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第二章 カロア川の精霊

   第二章 カロア川の精霊


「――というわけで、下宿人としてお世話になりたくて参りました、メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタです。よろしくおねがいします。セロロスさん」

「よろしくって……そんな、貴族のお嬢様がうちなんぞに」

 帰宅した門番のセロロスは、自宅の居間にメリチェルがいることに心底驚いた様子で、女房に助けを求める視線を向けた。

 息子たちが成人して家を出たあと、空いた部屋を使って下宿屋を切り盛りしているのは女房のベルタである。

「あたしもなんでうちなんぞにって思ったんだけど。学院には立派な寄宿舎もあるのにねぇ……。なんでも赤マントの仮入学生は、寄宿舎に入る権利がないんですって」

「お家の力でなんとかならないんですかね? メリチェル様」

「なんとかならないこともないんですけど、そうするといろいろ軋轢が生まれるのですわ。ですからどうぞわたしをここに置いてくださいな、セロロスさん」

「こ、こんな汚いあばら屋に」

「どこが汚いんですの? とっても清潔で愛らしいおうちだわ。ぬくもりのある木のテーブルには川辺の花が瓶に生けられて! クッションカバーのパッチワークの、このやさしく可憐な色合わせときたら! しかも東の窓からはカロア川が望めるのですわ。朝日に輝いてきれいでしょうねえ、カロア川! ああはやく明日の朝にならないかしら。きっときらきらして素敵でしょうねえ」

「朝のカロア川の美しさといったら折り紙つきだよ、メリチェルちゃん」

「め、メリチェルちゃん?」

 セロロスは女房の馴れ馴れしさに、度肝を抜かれてうろたえた。

「楽しみたわ。わたし川が大好きなの、ベルタさん」

「ベルタさん?」

「なんなの、さっきからあんたは」

「ちょっと馴れ馴れしすぎやしないかい?」

「あっ、ごめんなさいセロロスさん!」

「いやお嬢様ではなくうちのが……」

「ベルタさんはきさくでとっても楽しい方だわ。セロロスさんの奥様は素敵な方ね。手先もお器用で……。ああ、このパッチワーク……なんて素敵なの」

 メリチェルは、自分の背に当てた手作りクッションを愛おしげになでた。

 ソシュレスタ家は伯爵家という立場上、金箔で縁を飾った豪奢な家具や繻子織のクッションなど、高価な調度で屋敷を飾らなくてはならない。よその貴族を招くのも領主の仕事のうちだから、見栄えのよい調度を整えるのは義務のようなものなのだ。

 しかしメリチェル本来の好みは母に似て、素朴な木の家具や木綿のカーテンやパッチワークのクッションだったりする。そんな調度に囲まれて暮らしてみたいと夢見ていた。その夢が叶ったのだ。心からうれしい。

「女の子っていいねえうれしいねえ! 不粋な男の下宿人なんかより、メリチェルちゃんに来てもらいたいねえ。今もうひとり不粋な男の下宿人がいるんだけど、それでもよかったら是非うちに……」とベルタが言ったところで、居間の扉が開いた。

