第三章 くじらちゃんを探せ
教諭陣でも破れない結界術を持った生徒が、王立術士団候補生をはずされたうらみで暴走した。主幹教諭室放火事件の動機はわかりやすく、生徒たちは納得のうちにこの事件を飲み込んだようだった。
アンゼラは親しい友達がなく、年頃の娘らしい恋やおしゃれの話にもうとく、術式の成績が飛び抜けていいことだけに誇りを見出していた生徒らしかった。
そんな生徒が白制服を入学したばかりのマヨルにとられ、寄宿舎の部屋までマヨルの知り合いに譲るはめになったら、マヨルを消したくなるのもわかるよね――というのが、大方の生徒の感想だ。
事件から数日経っていた。
ロギは学院の中庭を歩いている。きょうの目的地は図書室ではない。学院長室である。
「……キヨスム・ランメル・ヴェナガウス・ジェインゾ・テラミアニアス……」
「親方ー! この石材どこ置きますー?」
「……ラマウス・スタリアス・フィードロクラスト・ルラカアスマスク……」
「荷車まだかー! もう一台持ってこいよ!」
今日も燃えた校舎の復旧工事が着々と進んでいるようだ。術式使いの教師陣と、力仕事の職人が、あっちこっちで声を上げている。
ぶつくさつぶやく術式と、威勢のよい職人たちの声が、石の中庭で混ざりあう。
どうにもへんなかんじだ。
ロギも仕事で火事の後始末を請け負ったことがあるが、もっと術者と職人が一体となって作業にあたっていた。術者のロギも作業着を着て煤まみれになって、廃材を運んだり灰をどけたり、誰が術者で誰が職人なんだかわからないような現場だった。
(あんな格好で現場に来たやつはいなかったぞ)
ロギの視線の先にはレオニードがいた。
あいかわらず、貴族のサロンにお呼ばれに行くようなしゃれた服装をしている。
「やあ。ロギ君」
レオニードはロギに気付くと、前髪をかきあげながらさわやかなほほえみを見せた。白い歯がまぶしい。
レオニードの手には分厚い術式辞典があった。なにか調べていたようだ。
「なにやってんすか、先生。授業は?」
「術式の授業はしばらく間引きしてやるんだ。術者の先生方も復旧にあたるからね。今日は歴史や古語の授業をやっているよ」
「ふーん」
「ロギ君にも手伝ってほしいなあ。ほかの先生方が君のことを絶賛していたよ。パロー先生なんて、君が言ったところに本当に結界記述があったって驚いていた」
「パロー先生?」
「ええっと……。なんていうか、その、頭髪がすずしげな先生だよ」
「ああ、ハゲの」
「はっきり言わないであげてくれたまえ……。ここは研究機関を兼ねた学校だから、理論派の先生方が多いんだよ。どうも現場に弱くて。君は術者として長年世間で仕事をしてきた人だから、実践力があるだろう? 効率的に灰をどける術式とか、煤汚れを取り去る術式とか、教えてもらえたらうれしいな」
ロギはレオニードが広げた術式辞典を見た。
主幹教師は、どうやら「煤汚れを取り去る術式」を調べていたらしい。そんなもの、そのまま載っているわけがない。
「んあ〜……。煤汚れを取り去る術式なら、まずですね……」
「ちょっと待って」
レオニードが短くなにかつぶやくと、石段に置いてあったノートと鉛筆が持ち主のもとへ飛んできた。そのくらい手を使って取れ!とロギは思った。
「いいですかね。まず、木綿の布を準備します」
「ふんふん、木綿の布」
「それから、水とアンモニア水と度数の強い酒を準備します」
「ふんふん」
「水とアンモニアと酒の割合は、水百に対しアンモニア――」
「ええっと、ロギ君、それは術式なの?」
「術式を使うのは、洗剤を作って布を浸して固く絞ってからっすよ。ぜんぶ術式でやるより、手を使って掃除しながら術を唱えるのが、一番効率がいい。術式は仕上げみたいなもんです。万能じゃない」
「……おおお!」
レオニードは感嘆の声をあげた。
こいつバカじゃないのか?とロギは思った。巷の術式使いの間では、こんなこと常識なのだが。
「先生」
「なんだい、ロギ君?」
「先生は先生になる前、なにをやってたんすか?」
ロギの予想は、レオニードは先生になる前は先生の助手で、その前は学生だったというものだ。ついでに言うといいとこのボンボンだろう。
しかし、レオニードの答えはロギの予想とは違っていた。
「王立術士団で術士をしていたよ」
「……!」
ロギはレオニードの整った顔をまじまじと見た。
このバカが?という思いでいっぱいだった。
「僕は複雑な術式を考えるのが好きだったから、研究員にならないかと学院から声がかかったんだ。人に教えるのも得意だったし、王立術士団よりは向いてるかなと思って」
「王立術士団、向いてなかったんすか?」
「向いてなかったねえ……。僕は術式そのものが好きで、何かのために役立てたいと思う性分じゃなかったから。なんだろうな、王立術士団の団員は、術士であることに使命感を持ってる人間が多いんだ。祖国のために、故郷のために、愛する誰かのために、災害地へ行き、戦地へ行き、体当たりで術を唱える。そんな団員たちがまぶしかった。志のない僕なんててんで駄目だなって、入団してすぐに後悔したな」
「……」
「アンゼラは僕に似てる。……だから、候補生から下ろした。彼女の実力はたいしたものだ。でも、王立術士団には向いてない。彼女のためだと思った。理由も話したつもりだ。でも、伝わってなかったんだな……」
レオニードは瞼を伏せた。
眉もかすかにふるえていた。
「僕が彼女の将来を閉ざしてしまった……」
「んなこたねぇよ」
敬語も忘れ、ロギは言った。
レオニードが伏せていた目を開き、驚いたようにこちらを見た。
世間知らずのボンボンだな、本当に――と思った。
だけど、いいやつだ。
「俺もやってる流れ術者には、やばい過去があるやつもいる。そのまま悪党になってやさぐれてるやつもいるけど、改心して仕事に打ち込んで、名を上げてるやつも大勢いる。犯罪者だったくせに貴族のお抱えにまでなったやつもいる。王立術士団だけが術者の生きてく道じゃねえだろ? そんなんだったら、ここにいる二百人の生徒ほとんどが将来なんてないだろうがよ」
「ロギ君……」
「元気出せよ先生。あんたの責任は半分くらいだ」
「え。半分はあるんだね……」
「まあ、あるんじゃねえの?」
半分はレオニード先生のせいだわと、メリチェルが言っていた。
乙女心を軽んじた罪だそうだ。
アンゼラの独白を間近で聞いたメリチェルは、動機と標的に関して、ほかとは違った見解を持ったらしい。
人は誰かを強く想うとき、良い方向にも悪い方向にも、一番大きな力を出すわよね――と、メリチェルは言った。
どういうことだとロギが訊いたら、メリチェルはこう答えた。
アンゼラになったと想像してみて。あなたはアンゼラで、あの主幹教諭室で、かっこよくてやさしいレオニード先生にお茶を淹れてもらい、レオニード先生の教える術式を彼と声を揃えて唱え、君は白い制服が似合うね、明るい色のほうがいいね、と言われているの。そんな場面を想像したら……そのすべてが夢のように消えてしまったことまで想像したら……せつなさの塊が、胸の奥からせりあがってくるような気分にならない?
