわ! いいわ、見てらっしゃい! ゲインデラマウス・デミスタリアス・ヴィゾン――」

 ミラが慣れた口上で、淀みなく術式を唱える。術式独特の四角ばった古語が、まるで聖壇に捧げる詩のように、澄んだ響きで高らかに響いた。

 美しい術式だとメリチェルは思った。こんなに美しく文言を紡げるのに、紡ぐ動機が美しくない。こんなの嫌だとメリチェルは思った。

 ミラの美しい声と言葉が、軋んで聞こえる。

 メリチェルがそう思ったのも束の間、ざあっ……と遠方から水音が聞こえた。

「おい」「見ろよ」「龍だ!」「水龍が――」「わあ」「すげえ!」

 あちらこちらで驚きの声が出る。

 中庭の生徒たちも窓辺の生徒たちも、みな一様に空を見上げていた。

 メリチェルも見上げた。

 ――ああ、ちがうわ。

 カロア川の方向から低空を飛んでやってくるのは、見事な水の龍だった。

 しかしそれは、生きてはいなかった。鋳型でつくった作り物のようだった。鋳型でつくったつくりものが、みえない糸で操られている。ゆれるたび、ざぶん、ざぶんと無様な水音を立てて。

「ふふ、どう?」

 メリチェルを見下ろし、勝ち誇ったようにミラが言った。

「見事だわ」

「これでもあたしを嘘つき呼ばわりする気?」

「嘘つきじゃなかったら、ミラはなんて呼ばれたいの? 水龍づくりの達人?」

 ミラが怒りに目を見開いた。今度こそ蹴られるとメリチェルは思った。

「精霊使いとお呼び――きゃああああっ!」

 ミラがすごい勢いで後方にすっとんだ。背中から、背後に控えていた取り巻きたちの中に突っ込む。そしてローザたちもろとも花壇までとんでいき、全員尻から花壇の土の上に落ちた。

 唖然とするミラと取り巻きたち。

 見物していた生徒は全員、中庭の真ん中に注目していた。

 白い制服の生徒が片手を高く上げ、ミラの集中が切れて龍からただの水の塊と化した巨大な質量を空中で支えていた。

「貴様ら……」

 白制服のマヨルは、花壇で泥だらけなっている一団を眼光鋭くにらみつけ、絞り出すような低い声で言った。

「これでも食らえ――」

 空中の巨大な水の塊が、ゆらりと不穏にゆれる。

「だめだめだめ、マヨルだめっ! その水カロア川に戻して!」

 メリチェルはうしろからマヨルに抱きついた。

 令嬢の顔色は、ミラに蹴られそうになったときよりも蒼白だった。

「いいえお嬢様、あいつらは制裁が必要です。よりによって精霊使いを騙るとは――。我が故国において精霊使いは聖なる神子の証。聖女たるお嬢様を蹂躙しあまつさえ精霊使いを偽装するとは、この者はもう水没の刑に――」

「ここはあなたの祖国じゃなくてエランダスだから! 国違いだから大陸違いだから! 殺人はだめよマヨルーっ!」

 さ、殺人っ?と、周囲がどよめいた。

 マヨルの剣幕におそれをなした生徒たちが、巻きぞえを食ったらおしまいだと、花壇周辺から泡を食って離れる。

 ミラと取り巻きたちも、じたばた必死でもがいていた。しかしマヨルの術で押さえつけられているのか、土の上から尻をはなすことができない。

「こら! なにをやって――ぐはあ!」

 騒ぎをきいて駆けつけたハゲのパロー先生が、マヨルのひと睨みでふっとんだ。ぼそりと一言唇が動いただけで、マヨルが長い術式を唱えた様子はまるでない。

「ななななにあいつ……」

「化け物……」

「なんあのあれ? 術式じゃないよ……」

 生徒たちがおびえた声を出す。

(呪術です)