 「不粋な男の下宿人」が帰ってきたのだ。

 彼は目を見開き濃い茶の瞳をむきだしにして、心底驚いた顔でメリチェルを見た。

 そして「なんで君が――」と言った拍子に、口からなにかがぽろりとこぼれた。

 よく磨かれた木の床を転がっていくのは、黄金色の飴玉。

「その飴気に入っていただけた? ロギさん」

 にっこり笑って、メリチェルは言った。



「きゃああああああ!」

 あまりの衝撃に、メリチェルは思わず悲鳴をあげた。下宿屋であてがわれたばかりの二階東の部屋である。

「どうなさいましたメリチェル様!」

 ドンドンと扉が叩かれる。セロロスが大急ぎで階段を駆けあがってきたのだ。

 メリチェルは青ざめた顔で立ち上がり、扉を開けた。

「ああ、セロロスさん……」

「なにがあったのです? ま、まさかロギがあなたになにか狼藉を……」

「するか!」

 セロロスのうしろにはロギの顔も見えた。彼もなにごとかと思い、駆けつけたのだろう。

「くじらちゃんが……くじらちゃんがいないのです」

「は?」

「くじらちゃんが荷物の中にいないのです。一緒に連れてきたはずなのに……。ああ、なぜ? どこにいるのくじらちゃん!」

「くじらちゃんとはなんです?」

「くじらちゃんはくじらちゃんです! ちいさくて、つぶらな瞳で、お口がにっこりしていて、とてもやわらかくていいにおいなの」

「……? どんな生き物かわかるか、ロギ?」

「鯨じゃないってことしかわからん」

「ぬいぐるみじゃないかい?」

 遅れてやってきたベルタが言った。

「わたし以外の人は、ぬいぐるみと呼びます……」

「なんだ、人騒がせな」

 ロギはあきれた様子で背中を向けた。さっさと自室に戻っていく。

「あ〜……どこかで落としたとか?」

 セロロスも気が抜けたように言う。口には出さないが、やれやれそんなことかと思っている様子だ。

 ただひとりベルタだけは、泣きそうになったメリチェルの肩にそっと手を置き、「よしよし。一緒に探してあげるよ。もしかしたらおうちに忘れてきたのかもしれないよ? 手紙を書いて、たしかめてごらん」となぐさめている。

「家で荷物の確認をしたときに出して、そのまま入れ忘れちゃったのかしら……。それならいいんですけど……。そ、そうね、落とすはずもないし……」

「大切なんだね」

「ええ。くじらちゃんとは五歳のころからずっと一緒なの」

「うんうん。男どもには女の子のこういう気持ちはわかんないんだよね。手紙を書いたら、あたしが明日出してきてあげるよ。……あら?」

 家の玄関扉を叩く音がする。

 ややあって、対応に出たセロロスの声が聞こえた。

「マヨル。どうしたんだい、こんな時間に?」

「お嬢様がこちらに……メリチェル様!」

 階段から下をのぞきこんだメリチェルに、マヨルが心配で覆われた顔を向けた。



「なぜ勝手に下宿暮らしなど決めるのです!」

 マヨルは落ちつかない足取りで、メリチェルの部屋を歩き回っていた。

「マヨルとレオニード先生が気づかってくれたのはありがたいけど、赤マントの分際であの立派な寄宿舎に入ったら、ゴタゴタが多そうだからよ。ここは学院が紹介してくれたちゃんとした下宿だからだいじょうぶ。学院にも近いし、セロロスさんのお宅だし」