「ならない」と即答したが、メリチェルの言いたいことはわかった。
(こいつはまあ、完全に自覚がなさそうだけどな)
ロギは、洗剤の配合を熱心に書きとめているレオニードを見た。
色男の真剣な横顔とは罪なものだ。うぶな少女にとっては特に。
乙女心を軽んじた罪、か。
アンゼラが貴族の令嬢に部屋を譲るとレオニードに申し出たのは、彼によく思われたかったからだろうか……。
「先生、あまり女生徒に親切にし過ぎないほうがいいんじゃねえの」
「なぜだい?」
「惚れられたら面倒だから」
「それは大丈夫じゃないかな。先日、命がけで親切にしたけど、そんな気配はまるでない」
「マヨルのことっすか? まあ、あいつはねえ」
「本当にまるでない……。いや、当然だけども。うん……」
(ちょっと待て)
ロギはあわてた。
なぜそこで、残念そうな顔をする?
(そりゃアンゼラに燃やされるぜ、先生……)
学院長室の扉を開けると、学院長が立ち上がって出迎えてくれた。
この学院を訪れた初日、施設の利用許可をもらいに来たときは、椅子に座って書類を見ながらだった。だいぶ待遇が変わったと言える。
「おお、ロギ君。契約書類は見てくれたかね?」
「はあ」
「組合の人間に君を紹介されたときは驚いたよ。これもなにかの縁だ。ぜひとも契約を」
「はあ、そのつもりで来ました」
ロギが学院長室を訪れたのは、仕事の依頼があったからである。仕事の依頼は、デジャンタンの術者組合を通して来た。
顔見知りの組合事務員が「術式学院から建物復旧と結界解除の依頼が来てるけど、あなた通ってるんだし、ちょうどよくない?」と仕事を持ってきたのだ。
ちょうどいいもなにも、復旧の手伝いくらいはさせられるだろうと覚悟していたので、賃金が出るならそれに越したことはない。
さらさらと書類にサインをし、契約成立となったところで、学院長が言った。
「カロア川の精霊を誰が呼んだか、組合でも見解は出ていないかね」
「いませんね。組合でも謎です」
ロギは淀みなく答えた。
嘘はついていない。組合では謎だ。
しかし、ロギの中では謎ではない。精霊を呼んだ当人の口からきいたことだし。
現在監禁処分になっているアンゼラの話題がさほど大きくなっていないのは、カロア川の精霊が出たという、もっと大きな話題に飲み込まれてしまったからである。
ほんとうにカロア川の精霊なのか?
そうだとしたら誰が呼んだのか?
文献にあるのと姿がちがうのはなぜか?
などなどなど。学院内のみならず、デジャンタンの街中がこの話題で持ちきりなのだ。
(ったく、どうするつもりだ。あの令嬢は!)
ロギはため息をついた。
同時に、学院長もため息をついた。
「どうしました、学院長?」
「実は、生徒たちからこんな嘆願書がたくさん出ていて……」
学院長は机の上の紙の束をロギにわたした。
一番上の紙には「呪術の授業を設けてください」と書いてある。めくって二番目を見ると「これからの時代、精霊の研究も必要だと思われます」とある。
「……相当刺激的な光景だったんですね」
「精霊など、前時代的な」
学院長はもう一度ため息をついた。
日が暮れるまで復旧作業にこき使われて、ロギがくたくたになって下宿に戻ると、メリチェルが居間でぼんやりしていた。
ベルタは夕食のしたくらしい。台所から鼻歌が聞こえる。
「どうした?」
めずらしくメリチェルが沈んでいる。
いつも笑っていて当然のように思っているので、生気のないメリチェルにはとまどってしまう。
「くじらちゃんのことを考えていたの。どこいっちゃったのかしら……」
「そんなことより、今後の身の振り方を考えたほうがいいんじゃないか? どのタイミングで『わたしがカロア川の精霊を召喚しました』って公表するつもりだ?」
「公表しないわよ。あれから一度も呼べないもの」
「どんな文言で呼んだのかくらい教えろ。俺にだけこっそりと」
「文言なんてなにも言わなかったって何度も言ったでしょ。名前を呼んだだけよ――カロア様って。カロア様、マヨルを助けてって。あのままじゃマヨルが死んじゃうって思って、必死で」
「ほんとかよ」
「カロア様はわたしの気持ちに応えてくれたんだわ。だから、わたしが想像した姿をとって出てきてくれたのよ。やさしい精霊さんね、カロア様は」
「やさしい? ひと癖ありそうな顔してたぜ」
「人はそういうほうが魅力的じゃないの」
「人じゃないだろ」
「精霊は人が理解しやすいように、人になって出てきてくれるからいいのよ、別に」
「ほかにも精霊を知ってるような口ぶりだな」
「知ってるわよ、いっぱい」
「……おまえさらっととんでもないことを」
ロギを無視して、メリチェルは窓の外を眺めた。夜なので、部屋の明かりがガラスに反射し、カロア川は見えない。
「カロア様、どうしてまた出てきてくれないのかしら……」
「出てきたら大騒動になるからじゃないのか?」
「カロア様にお礼を言いたかったのに……」
「流路を変えてくれとか言い出すやつがいたら困るから、ほいほい出てこられないんじゃないか? 河川は値のつけられない公共財だ。デジャンタンにとっては命綱とも言える。飲料用としても、水路としても」
メリチェルははっとしたようにロギを見た。
「俺がカロア川の精霊なら、おいそれとは出てこられねえな。もしも悪い人間にとっつかまっていいように操られたら、都市存亡の危機だ」
「都市存亡……」
「昔の童話であったよな。王様が精霊を好き勝手に操ったせいで、国が滅ぶ話。あれ、実話かもな」
「……」
「メリチェル」
ロギの呼びかけに、メリチェルが顔をあげた。
ロギは彼女を励ましたいと思った。
こいつは、笑ってるのが似合う。砂糖菓子みたいにふわふわ楽しげに笑っているのに、ときおりとんでもなく強気で辛口になるのが似合う。
「おまえならだいじょうぶだよ。デジャンタンを滅ぼしたりしないさ。精霊はきっとまた出てきてくれる」
「だいじょうぶじゃないわ……」
らしくない、弱気な言葉だった。
「どうしたんだ?」
「だって、アンゼラを追いつめたのはわたしかもしれないもの」
「まさか。おまえが何やったっていうんだ」
「つい意地になって知識をひけらかして、アンゼラの自尊心を傷つけたわ……。アンゼラだって、意地になってひどい言葉を返しただけだわ。あんな言葉、レオニード先生には聞かれたくなかったはずよ」
「あれはおまえのせいじゃないだろ」
「そんなのわからないじゃない……」