 マヨルの暴走に、メリチェルは参ったとばかりに天を仰いだ。

 マヨルの故国では呪術が主体で、中でも精霊を呼び出せる能力は最高位にあるらしく、精霊使いは神の子と呼ばれ崇め奉られるらしい。

 メリチェルも、最初はふつうの主従としてマヨルと距離を縮めてきたのだが――精霊チョルチョルを紹介して以来、マヨルの態度が「親愛」から「崇拝」に変わった。

 自分になにかあったら、マヨルがなにをしでかすかわからないとは思っていたけれど。

 水没の刑は、さすがに駄目だ。

「マヨル、水を川に戻して」

「――殺しはしません。制裁を加えてやるだけです」

「マヨル、こわいから! 目が据わってるから!」

「地獄で反省するがいい!」

「ほら、地獄とか言ってるし! だめ――――っ!」

 マヨルの頭上でたゆたっていた水の塊が、大きくゆらいだ次の瞬間、細かくはじけた。

「――デジャンタン。トロメラウディ・メギデスタ・マグデュスタ。ジャデウス・ナザルス――マヨル・カロアラ」

 はじけた水が、中庭の石畳を濡らすことはなかった。

 水は飛び散ることなく、多数の小さな水の球となって、空中にとどまる。

 メリチェルの唇が紡ぐのは、歌うような古語。デジャンタン。マヨル。カロア川。名前をたくさん散りばめた、親しい人に語りかけるような言葉の連なり。

「メリチェル……カロアラ。ゲニウス・カロア――」

 小さな水の球ひとつひとつが、頭としっぽのある流線形に変化する。

「――カロア様のもとへ、お帰り」

 最後の言葉は、古語ではなかった。

 理由はないけれど、古語ではないほうがいいような気がした。現在の言葉で、自分の言葉で、メリチェルは言った。

 流線形に変化したたくさんの水の塊は、一団となってすいっと空へのぼった。まるで春の小川に群れをなす、命ある魚たちのように。

 朝の光を透かして、水の魚の大群がきらきらと輝く。

 日の当たる、明るく澄んだ海の中にいるかのようだった。

「うわあ」

「きれい」

「素敵」

 生徒たちからため息と歓声が湧きこぼれる。

 誰もがきらめく水の魚に心奪われ、快晴の青空を見上げていた。

 川を目指して、空をゆく水の魚たち。

「えっ?」

「あれはなに?」

「大きい……」

 生徒たちとともに、メリチェルも目を凝らした。

 空を泳ぐ水の魚が進路をそらす。群れが目指す方向は、川ではなく、はるか上空。空のかなたに見えるのは、透明で大きく細長い――。

「水龍――?」

 メリチェルは、信じられない思いでつぶやいた。

 太陽の光が、細く長い体に反射している。神々しい聖獣の姿。

 遠くて細部はよく見えなくとも、ミラがつくった龍の、鋳型のような固さはない。生きているように繊細にうねる、輝く水の龍。

 あれは、火事の夜に見た水龍とおなじだ。

 メリチェルはマヨルを見た。

 マヨルもメリチェルを見ていた。

 ふたりは同時に頭をふった。

(わたしが呼んだのではない――。マヨルでもない。では、誰が?)

 メリチェルは周囲を見渡した。

 いつのまにかレオニードが中庭に出てきていて、空を見上げていた。

 まさかレオニード先生が?と思いメリチェルが話しかけようとしたとき、レオニードがつぶやいた。

「ロギ……?」

「ええっ?」

 水龍は学院の中庭を目指し、急激に高度を下げてきた。

 急降下の勢いで風がおこり、メリチェルの髪を吹きあげる。

 風にまじって、「うわあああああ」と上空から声が聞こえた。

(ロギ!?)