「私はばあやさんから、お嬢様のお世話をするようおおせつかっています」

「わたしはお父様から、若い頃にしかできない冒険をしてくるように言われているわ」

「あの伯爵……っ!」

 マヨルはぎりぎりと奥場を噛みしめた。ひたすら過保護な召使い一同とちがい、伯爵夫妻はメリチェルに対し、傍からみたら危なっかしいほどに放任主義なのである。

 信念あっての放任主義なのだが、召使いたちは、そこのところをなかなか理解しない。

「私も寄宿舎を出て、こちらに移ります」

 マヨルはすぐにでも学院に戻って荷物をとってきそうな勢いだ。その袖口を、メリチェルはぐいとつかんで引き止めた。

「上位生徒は寄宿舎で暮らす規則があるんじゃないの?」

「なんとか説得してきますよ!」

「そうまでして『お嬢様』のために尽くしてくれなくて結構よ。そのかわり、学院内では『友達』として普通に接してね。世話はいりません。友達づきあいしてちょうだい」

「そんな、お嬢様……」

「お嬢様禁止。わたしのことは名前で呼んで。お嬢様として陰でこそこそ世話を焼こうとしないでちょうだい。友達として、人前で堂々とつきあってちょうだい。わかった?」

「だめですお嬢……メリチェル様。私は異邦人で人付き合いも下手ですから、学院内ではあまり評判がよくなく……。メリチェル様まで悪意にさらされるようなことがあっては」

「だめと言われても知らないわ。マヨルが謂われのない悪意にさらされているのなら、わたしがあなたを守るって決めたから」

「守るって……」

「もう寄宿舎にお帰んなさい。門限あるでしょ?」

「門限など……。ちょ、ちょっとお嬢様!」

 メリチェルは部屋の戸口から、マヨルをぐいぐいと押し出した。そしてバタンと戸を閉めて、中から閂をかけた。

「お嬢様ーっ!」

 外からドンドン戸を叩くマヨルに「メリチェルよ!」と言い返し、その後は無視を決め込む。しばらくしてマヨルはあきらめたのか、とぼとぼ階段を降りる足音が聞こえた。

 しかしすぐにばたばたと勢いよく階段を駆けあがる音がして、部屋の閂がバキッとはじけ飛んだ。マヨルが今度はドンドン戸を叩くなどという普通の方法ではなく、術式で閂を破壊するという暴挙に出たのである。

「お嬢様! 若い男がいます! あんな得体の知れない男がいるところになど、お嬢様を置いておくわけにはいきません!」

「メリチェルよ。その人の名前はロギ。マヨルが学院内でわたしを避けるようなことをしたら、わたしロギに術式の勉強を見てもらうわ!」

 勝手に決めるなとロギの声が聞こえた気がしたが、メリチェルは冷静な顔で、マヨルに「閂を直してちょうだい」と告げた。



 学院生の序列は、白制服を頂点として次に濃紺、深緑、茶色と続くピラミッド型らしい。

 下にいけばいくほど人数は増え、茶色が最も多く生徒の六割は茶制服なのだそうだ。メリチェルの属する赤マントは、生徒には勘定されない。部外者扱いである。

 赤マントと白制服では学院内身分が違いすぎるので、ああは言ったもののメリチェルはマヨルと一緒にいられる時間はあまりなかった。マヨルはびっちりと詰まった時間割をこなしたあと、夜遅くまでレオニード先生の個人授業を受けているのである。

 生徒が王立術士団にストレートで入れば学院の評判が高まるので、白制服には学院側の期待が大きいらしい。

 王立術士団入団希望者には術式学校あがりの学徒組と、巷で術者として仕事をしてきた叩き上げ組がいる。ロギは後者だ。

「あの胸クソ悪い女は、王立術士団に入る気はないんじゃなかったのか?」

「胸クソ悪い女じゃありません。マヨルって名前があるのよ、ロギ」

「あいつは清廉潔白なこの俺を、凶悪犯罪者かなにかみたいににらみつけるんだぞ。同じ下宿にいるだけじゃないか! 俺がなにをしたっていうんだ」

 マヨルと一緒にいられないぶん、メリチェルは学院でロギの姿を見かけると話しかけに行った。もちろん、うっとうしがられている。でも気にしない。今日も中庭で図書室に向かうロギを見かけたので、こうして追いかけているのである。

「ちょっと過敏なのよ……。ゆるしてあげて。王立術士団に合格すると、学院の名を高めた褒賞として、収めた授業料が返済されるんですって。人脈も広がるし、ためしに入ってみるのもいいんじゃないかしら」

 メリチェルがそう言ったところで、背後でバシッ!と何かを石畳に叩きつける音がした。

 ぎょっとしてふりかえる。

「ためしに、ですって……?」

(あ……。あのときの)

 マヨルの肩を押して本を蹴飛ばした女生徒だった。

 小柄で、乾いた薄茶の髪の、地味な風貌の少女だ。年の頃はマヨルと同じ十七、八だろう。見た目はぱっとしなくとも、制服の色は紺色。学院で十数人しかいない上位クラスだ。

 叩きつけたのは教科書だった。石畳に数冊、ばらばらに散っている。

 メリチェルは足元に跳ねとんできた一冊を拾おうとした。

「さわらないでよ!」

 地味顔の紺色生の目は、怒りに燃えてらんらんと光っていた。

「ずっと王立術士団を目標にして、候補生を目指して、何年もがんばってきた生徒が大勢いるのよ? 『ためしに入ってみる』ですって? ふざけないで! マヨルなんかが王立術士団? 笑わせるわね! よその国の人間のくせに。この国のことなんか、これっぽっちも考えてないくせに」