「わからないことで落ち込むなよ」
「優秀な人の未来を潰したわ。アンゼラはもう学院に戻れない」
ここにも世間知らずがいた。
いいとこのボンボンだの貴族のご令嬢だのは、最初から高いステージにいるから、敗者復活戦になじみがないのだろう。
「おい、出かけるぞ」
「えっ?」
「おかみ、ちょっと出かけるぜ。夕飯までには戻る」
ロギは台所へ声をかけた。ベルタも「えっ!」と声をあげる。
「ちょっと、どこ行くのつもりよロギ?」
「流れ術者の溜まり場だ」
大衆酒場なんてはじめて来た。
昼間は食堂のようだ。日が落ちてからは、一日の仕事を終えた労働者がアルコールの解放感を求めてやってくる場所に様変わりするのだろう。
メリチェルは薄暗いカウンターの奥で、ちょびちょび林檎果汁をなめていた。
カウンター内の棚には銘柄のわからない各地の酒が、ずらりと並んでいる。
見たことのないラベル。嗅いだ事のないお酒の匂い。流しの歌い手が歌う、聞いたことのない恋唄の甘いしらべ。
――知らない、雰囲気。
メリチェルの知らない雰囲気の中、ロギはここに住んでいるかのごとき自然さで、蒸留酒のグラスを手に酒場の主人と話している。
(ロギっていくつなんだろう……)
二十歳くらいだと思うのだが、ときどきレオニード先生より年上に見えることがある。
慣れた様子で初老の主人と話す姿は、メリチェルの知らないロギだった。
「学院の結界師の話は、ここでも出るかい?」
学院の結界師? ロギの言葉に、誰のことだろうとメリチェルは思った。
「ここでもってことは、組合でも出てるんだな」
「そりゃあ出るさ。お高くとまった術式学院のエリート教師たちが、誰も破れなかった結界を編んだんだぞ? 事件を起こしたからにはエリートコースからこぼれてくる。ひとり立ちするには経験がない。さあ、どこが彼女を手に入れるのかな――」
「あくどい組織に引っかからなきゃいいけどな」
「あくどい組織っ!?」
話の流れからアンゼラのことだと察しがついた。
メリチェルは思わず声をあげた。
「ロギ、さっきから気になってるんだが、このお嬢ちゃんは?」
「実は、学院の結界師の友達なんだ。友達の行く末が気になってしかたないらしい。彼女に未来はあるのかってな」
「あるある。よりどりみどりだろう。結界師は需要が多いが、知識が要るからなれるやつが少ない。ほとんど学校あがりだから、貴族のお抱えになっちまって巷に流れてこない。組合で仕事して名があがれば、金持ちの大商人が続々引き抜きに来る」
「うらやましい話だぜ」
「ロギ、おまえ、結界師めざしてるんじゃなかったか?」
「あれは挫折した。覚えることが多すぎる」
「あいかわらず売りなしか。器用貧乏から脱出できんな」
「うるせえ!」
ロギと主人はそのあと、流れ術者から王立術士団に入った知り合いの武勇伝だとか、山賊になった術者がついに捕まった話とか、仕事相場の街による違いとか、うわさ話や世間話をいくつかした。
メリチェルは林檎果汁を飲みながら、ふたりの話に聞き入っていた。
(ロギは、学校以外にも道はいくらでもあるって、わたしに教えたかったんだわ)
おどけた調子で主人と話すロギの、精悍な横顔を見つめる。
(ロギって頼もしい)
甘い果汁をひとくち、口に含む。
(それに……やさしい)
蒸留酒一杯、果汁一杯ですぐに店を出た。
ロギの知り合いらしい色っぽいお姉さんが「あら、もう帰っちゃうの? 子守って大変ねえ」と声をかけてきたから、ちょっとムッとした。
たしかに子供だけれど。
なにも知らない子供だけれど。
「はやく戻らないとおかみに怒られる」
ロギのほうも、遊び過ぎて家に戻るのが遅れた子供みたいなことを言っている。
近頃普及しはじめたガス灯が、夜の街をおぼろに照らす。
田舎のソルテヴィル領は夜になると真っ暗だから、ガス灯が照らす街もメリチェルの知らない世界だった。
知らない世界に、ロギとふたりでいる。
「ロギ……きょうはどうもありがとう。安心したわ。アンゼラのこと」
「そのことなんだけどな」
ロギはまじめな顔でメリチェルを見た。
「おまえ、アンゼラに『道はいくらでもある』って言うのか?」
「面会させてもらえないから言えないわ。アンゼラは監禁中だし……。手紙を書くわ」
「今?」
「ええ。近いうちに」
「ほっとけよ」
「どうして? アンゼラ苦しんでるわ」
「苦しめばいいと思うぜ、俺は。あいつがやったことは人殺しだぜ? 相手がマヨルとレオニードじゃなかったら、確実に死んでた。しばらくどん底で苦しんでみたらいいんじゃねえの」
「ひどい。そんな……」
「どんな理由があるにしろ、あいつは犯罪者だ。術式は危険な技術だ。悪用したやつはそれ相応の報いを受けてもらわなきゃ困る。俺はおまえの気を軽くするために、アンゼラにも将来はあるって教えたかっただけだ。アンゼラのためじゃねえよ」
「アンゼラのためじゃなかったの?」
「おまえのためだ。落ち込んでるから」
「わたしのため……?」
「さっさと帰るぞ。腹減った」
ロギは本当に空腹らしく、腹を押さえながら足をはやめた。
メリチェルはロギの広い背中を追いかけながら、誰にも聞こえない小さな声で「わたしのため……?」とつぶやいた。
「あ、あ、あ、あの男と酒場に行ったですって!?」
「ちょ、ちょっとマヨル、声大きいわよ。しかもそこ、まだ話の焦点じゃないわよ」
メリチェルはしーしーしー!と唇に指を当てた。
「男と酒場」に反応して、周囲で昼食をとっている生徒たちが注目してくる。
時間割に追われるマヨルとは、学院の食堂で昼食をとるときくらいしか一緒にいられなかった。しかし、これではアンゼラの話などできない。
「どういうことです? 返答しだいでは、ばあやさんと伯爵に報告を……」
「やめてー! やましいことなんかなにもないわよ!」
「あったら私は死んで伯爵にお詫びします!」
「みんながじろじろ見るから、そういう過激なこと言うのやめて!」
マヨルはまるで刃のような、薙ぎ払うかのごとき視線を周囲にめぐらした。
生徒たちがマヨルにおそれをなして目をそらす。
(白制服だからとか異人種だからとかいうより、この目つきがこわくて誰も近寄ってこないんじゃないかしら……)
マヨルがメリチェルを心配してくれるのと同様、メリチェルだってマヨルが心配だった。
まるで手負いの白豹みたいに、こんなふうにすぐ牙を剥いていたら、誰とも仲良くなれないではないか。