 見上げるメリチェルの目に、水龍の背に乗る人物が見える。

 ふたりいる。

 龍の首にしがみついているロギ。それともうひとり、舞台衣装風の派手な装いの、現実感のない長い髪の人物。

 長い髪の人物は、重力など存在しないかのように、下降する龍に悠々と立って乗っている。その余裕の姿勢には、たしかに見覚えがある。

「え? え? カロア様?」

 しかし服がちがう。以前見た、優雅な古代衣裳ではなくて、それはまるで――。

「え? なにあの人。舞台俳優?」

「きゃああああ! かっこいい!」

「かっこいい?」

「顔はかっこいい。服は……場違い?」

「カロア川の精霊? あれがカロア様なの? すすす素敵……!」

「あの悪趣味を素敵というか……」

「ちょっといろいろどうなの……」

「カロア様――っ☆」

 熱狂的な反応と微妙な反応が入り混じる。

 それもそのはず。カロア川の精霊とおぼしき人物は、金モールと刺繍で縁どられた純白の長上着を着ていて……それはいいとしても、上着の下は素肌で、はだけた胸元をかくすのはふわふわの羽毛でできたストール、しかしそのストールは長い銀髪とともに風にあおられ後方へ流れ、今にも上半身を衆目の元にさらしそうな際どさだった。

(ちょちょちょちょ、どうしちゃったのカロア様!)

 メリチェルは目がちかちかしてきた。

 田舎の領地で、品行方正に育てられてきた伯爵令嬢には、素肌に長上着は刺激が強すぎた。羽毛のストールには金粉でも仕込んであるのか、いやにキラキラしている。

 それにも増してくらくらするのは、カロア様の目元口元の色っぽさである。

 おそらく、化粧している――。

「なんですか、あれは」

 マヨルが冷え切った声で言った。

「ロギと……カロア様、かしら?」

「あれが精霊ですか――――っ!」

 マヨルが龍に乗る麗人をおもいっきり指差す。それと同時に、高度を下げた水龍が頭上で停止した。

 大きく風が巻き起こる。水音はしない。

 誰もが固唾を飲んで、舞台を見上げるかのように透明な龍に乗った精霊を見つめた。

 メリチェルが呪術で生み出した水の魚が、群れをなして精霊のまわりを旋回する。

(あ、わたしがカロア様のもとへお帰りって言ったから……)

 精霊はゆったりと舞台下――中庭を見回し、メリチェルに目を止めると、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。