「……」

「お金のためのくせに!」

「それはちがうわ。マヨルの名誉のために言わせてもらうけど」

「なにがちがうって言うの? 外国人がお金のため以外に、エランダスの王立術士団に入る理由がないじゃない! あなただって言ったじゃない『収めた授業料が返済される』って。それって、お金のためじゃないの」

「……あなたは、なんのために王立術士団を目指すの?」

「エランダスを守るためよ。決まってるでしょう」

「エランダスを、なにから守るため?」

「なにって……どこの国だって、敵になり得るわよ。セイリャとか……」

「そうね。北のセイリャは寒冷地なうえに土地が痩せているから、エランダスの耕作地が手に入ればいいと思うかもしれないわね」

「そ、そうよ。危険なのよ」

「でも農地は少ないけれど鉱山が豊富で、我が国とは鉄鉱石と農作物の交易で均衡が保たれているわ。王室も婚姻関係で密接につながってるから、近い将来に敵対関係になるとは考えづらいわね」

「……セイリャだけじゃないわ。異教徒の国だってあるし」

「南の小国家群と西のアンターブが宗教問題で緊張関係にあるから、エランダスがカエザ旧教か新教かどちらかを支持する方向に傾けば、局所的に戦いが勃発するかもしれないわね。でも、エランダスは多神教だから、もう根本から宗教概念が違うのよね。今のところ宗教問題で王都が直接攻撃されるような全面戦争になる可能性は乏しいと言えるわ。宗教対立は近しい宗派ほど激しくなるものだもの。敵対関係になるとしたら領地問題だけれど、もうしわけないけれど南方諸国とアンターブは我が国と国力に差がありすぎる。先方から攻め入るようなことはないんじゃないかしら。問題は……東ね」

「東は海だぜ」

 ロギが口を挟む。

「海の向こうよ」

「ランダルか。大国だな。俺も、来るとしたらランダルだと思うぜ。東大陸じゃザティナが国土を広げてる。ザティナに対抗するために、ランダルが海を越えてエランダスを獲りに来ることはじゅうぶん考えられる」

「ザティナがランダルを素通りして、海を越えてこないとも限らないわよね」

「……」

「ねえあなた、マヨルはそのザティナに侵略された国から逃げて来たの。戦争経験者よ。マヨルの故国はもうないの。よその国の人間って言葉はあてはまらないわ」

 女生徒はメリチェルとロギの会話に入り込めず呆然としていたものの、すぐにキッ!と険しい表情に戻った。

「だから何? エランダス人じゃないってことは確かよ! 下賤な異人種……」

「人種差別は感心しないな」

 さっきまでこの場にいなかった人物の声がした。

 通りかかったレオニード主幹教諭だった。注意を受けた女生徒は顔を真っ赤にし、せわしなく本を拾って、せかせかと逃げ去った。主幹教諭は追いかけてまで説教する気はないのか、ため息とともに前髪をかきあげた。

「彼女は今、少し不安定なんだ。許してやってほしい」

 去りゆく女生徒の背を見つめ、レオニードは言った。

「はい」

「あとで僕から話をしておくよ」

 レオニードはメリチェルたちにそう言い残し、次の講義へ向かった。

「……彼女に言い過ぎちゃったわ」

 レオニードを見送りながら、しょんぼりとメリチェルは言った。

「そうかあ? 国際情勢の基礎の基礎も知らないで『国を守る』とかほざくやつにはもっと言ってやっていいと思うぜ? たまにいるよな、術式ばっかり勉強してほかのことなーんにも知らないやつ。まあそういうのは、王立術士団に入っても続かないけどな」