「あら、マヨル、いたいた。レオニード先生がお呼びよ。時間割の変更についてですって」
聞き覚えのある声がした。
テーブルの間を縫ってやってくるのは、眼鏡の紺色生、舎監のコレットである。
コレットはマヨルのような威圧感はまるでないのだが、紺制服の威力なのか、茶制服の生徒たちがささっと道を開ける。そのひとりひとりに「ありがとう」と言っているところが、さすがコレットだなあとメリチェルは思った。
「明日から象徴記号体系と語彙論の授業が再開されるみたいよ。調整があるから、紺色以上は談話室に集合ですって」
「わかった」
マヨルは短い返事をして立ち上がった。
自分の食器だけではなくメリチェルの食器も片付けようとするので、メリチェルはあわてて自分の食器を押さえた。
「自分でやるわ」
「でも」
「お嬢様扱い禁止って言ったでしょ」
「……」
マヨルはちょっとすねたように唇を噛んだ。
メリチェルは彼女に、はやく行きなさいと目で命じる。
マヨルがコレットについて食堂を出るのを見送りながら、また明日まで話す時間はないのかなあと残念に思った。
さみしくないと言ったら嘘になる。
しかし、アンゼラの部屋が空いたから寄宿舎に入らないかという話を断ってしまった手前、さみしいとは言いづらい。
(だって、寄宿舎に入ったらマヨルは絶対わたしの世話を焼こうとするわ。勉強時間と睡眠時間を削って……)
いまだに水も動かせない赤マントの分際で、白制服の勉強の邪魔をするだなんて。
メリチェルはテーブルの上の汚れた食器をみつめた。
片付けて席を立とうと思うのに、腰が重かった。次の授業は、茶制服にまじって術式の実習だ。実習でなにも動かせないのは自分だけ――。
「ねえ、あの子赤マントのくせになんでマヨルさんと一緒にいたの」
「貴族の令嬢だからでしょ」
ぼんやりしていたら、こんな言葉が耳に飛び込んできた。
赤マントのくせに――。
マヨルさんと――。
(わたしは赤マントの貴族の令嬢で、マヨルはマヨルさんなんだわ)
わたしは、ここでは名前がないんだわ……。
「あっ、ロギさんだ」
「ロギさーん!」
今度は別のテーブルから、男子生徒の声があがる。
ロギが遅い昼食をとりに、食堂へ入ってきたところだった。
近ごろロギは復旧作業に駆り出されて、いつも図書室にいるとはかぎらなくなった。火事の時、先生方の先頭に立って指揮していたのがロギであることはすっかり知れ渡ったようで、「実践派」を目指すやんちゃな男子生徒から憧れの目で見られている。
「ロギさん、こっち座って! また旅の話きかせてよ」
「おう」
ロギはメリチェルには気付かず、元気いっぱいの男子たちのテーブルについた。
ロギのことを知らない先生はいないので、ロギはもう赤マントを身につけない。必要なくなったのだ。
「赤マント」ではなく、ロギはもう、学院じゅうで「ロギ」だった。
「ちょっと、食べ終わってるならさっさとどいてよ」
冷ややかな口調が頭上から降ってきた。緑制服の女生徒ふたりが、トレイを手にメリチェルを見下ろしている。
「あら。ごめんなさい」
メリチェルは笑顔を見せて、すぐに席を立った。
ほんとうは、笑いたくなんかなかった。
「赤マントが窓際のいい席なんか座らないでよね」
「……」
「なによ。さっさと行きなさいよ」
追い払われるように言われて、メリチェルはそそくさとテーブルを離れた。
「ちょっと言い過ぎじゃない? あの子貴族らしいわよ」
「ここでは身分は関係ないわ。ふふ、えらぶった貴族がいい気味」
そんな会話が背後から聞こえてくる。
メリチェルは言い返す気力が湧かなかった。せめて顔をうつむけないようにしようと、背筋を伸ばす。
母はいつも言っていた。「貴族社会は、見えない駆け引きの糸が張り巡らされているところです。社交界ではなにを言われようと、堂々としていなければいけません。泣くのは屋敷に戻って、自分のベッドに入ってからよ」
ベッドで泣くときにはいつも、くじらちゃんがいた。
(くじらちゃんにあいたい……)
学院生に冷たくされることよりもなによりも、くじらちゃんがいないことに泣きたかった。
昼食のあとの術式実習はまるでうまくいかず、メリチェルは水槽の水にさざ波すら立てることができなかった。
先生はあきれたように言った。
「君はここになにしに来たんだ?」
一緒に実習を受けている茶制服の生徒たちがくすくす笑う。
茶制服でも、水を別の水槽に移すくらいのことは全員ができる。
「術式を学びに」
ほかに答えようがなくて、馬鹿正直にメリチェルは答えた。
「術式を発動させるには、生まれながらの素質が要る。教科書通りに術式を唱えてもなにも起こせない人は、努力があまり意味をなさない」
がんばっても無駄。
そう言われてしまった。
「期日までまだ時間は残っているので……がんばらせてください」
メリチェルの言葉に、先生は黙ってうなずいただけだった。
実習が終わると、茶制服以下はもう放課後だった。このところ、復旧工事のため短縮授業の日が多いのだ。街へ遊びに繰り出そうという計画が、あちこちでささやかれている。
アクセサリーや小物を売る店をめぐろうという話が聞こえてきた。「いいわね」と話しかけたら、話していた女子生徒たちは、あいまいな笑顔を浮かべて押し黙ってしまった。
あいまいな、拒絶の笑顔。
(わたしも行きたいって言ったわけじゃないのに)
心の中でメリチェルは言った。
「みなさん、さようなら」
さようならの言葉を返してくれる生徒は誰もおらず、メリチェルはひとりで実習室を出た。
きょうこの時間帯の門番は、セロロスではなかった。愛想のうすい若い門番は、メリチェルが「さようなら」と声をかけても、面倒そうに「さよなら」と言うだけだ。
足が勝手に、広場の向こうのカロア川へ向いた。
煉瓦づくりの堤防を下り、川辺の草地に降りる。
やわらかな下草がドレスの裾をなでるのを感じながら、水際に歩み寄った。
さらさらと流れるカロア川。
「カロアさまー……」
カロア川は今日も、メリチェルの呼びかけに答えることはなかった。
ロギはちゃんとした家庭生活を営んだことがない。
術者としては凄腕だがちゃらんぽらんな父親のもと、適当に育てられて今に至る。
父親は今もどこかで流れ術者をやっていて、うわさだけは行く先々できく。元気で暮らしているようでなによりである。
母親は、名前だけ知っている。
会いに行くことは許されていない。