「素敵な出迎えをありがとう。メリチェル」

 精霊がそう言うと、魚の群れがさらに激しく舞い泳ぐ。朝のカロア川の水面のように、きらきらと日光を反射しながら。

「カロア様……。一体、誰が? 誰があなたを呼び出し、実体化の力を与えたのですか?」

「ロギ」

 ざわっと周囲がどよめいた。

 しかし、続く精霊の深い声が、ざわめきを押し止める。

「火事の日はメリチェル、そなただったな」

 もう一度ざわめきが大きくなり、今度のざわめきは、止まることがなかった。

「あの子が?」

「あの赤マントの子が?」

「メリチェルって呼んだ」

「メリチェルっていうのか」

 つぶやかれ、交わされる、メリチェルの名。

「へんな術式を唱えた」

「さっきのあれ、なんだったの?」

「きいたことない」

「マヨルと同じ?」

「マヨルがかばってた」

「白制服のマヨルが」

「メリチェルをかばってた」

「メリチェルを――」

「メリチェルが――」

「精霊を呼んだ――」

 広がり、伝わる、メリチェルの名。

 中庭にいる全員が、メリチェルを見た。赤マントのメリチェルを。

 メリチェルはまっすぐ顔をあげていた。

 正直なところ、こわかった。突然注目されることに、おびえない人なんかいない。メリチェルはついさっきまで、名もない「赤マント」だったのだから。

 しかしメリチェルは微笑を浮かべていた。全校生徒の視線を受け止め、自分の視線は精霊に向けていた。

 情けない姿を見せたらいけない。

 生徒たちにも、精霊にも。

 精霊を呼んだことがばれてしまったのなら、もう逃げも隠れもできない。この特異な立場をまっすぐ受け止め、責任を持たなければいけない。

 わたしは、メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタ。

 ソルテヴィル領を背負った娘。

 だから、わたしを見る人たちに、足の震えを悟られてはいけない――。

 メリチェルが微笑とともに、精霊に声をかけようとしたそのときだった。

「うっるせええええええ!」

 大声が轟いた。

 ロギだった。

「なんでこんな大人数が集まってんだよ? 授業中だろ? そもそもなんでおめーは、学院の中庭なんかに降りるんだよ? おめーの目立ちたがりに俺はもう付き合えねえよ!」

「デジャンタン術式学院の皆の者、私こそがカロア水系の主精――」

「黙れ!」

 そしてロギはあろうことか、精霊のうしろ頭をすぱーんとひっぱたいた。

「痛」

「痛くねえ! 精霊なんだから気のせいだ!」

「私の見せ場なのだから、そなたこそ黙れ」

「見せ場なんかいらん! なんでそっと事を運べないんだ!?」

「この姿のせいだろうと思う。注目されると、快・感。――痛」

 ロギがもう一回、精霊の頭をひっぱたく。

「おまえもう一回、メリチェルに造形し直してもらえ。その顔が悪い。その顔が」

「ことわる。私はこの顔が非常に気に入っている」

「メリチェル! こいついったん廃棄! 作り直せ!」

「駄目だメリチェル。私はこの顔が好きなのだ。そなたが死ぬまでこの顔とともに麗しく艶やかに生きる。それが、運・命。」

「くっそううう。こっ恥ずかしい人格を……!」

 さっきまでの気負いはどこへやら、メリチェルはぽかーんとするしかなかった。

 マヨル、レオニードも、見物の生徒たちも、全員が龍の上の掛け合いをぽかーんとした顔で眺めていた。

 一体なんなのだ、この漫才は……。

「俺は下りる……もう下りる……。見せ場でもなんでも、勝手にやってろ」

 ロギは水龍からすべり下りた。そして呆然としているメリチェルにつかつかと歩み寄ると、その手をつかんで走り出した。

「えっ、ちょっとロギ……」

 ロギとメリチェルに注目しているのはごく一部で、生徒や先生の大部分は、水龍の上で語る精霊を見ていた。

「皆の者、私こそがカロア川の精霊。支流傍流を従える大カロア水系の主たる精である。こうして人前に姿を現すのは、王都包囲戦の傷も冷めやらぬドクロワ王の御代から数え、まさに二百五十五年ぶり――」