「入ってもない人がなにを言っているの」

「あんた、俺に言い過ぎ……」

「あらあの人、本を一冊拾い忘れてる」

 メリチェルは持ち主に石畳へ叩きつけられた教科書を、そっと拾いあげた。

「名前が書いてあるわ。……アンゼラってお名前なのね、あの人。寄宿舎に持っていけばいいかしら」

「届ける気か? ほっとけよ。自分で投げ捨てたんだ」

「投げ捨てる気持ちもわかるじゃないの」

「マヨルに負けたくやしいきいきいきい!って心の声は聞こえたな。わかりやすい女だ」

「お名前と心の声がわかっちゃったら、もうほっとけないじゃないの」

「そうかあ?」

「そうよ」

「あんた変わってんなあ……。貴族の令嬢ってもっとツンケンしてるもんじゃねえの?」

「『貴族の令嬢』って分類でわたしを見ないでちょうだい。わたしは『メリチェル』よ」


 

 へんな小娘。

 メリチェルが寄宿舎に本を届けると言って去ったあとも、ロギはぼんやりと彼女のことを考えていた。

 ちょっと脳のゆるい世間知らずだと思っていたが、十四にしては世界を見ている。辺鄙な田舎とはいえ領地を持つ貴族の娘だ。それなりの教育は受けてきているのだろう。

(しっかし、安穏とした生活を保障されてるってのに、なんで術式学校なんかに?)

 数日間のつきあいしかないが、メリチェルがふわふわした見た目とは裏腹に、かなり気が強いことはわかってきた。

(あいつんちの領地はソルテヴィルか……。行ったことあったかな)

 流れ術者の一家に育ったもので、ロギは生まれてこのかたずっと旅をして生きてきた。

 流れ術者とは必要とされるときに必要とされる土地へ行って仕事を請け負う術式使いのことで、水も火も土も風も、あらゆる属性の術式を扱えることが必要だ。

 ロギも器用さにかけては自信があるのだが、器用貧乏でこれぞという売りがない。王立術士団で栄誉を得たいなら、はっきりした特技がないと厳しいのである。だから、古代の呪術に活路を開こうと思ったのだが……。

 古文書によると、古代の呪術というものは、精霊との結びつきが必要なのだそうだ。

 精霊。

 そんないるんだかいないんだかわからないものとなかよくならないと、強い呪術は得られないのだと、どの本にも書いてある。

 精霊とやらは、強い力のあるものの場合、ほとんどが土地付きの精霊だそうだ。山や川や森など、その土地固有の地形から生まれ出る力を術式でも「地霊」と呼ぶが、精霊とはその地霊が人格化したものらしい。

 カロア川の精霊は朝日に輝く水面(みなも)のようにまばゆく美しい姿をしていて、髪は月色、瞳は空色、まとう衣裳は流れるように落ちかかるしっとりした練絹……とかなんとか、ロギは古文書を読んでいて頭が痛くなった。どう見ても正確な記述ではなく、人間の妄想であり、願望である。「そんなキレイな精霊がほんとにいたらいいなー」という昔の人の声が、黴くさいページの裏側から聞こえてくるようだ。

 妄想である証拠に、カロア川の精霊の姿は、各時代で違うのだ。

 美しい人の姿という共通点はあるのだが、戦乱の時代は軍神のごとく雄々しい青年であり、戦後の混乱期は聖母のごとき慈愛に満ちた女人であり、復興期は成長の象徴のような溌剌とした少年であり……と、時代ごとに都合よく変わっている。古文書には、呪術をものにしたかったらこの一貫性のない妄想の産物となかよくしろと書いてある。

 そんなの、普通に考えて無理だろう。

(デジャンタンくんだりまで来たのに、はやくも手に詰まったな……。古文書程度じゃどうにもならないか。やっぱりあの胸クソ悪い女に頼ってみるしかないんかな)