父はあろうことか、上流階級の未亡人を孕ませてしまったのである。その結果がロギである。母の家では、ロギは最初からいなかったことになっている。存在自体があやまちなのである。だから、会いには行けない。
そのことに不満を持ったことはない。
ない……と思う。
幼いころ、母がいないことをどう思っていたかは忘れてしまった。
けれど、もしふつうの母親がいて、父親も流れ者なんかじゃなかったら……こんなふうに暮らしていたのかもしれないと、セロロスとベルタの下宿に帰るたびに思う。
息子を三人育て上げたセロロス夫妻は、とても自然にロギを扱う。
まるでロギがここで生まれ育った子供であるかのように。
ふたりに娘はいなかったから、セロロスはメリチェルにおっかなびっくり接し、娘がほしかったベルタはおもしろがって世話を焼いている。
妹がいたらこんなかんじだろうか。
最初はうっとうしいと思ったが、女の子がいる家というのは案外悪くない。なんと言っても空気が明るい。
(いや、女の子だからというより、あいつだからか)
マヨルやアンゼラだったらこうはいかないだろう。
ロギはマヨルの刃物のように鋭い目つきを思い浮かべた。家に帰ったらあの視線に迎えられると想像すると、申し訳ないがぞぞっと寒気がする。
(レオニードの趣味がよくわからん……)
惚れているというほどではないのかもしれないが、目標を持つ姿を応援したくなるとかなんとか言っていた。自分は志がないと嘆いていたから、故国を思う彼女がまぶしく見えるのだろう。ないものねだりだ。教師としての道を踏み外したらおもしろいのにと、無責任なことを考えてにやにやする。
一日の労働を終え、下宿への道をたどる。一応、契約の任期は明日までだ。学院長は延長してくれないかと言ってきたが、自分は働きに来たのではなく勉強に来たのだと言ってやった。これ以上便利に使われてたまるか。
空腹を抱えて下宿の扉を開ける。
料理のいいにおいと、メリチェルの笑顔が出迎えてくれるはずだった。
――が。
「ど……どうしたんだ?」
メリチェルは長椅子でぽろぽろ涙をこぼしていた。ベルタが横に座って彼女の肩を抱いている。
いつもは笑顔の令嬢は、ときおり鼻を啜りあげながら、ひっく、ひっくと泣きじゃくっていた。
「く……くじらちゃんにあいたい……」
またそれかとは言う気になれなかった。
今のメリチェルには、砂糖菓子のような笑顔も辛口な言葉もなかった。しおれた花のようにうなだれて、両手に顔をうずめてしくしく泣いている。
一体どうしてしまったんだ。
ロギはまずあわてた。それからだんだん、悲しくなってきた。
泣かないでほしい。
いつものように笑顔を見せてほしい。
うっとうしいくらい、話しかけてほしい。邪魔してもいいから。いくらでも、邪魔していいから。
「わかった。探してやる」
ロギの言葉に、メリチェルは涙でぐしょぐしょの顔をあげた。
あと二、三年したら大した美人になりそうなその顔は、まぶたが腫れて台無しだった。
メリチェルはひくっと小さくしゃっくりをした。なかなか言葉がでないようだった。
「どんなんだ? そのくじらちゃんってのは」
「白くて、丸くて、メロンくらいの大きさなの。ちっちゃなおめめに、にっこりしたおくちなの。ふわふわしてて――かわいいの」
くじらちゃんのことを思い出しているうちに悲しみが新たにこみあげてきたのか、メリチェルの口元はわななき、声はふるえにふるえた。
「かわいいの。とてもかわいいの。五歳からずっと一緒だったの。大切だったの」
ロギはメリチェルの頭にぽんと右手を置いた。
メリチェルに触れるのははじめてだった。
頭蓋骨ちっちぇえなと思った。髪がやわらけえなと思った。
本当に、まだ咲く前の弱々しい蕾なんだな……。
「探してやる」
頭に手を置いたまま、ロギはもう一度力強く言った。
メリチェルに笑顔が戻るなら、なんでもしてやろうと思った。
(白くて、丸くて、メロンくらいの大きさ。ちっちゃなおめめ。にっこりしたおくち。ふわふわ)
なにかが頭に引っかかっているのだが、なにが引っかかっているのか思い出せない。
ロギが頭の引き出しをあっちこっち引っ張り出してうんうん悩みながら歩いていると、「やあ、ロギ君」とさわやかに引き止められた。
だいぶ復旧の進んだ校舎を背に、きょうもおめかしした主幹教諭が前髪をかきあげている。「服が汚れるぞ」と注意したら「汚れてもいい服だから」とのたまわったボンボン教師が、ロギには若干うっとうしかった。
「おはよっす。んじゃまた」
「通り過ぎないでくれたまえ」
どうして自分のまわりには、こう遠慮のないタイプが多いのか。
考え事をしていますと表情に張りつかせているつもりなのだが、わからないのだろうか。
「なんか用か?」
もう敬う気も失せている。
「学院長が君に逃げられたと嘆いていたよ。君のおかげで復旧がだいぶ進んだから」
「だいぶ進んだなら、もう俺はいらないだろ」
「正式に職員として働いてくれないだろうかと言っていたよ」
「教師の資格なんかねえぞ」
「教師ではなく、用心棒兼用務員として。君ってなんでもできて便利だからね」
またしても器用貧乏ぶりを発揮してしまった自分に、ロギは自己嫌悪をおぼえた。
「悪いが、ここには勉強に来たつもりなんで」
「そこをなんとか説得してもらえないかと、僕が院長に頼まれたわけで」
「先生、勉強させてくれ」
レオニードは教師のくせに、勉強の邪魔をしてはばからないのだからあきれる。
「仕事の合間にも勉強はできるよ。授業料なしで好きな授業を受けられる特権をつけると院長が言っていた」
「ここの教育課程に魅力は感じない。魅力的なのは図書室の古書だけだ」
ロギはすっぱり言ってやった。
近代の術式学校には、ロギの求める呪術の授業はない。
「えええ〜……」
「悪いな。今日の仕事を済ませたら、俺はしばらく自分の用をする。邪魔しないでくれよな」
「自分の用ってなんだい?」
「探し物だ」
「なにを探すんだい?」
うざい。
そう言ってやりたくなった。もうほっといてほしい。
しかし、そんな気持ちを押さえてレオニードに向き直る。こいつはうっとうしいが、術式にかけてはロギなど足元にも及ばないエリートだ。実践向きではないが、頼りになるときがあるかもしれないと考え直す。
使えるものはなんでも使う。それが流れ術者の心得である。
「白くて丸くてメロンくらいの大きさで、ちっちゃなおめめでにっこりしたおくちのふわふわだ」