 いやに慣れたかんじの口上が聞こえる。

 演説とでも言いたくなる、朗々たる精霊の語りである。

 精霊が何を話すのかメリチェルも気になったが、ロギが手を強くつかんではなしてくれなかった。

 メリチェルを引っ張ってゆく、分厚い大きな手。

 メリチェルは自分のふにゃふにゃの手が、ロギのしっかりした手の中で溶けて消えてなくなってしまうのではないかと思った。

 手をすっぽり包む体温を、意識せずにはいられない。

 頼りになる大きくあたたかな手。

 ロギの手。

「ロ、ロギ、どこ行くの……」

 小走りで人混みの中庭から遠ざかりながら、メリチェルはおろおろと言った。

「とりあえず、あのド阿呆から離れよう」

「ド阿呆って……カロア様のこと? カロア様って、あんな性格だったのね……」

 ふたりは人気のない校舎棟の裏まで来ていた。

 外壁に沿って植えられた灌木の繁みに、身をかくすように入り込む。

「最初はあんなんじゃなかったぞ……。一緒に旅をしているうちに、だんだん染まっていきやがった。悪趣味な女どもがきゃあきゃあほめそやすから、どんどん調子に乗って」

「最初はって? どういうこと? どうしてロギがカロア様と一緒に旅を?」

「……こいつを探す手伝いをしてもらおうと思って、ダメモトで呼びかけてみたのが運の尽きだった」

 ロギはメリチェルの手を離し、肩にかけた荷物を開けた。

 小花柄の布袋が、メリチェルの前に差し出される。

「海水で濡れてたから、術式で水分も塩分も払っておいた。汚れと傷はない」

「海水……。海まで行ったの?」

「まあ、くじらなら海だろ」

 ロギはとくにおどけた風でもなくそう言うと、肩をすくめてみせた。

「くじらなら海だろって……。ロギ。ロギ……」

 メリチェルはふるえる手で「くじらちゃん袋」の口を開けた。

 つぶらな瞳とにっこりした口が、袋の中からひょこっとのぞく。

 くじらちゃんはいつもどおりふわふわで、メリチェルが最後に見たときのまま、ぽやんとのんきな愛らしさを漂わせていた。

「くじらちゃん。ああ、くじらちゃん――」

 メリチェルはたまらなくなって、白くて丸いふわふわを抱きしめた。

 なつかしい感触。

 傷ついたメリチェルを受け止めてくれる、やさしい手触り。

 メリチェルは胸がいっぱいになって、こみあげてくる涙を押しとどめることができなくなった。

 腕の中に、大切なくじらちゃんがいる。あらためてその顔を見ると、当のくじらちゃんはのんきに「ただいまー」とでも言っているように見えた。

 メリチェルは笑った。

 泣きながら笑った。

 笑いたくて、泣きたくて、肩のふるえが止まらなくて困っていたら、頭の上にぽんと重みが加わった。

 頭をなでてくれる、ロギの手。

「よかったな」

 涙に濡れた顔で、メリチェルはロギを見上げた。

 人前で泣いたらいけないと両親に言われていたのに、ロギの前で泣くのは何度目だろう。この人の前では、どうしてこうも無防備になってしまうのだろう。

「ロギ、ありがとう……。本当に、ありがとう」

「いいって」

「あなたはくじらちゃんの恩人よ。どうお礼をしていいかわからないわ……」

「なんもいらんって」

 ロギはちょっと照れくさそうに、メリチェルの頭をわしわしなでた。

 ロギの手が離れそうになったから、メリチェルは反射的にロギの手首をつかんだ。

 離さないでほしかったから。だから、メリチェルはロギの手首を持って、彼の手のひらを自分の頬へ持っていった。

 顔に感じる、ロギの固い手のひらの感触。

 大きくて、あたたかな、ロギそのもののような手。

(あなたが好きよ)

 心の中で、メリチェルは言った。

 メリチェルはロギの顔を見ることができなかった。伏せた目を上げることができなかった。だから、目を見る代わりにロギの手に頬を寄せた。

 わたしは、メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタ。

 ソルテヴィル領を背負った娘。

(だけど、今だけは、ただのメリチェルでいさせて)

 このひとときだけ、貴族であることを忘れさせて。

 義務の笑顔を忘れさせて。このまま泣かせて。

 好きだから。

 ロギが好きだから――。

「メリチェル」

 ロギが深い声で、メリチェルの名前を呼んだ。

 メリチェルは伏せた瞼をあけた。

 メリチェルの目線に合わせて腰を落としたロギの、真剣な顔が目の前にあった。

「俺、絶対王立術士団に入る。王立術士団に入って、王様の目に止まって叙爵を受けてやる。なにがなんでもやる。絶対やる」

「……ロギ」

「どんな手使ってでもやる。マヨルとレオニードとド阿呆にすがりついてでもやる」

 ロギはもう片方の手もメリチェルの頬に当てた。メリチェルは両側から、ロギの手で顔を挟まれる形になった。

 このまま強引に、口づけされるような形――。

「だから、見てろよ。メリチェル」

 メリチェルの、一瞬だけ盛り上がった期待をよそに。

 ロギは両手に力を入れて、メリチェルの顔をむにょんと軽くつぶした。


 

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