「は?」
「くじらちゃんだ」
「鯨は白くも丸くもメロンくらいの大きさでもなく、目は体との比率的には小さいかもしれないけど口はにっこりしてないし、ふわふわでもない」
「んなこたあ知ってるよ!」
「つまりそれは鯨ではない」
「鯨じゃねえよ! くじらちゃんだ!」
「鯨とくじらちゃんは別のものということだね?」
「あたりまえだ」
「では、くじらちゃんとはなんだね?」
ぬいぐるみだ。
そう言おうとしたのに、ロギの口から出たのは別の言葉だった。
「メリチェルの大事な友達」
ふっと、レオニードの目元がやさしくなった。
「……一般的にはぬいぐるみと呼ばれるものだね?」
「そう、一般的には」
「メリチェルが大事な友達をなくしてしまったから、君が探してやると。そういうことだね?」
「念を押すみたいに言わなくていい」
ロギは頬を赤らめて、ぷいっと横を向いた。
「協力しよう。痛々しいほどにがんばっている、メリチェルのために」
「……あいつ、そんなにがんばってるのか?」
「術式に関しては、僕は関わってないからわからない。でも、彼女のがんばりはわかる。暗い顔ができないんだよね、貴族の子はさ。無理にでも明るくふるまう癖がついてる」
「暗い顔ができない? どういうことだ?」
「メリチェルは領主の娘だろう? 家には大勢の召使いがいて、来客もしょっちゅうだ。家にいても、そこはくつろぎの場じゃない。大勢の目にさらされている。さらには社交界という戦場がある。ちょっとしたうわさが家の評判を上げたり下げたりする。社交界で感情をあらわにすることは許されない」
「……」
「貴族の子は、いつも笑っていなさいと言われて育つ。怒ったらいけない。泣いたらいけない。堂々とした態度で、おだやかな微笑を張り付けていなさいと。子供には、凄まじい重圧だよ」
「あんたも貴族か?」
ロギの疑問に、レオニードは肯定の微笑で答えた。
「――僕は術式の研究に逃げ場を見つけた。メリチェルはなんだろう……。くじらちゃんかな? だったら見つけてあげたいね……。赤マントのメリチェルは、学院で誰にも相手にされていないから。さみしさに耐えてると思うんだ」
「マヨルは……?」
「白制服はほとんど自由時間がないんだ」
「……あいつ、なんでそんな思いまでして学院に通ってるんだ? 術式なんかで身を立てなくとも、悠々暮らしていけるじゃないか」
「国を殺した王様の話を知ってるかい?」
「は?」
いきなりの話題転換に、ロギはついていけなくて眉間を寄せた。
「古い童話だよ。川の精霊と友達になった王様の話。王様は精霊に頼んで、川の流路を変えてもらった。自国の畑をうるおすために、川の精霊に自分の国を通ってくれるよう頼んだんだ。そして王様の国は豊かになった。けれど、もともと川が流れていた隣の国は、畑が干上がって貧しくなった。隣の国の王様は、王様の国に攻め入って滅ぼしてしまった……って話」
「ああ。知ってる。それがなんだ?」
「あの童話は半分実話だよ」
「え……」
ロギは目を見張った。
ついこの間、メリチェルとそんな話をしたばかりだったから。
「童話らしく王様ってことになってるけど、あれはソルテヴィルの古い領主だ。ソルテヴィルが川の瀬替えをした記録が残ってる」
「ソルテヴィル……メリチェルの故郷か」
「瀬替えの結果民が飢えたのは、北のセイリャの国境部。今でも不毛の地だね」
「……」
「童話と違うのは、セイリャの国境の村は、ソルテヴィルに攻め入る元気なんかなかったってことさ。飢饉が起こってほとんどの民が死んだからね」
「その流路変更は、精霊の力を使ったのか?」
「さあ、そこまではわからない。記録が古すぎて、実際のことと民間伝承が入り混じってるからね。ただ、社交界でよく出る話に、ソルテヴィルのソシュレスタ家は、呪術師の家系だ――って話がある。家の箔付けのためにでっち上げた伝承かな? ……どうもそうじゃない気がする」
「……」
「メリチェルじゃないかな」
レオニードの目が光を帯びた。
おとぼけぶりはなりをひそめ、頭の回る実力者の顔になっていた。
「なにが?」
「カロア川の精霊を呼び出した人物だよ」
「……どうだろうな」
しばらく沈黙が流れた。
ロギはレオニードから目をそらしはしなかったが、沈黙がすべてを語ってしまった。
レオニードは前髪をかきあげた。
「これは僕の仮説の話だ」と前置きをして、語り始める。
「ソシュレスタ伯は娘の呪術師としての素質をおそれた。狭い領地だけで暮らしていたら、いつか先祖のように、自領の利益だけを考えて自然の摂理を変えてしまうかもしれない。そうなる前に、なるべく広い世間を見聞させよう。広い視野を持たせよう。挫折も経験させよう。多くの人と交流させよう……。そう考えたんじゃないかな」
「娘を手元に置いて監視するのではなく?」
「僕はソシュレスタ伯爵の人となりを知ってるけど、鳥を鳥籠で飼わない人だよ」
レオニードの言葉にロギはうなずいた。
令嬢があんなつつましやかな下宿で暮らすことに反対しない伯爵は、かなり変わり者だと思っていたから。
「だけどこのままじゃメリチェルを入学させられない。規則は規則だから」
「……そこをなんとかできないか」
「僕は不正をしないよ」
「不正ではなく、正規の方法で」
メリチェルに術式を指導してやってくれ。
そう言う意味をこめて、ロギはレオニードの目を見つめた。
「努力してみよう」
「……感謝する」
「自分のことじゃないのに、君が感謝してくれるなんて。さては君、メリチェルのことを……」
「はあっ!?」
ロギはおもいっきり素っ頓狂な声をあげた。
「そうかそうか。しかし道のりは険しいな。相手は貴族の令嬢だよ? 王立術士団に入って名をあげて、王様の目に止まって叙爵を受けないとむずかしい。うわあ、男のロマンだね! そういう目標があるってうらやましいなあ」
「……てめぇ、なにお花畑なこと言いやがる」
「応援するよ!」
「するな!」
「そうかあ。メリチェルかあ。まだ子供だけど、将来きっと凄い美人になるよ。ふふふ」
「ふふふじゃねえ! そんなんじゃねえし! 妹みたいなもんで……」
「照れない照れない」
「照れてねええええええ! ちがうし!」
ロギは絶叫した。なんということだ。にやにやしてやるつもりが、にやにやされることになってしまった。
うざい。
心の底からこのボンボンがうざい!
「さしあたり、くじらちゃん探しを応援しよう。マヨルがメリチェルの荷物を寄宿舎に届けたとき、アンゼラが空けた部屋に置いたんだ。部屋には術式避けの結界と鍵があったけど……術式避けも鍵も新しくなっていたけれど……あのアンゼラだからね」
レオニードがなにを言いたいか、ロギにはすぐにわかった。
メリチェルの荷物は、アンゼラのものだった部屋に置いてあった。自分から部屋を譲るとは言ったものの、アンゼラは無邪気に部屋を奪いに来た貴族の令嬢を内心うとましく思っていた。腹いせに結界を破って部屋に侵入し、大切そうにしまわれていたぬいぐるみを……。
「そうか」
ではまず、アンゼラに面会を求めて――と思い立ったとき、記憶の引き出しがひとつ開いた。
アンゼラがカロア川へ投げようとしたもの……。
意地の悪い女生徒に川へ蹴り入れられたもの……。
それは、白くて丸くて軽いものだった。
ロギがレオニードの顔を見ると、彼は諦念のような、さみしげな表情を浮かべていた。
アンゼラの暗闇をあばくような予測は、本当は口にしたくなかったのかもしれない。
「――捨てられなかったんだ」
ロギは言った。少しでもレオニードの心を救いたくて。
「うん?」
「アンゼラは、川へ投げ捨てられなかったんだ。思い出した――。俺は、アンゼラがくじらちゃんを捨てようとした現場にいたんだ。でも、アンゼラは捨てなかった。あのときはまだ、アンゼラの良心は、完全に死んじゃいなかった」
「では、くじらちゃんはどこに……?」
「紺制服の生徒が、知らずにカロア川へ蹴り入れた。そのまま、流れていった……」
空気に絶望が走ったかに見えた。
「ロギ君――それではもう」
「海かな」
ロギはぼそっとつぶやいた。
「えっ?」
「海かな、それとも海までいってないかな……。下流域も探さないと。こりゃ骨が折れそうだ」
「探す気かい……?」
「そりゃ、探すさ」
あたりまえのようにロギは言った。仕事柄、失せ物探しは慣れている。今回は相当難航しそうだが。賃金だって出ないのだが。
それでも探す。
探してみせる。
「探すんだ……。愛の力はすごい」
レオニードは感嘆した。
こいついつか殴ってやろうと、ロギは密かに決心した。
女の集団は苦手なので、ロギは学院で女生徒たちをしげしげ眺めたりしない。
しかし、あらためて観察してみると、女生徒たちは少人数でまとまって行動するのがふつうであるようだ。
おもしろいことに、学園内身分が「平民」である茶制服は、茶制服どうしでしかつるまない。学院内身分が「中産階級」である緑制服と、学院内身分が「貴族」である紺制服は、行動を共にする場合もあるようだ。
そして、「平民」としてすら勘定に入れてもらえない赤マントはというと――。
中庭を、赤マントがたったひとりで横切っていく。
メリチェルだ。
「おい」
ロギは漆喰補修の作業を止め、ぴょこぴょこ歩いているメリチェルに声をかけた。
「『おい』じゃないわよーだ」
つんとした表情をつくり、メリチェルはすねたようにななめ上を向いた。
「メリチェル」
「はい、なあに? ロギ」
きのうあんなに泣いていたくせに、まるでなにもなかったように、メリチェルは愛らしい笑顔で答えた。
レオニードの話をきいていなかったら、ロギはあたりまえのようにメリチェルの笑顔を受け止めていただろう。
なにも意識することなく。
こいつはこういうやつなのだからと、メリチェルの努力など知ることもなく。
午前の新鮮な光を浴びるメリチェルの笑顔は、まぶしいほどに輝いていて、努力の影などみじんも感じさせない愛らしさだった。
学院のみなが誰かと一緒にいる中、メリチェルだけはたったひとりでいるのに。
こいつは暗い顔ひとつせず、名前を呼ばれれば笑うのだ――。
「メリチェル」
ロギはもう一度名前を呼んだ。
舌の上で、あの蜂蜜色の飴を転がすように。
メリチェルがもう一度、やさしく目を細める。
名前には、なにかが宿っているのだな――。
ロギはそう感じた。
それがなにかは分からないけれど。
きっと精霊のように、得体の知れないなにかなのだろうけれど。
「メリチェル、俺は明日から旅に出るぞ」
「ええっ?」
「くじらちゃん探しの旅だ」
「くじらちゃん探しの……」
「ここのところ、地味な復旧作業と読書しかしてないからな。体もなまってることだし、ちょうどいい。ちょっと出かけてくる」
「ちょっとって……どこへ行くの?」
「さあ? どこか、くじらちゃんがいるところだ」
「わからないのに行くの?」
「わからないのに行くことくらい慣れてるぞ。探し物ってなぁ、そういうもんだ。聞き込みして当たりをつけて、術式で気配を探って、足でたどって足跡を見つけて」
「ロギってなんでもできるのね……」
「俺にとっては、それはほめ言葉じゃないからやめてくれ。器用貧乏は卒業したい」
まじめな顔をしてロギが言うと、メリチェルはくすっと笑った。
まなじりになにか光るものが見えたが、気付かないふりをしてやろう。
「ロギ、ありがとう……」
「おう! じゃあまたな」
面と向かって礼を言われると照れてしかたないので、ロギは壁面の補修に戻るふりをしてメリチェルに背中を向けた。
軽い足音が遠ざかったあとでふりかえる。
(う。しまった)
メリチェルとふりかえるタイミングが一致してしまった。
目が合う。
なぜか、メリチェルがぼっと赤くなった。そしてあわてたように顔をそむけると、さっきより早い速度でぱたぱたと走って行ってしまった。注意力が散漫になっているのか、ハゲ教師とぶつかったりしている。
(おい――)
あの赤面はなんだ?
なんであのタイミングで赤くなるんだ?
――とか考えたら、なぜかロギも顔が熱くなってきた。
(いや、ないから!)
顔面の熱をふり払うように顔をふる。
(ないから! ガキだし! 貴族だし!)
レオニードの言葉がよみがえる。――相手は貴族の令嬢だよ? 王立術士団に入って名をあげて、王様の目に止まって叙爵を受けないとむずかしい。うわあ、男のロマンだね!
(ああ、俺は考えてたさ。王立術士団に入って名を上げて、王都で尊敬される術士になって、王都の一等地に豪邸を建てていい家の美人の嫁さんをもらって、大勢の召使いにかしずかれて万々歳な人生を送ろうって。考えてたけどさ! 考えてたけど!)
考えていたけれど、「美人の嫁さん」が誰かまでは、当然考えてなかった――。
(考えない! 考えない!)
ロギはさらに頭をふった。
レオニードのにやにや顔を思い浮かべなかったら、冷静に戻れないところだった。
翌朝。
ベルタがなにやらバタバタしていると思ったら、出掛けのロギに弁当の包みを渡してくれた。
「朝晩は冷えるよ。マントだけじゃ安心できないよ。厚い肌着は持ったかい?」
「まあ、いちおう……」
「学院の人に、ちゃんとあいさつは済んでるね?」
「すぐ戻るんだし」
「あいさつしてないのかい!」
「いやいや、先生には言ってある」
「よろしい」
よろしいって。
あんたは母ちゃんかと半分あきれてベルタを見れば、メリチェルが横でくすくす笑っている。
「お弁当づくりはメリチェルちゃんも手伝ってくれたんだよ」
ベルタの言葉にびっくりして令嬢を見れば、「手伝いじゃなくて邪魔になっちゃったわ」ともじもじした。
堂々としたメリチェルもいいが、恥じらうメリチェルもかわいいと思ってしまった。
(妹だ。妹として見たらだ。妹だったら妹だ!)
ベルタはまるで母親のようで、メリチェルはまるで妹のよう。自分は培ってきた力を頼みに、妹の大切な友達を探しにいく。母親と妹に暖かく見送られて――。それはいまだかつて経験したことのない幸福な情景で、ロギは頭がくらくらした。
幸福を完璧な形にするために、必ずやくじらちゃんを取り戻そう。
探し出し、汚れていたら清め、傷ついていたらなおそう。
くじらちゃんだってきっと、元気な姿でメリチェルのもとへ帰りたがっているはずだ。
(俺はくじらちゃんを探す力もあるし、清める力もなおす力もある。なんだってできるぞ。すげえな、俺)
セロロスとベルタとメリチェルに玄関先で見送られ、澄んだ朝の空気の中、ロギはくじらちゃん探しに出立した。
デジャンタンを出る前に、まず試してみたいと思っていることがある。
ロギはカロア川へ足を向けた。
堤防にのぼる。朝日に輝く雄大なカロア川を眼下に見下ろす。
延長六二二セギリア、流域面積二六八四〇セギリエラス。セイリャとの国境であるデヴォリア山を水源とし、エランダスの北西から南東へ蛇行しながら流れ、東の海へ注ぐ大河。多くの支流を持つ、カロア水系の本流。飲料水、農業用水、工業用水、水路としても活用され、流域の農村や都市にとって、なくてはならない重要河川だ。
「そんな川の精霊が、なんで大衆芝居の二枚目風なんだ……」
きらきらした水面の反射を見ながら、ロギはぼそっとつぶやいた。
ひょっとして、メリチェルが毎朝窓からこのきらきらを見ていたせいか。
このきらきらは、大衆芝居の派手派手しい演出を連想させる。細かくした鏡を球体に張り付けたものに光を反射させる演出とか、スパンコールをちりばめた衣装とか。
あんな甘ったるい二枚目が好みとは、メリチェルは趣味が悪い。もやもやした不満を胸に、ロギは堤防をおりて川べりへ向かった。
雑草の深い川べりは無人のことが多いが、念入りに人気がないことを確かめた。
やってみても成功するとは思えない。しかし、駄目でもともと。
試して損がないことはなんでも試す。流れ術者の心得其の二である。
「カロア様〜」
ロギは川に向かって呼びかけた。
こっ恥ずかしいので、いまひとつ大声が出ない。
「メリチェルのくじらちゃんを探して〜」
「うむ。協力しよう」
「うわあっ!」
ロギは立っていた場所から跳びすさった。
びっくりしすぎて、下草に足を取られて豪快に転んだ。
心臓が止まるかと思った。
なぜなら、すぐ隣に、あの日水の龍に乗っていた古代衣裳の麗人が、艶めかしい微笑を浮かべて立っていたからである。
「カ、カロ、カロ、カロ――」
ロギは下草に尻をつけたまま、ふるえる手で麗人を指差した。
「カロア。指差すでない。無礼な」
「カロア様!?」
「左様」
「なんで!?」
「なんでとは?」
「なんで出てくるんだ!?」
「呼んだのはそなたではないか」
「呼べば出るのか!? 誰でも!?」
「用事による。誰でもというわけにはいかぬな。人間は、霊力を持つ者と持たぬ者がおるから。そなたの用事は、出てきてやろうと思わせるものであるし、そなたは霊力も豊富にあるようだし、出てきてやった」
霊力というのはつまり、術者の素質や素養のことだろうか。
現世の理を加工する力。
精霊を実体化させるには、霊力が要るということなのだろう。現に、ロギは自分の力が精霊を通して循環しているのを感じている。
それはともかくとして、「用事による」?
「……くじらちゃん探しが、出てきてやろうと思わせる用事?」
立ち上がりながら、ロギは疑問を口にした。
なんの公共性もない私的な願いなのに、なぜだと思った。
「私は、己のために私を呼ぶ声には応えない。そなたは、メリチェルのために私を呼んだのだろう? 己ではない他者のためであることは、霊力の色でわかる」
「……あ」
あの火事の日、メリチェルはマヨルとレオニードのためにカロア川の精霊を呼んだのだ。
決して、名誉や自分の利益のためではなく。
ロギはカロア川の精霊の、無駄に甘く整った顔を見つめた。
「誰かのため」。
それが、カロア川の精霊を呼び出せる条件――。
「さて。行こうではないか。くじらちゃん探しとやらに。人間界はひさしぶりだ。この姿も気に入った。女のように美しい男とは、今までにない姿だな」
「……気に入ったのか」
「大変気に入った。以前の姿を与えてくれた人間は死んでしまったからな。次はどんな姿をもらえるかと、水底で心待ちにしていた。うむ。なかなかよい」
精霊はうれしそうに、なめらかな長い銀髪を白魚の指でもてあそび、口元に持っていったりしている。
その様子は、とある人気役者のナルシストぶりによく似ていた。
「気に入ったんだ……」
ロギは脱力した。そうか、気に入ったんだ……。悪趣味精霊……。
しかし、悪趣味くらいいくらでも目をつぶろう。カロア川の精霊が協力してくれるなら、こちらはなんの苦もなく、くじらちゃんを見つけられる。
楽勝だ!
内心笑いが止まらないロギだったが、それは大きな思い違いだったと、すぐに知ることとなる。
カロア川の精霊は、ロギに自分の旅装を準備させたあと、こう言った。
そなたは飲み込んだものが、自分の体のどこにあるかわかるのか? 私は私の中に落ちたものが、どこへ流れて行ったかなど皆目わからぬ。
さあ、共にくじらちゃん探しの旅へ参ろうではないか。
旅の指南、よろしく頼む。