 マヨルは呪術のようなものを操り、それをメリチェルに教えたと伯爵令嬢本人が言っていた。メリチェルが操るのも術式ではなく呪術だと、レオニードが言ったようだし……。

 藁にもすがってみるかと眉をしかめて考え込みながら、ロギは学院の敷地を出てカロア川の川辺に散歩に来てみた。

 この国で、王都に次いで二番目に大きな都会であるデジャンタンを悠々と横切る大河、カロア川。

 デジャンタンの水源であり水路である、偉大なるカロア川。

 精霊いるなら出てこーいとヤケクソ気味に思いながら、雑草を蹴って歩いていると、前方の川べりに学院の制服を着た人物が見えた。

(あれは……)

 いくら人の顔をおぼえるのが苦手なロギとはいえ、ほんの数十分前に見た人物くらいは記憶に残っている。濃紺の制服、つやのない薄茶の髪。名前はさすがに忘れた。

(ア……たしかアがついたな。なにやってんだあの女)

 椎の木があったので、ロギは幹の陰に身を隠した。

 薄茶の髪の女生徒は、手になにやら球状のものを持っていた。リンゴとキャベツの中間程度の大きさのそれは白っぽく、質感はやわらかそうである。彼女は顔の前に球体を持っていきしばらく見つめたあと、それを川へ投げようとした。

 しかし、球体は彼女の手を離れなかった。

 川へ捨てようとしたが、思いきれなかったようである。

(なんだありゃ?)

 球体がなんであるか、ロギには見当がつかなかった。

 女生徒は布袋の中にそれをしまった。捨てるのはやめることにしたのだろう。

 とくに興味をひくことではなかったので、ロギは気付かれないうちにその場を離れようと背を向けた。

 もう一度女生徒のほうをふりかえったのは、「ねえ、なにやってんの。こんなとこで」と、別の女生徒の声が聞こえたからである。

 ロギはふたたび椎の幹に身をひそめた。

 気の強そうな女生徒数人が、薄茶の髪の女生徒のほうへ向かってきていた。紺制服と緑制服の混合集団。学院では上位クラスに属する集団と言えそうだ。

 薄茶の髪の女生徒は、彼女たちに囲まれてしまった。

 嫌な予感がした。

 女子集団からは、ロギの大嫌いな女の陰険さが漂っている。ロギは集団で行動する女が苦手だった。どうして女って、集団になるとこういう空気を醸し出すんだろう……。

「こんなところでサボってたら、白制服に返り咲けないよ?」

「いいの? あんな異人種に負けたままでさあ」

「あんな鼻高々だったくせに、ぽっと出の外国人に負けちゃって」

「やーよね、異人種が白制服だなんて。デジャンタン術式学院の格が落ちちゃう。あたし、王都の術式学院に行けばよかったな」

「異人種に白制服は似合わないよね」

「この子だって似合わないけど」

「言えてる。あははははは!」

 明らかに悪意のある言葉を浴びせ掛けられ、薄茶の髪の女生徒は縮こまってうつむいていた。髪が垂れ下がって表情は見えないが、おびえているにちがいない。

(……ったく。ガキどもが)

 助けてやる義理はないし、かったるいとは思ったが、こういうのは生理的に耐えられない。ロギはのっそりと木の幹から離れた。

「おい!」

 ロギの太い声に、女生徒の集団ははっとしたようにこちらを見た。

 薄茶の髪の女生徒も、涙でうるんだ瞳をこちらへ向けた。「助かった」と思ったのは一瞬だったようで、ロギの姿を見て絶望した顔をしている。

 ――ついさっき、喧嘩ふっかけた相手だもんな。

(まさか、俺が女どもに加勢するとか思ってないだろうな)

 そんな思いが頭をかすめ、ロギは少々憮然とした顔をしてしまった。

 それが悪かったのだろうか。

 窮地に追い込まれたと思ったのか、薄茶の髪の女生徒は、手にした布袋をリーダー格の女生徒の顔面に投げつけた。

「きゃっ!」

 リーダー格がひるんだ隙に、彼女は集団をすり抜けた。

 追いかけようとした女生徒もいたが、ロギがにらんで牽制する。

「ミラ、だいじょうぶ?」

「なによ、あいつ! あたしにこんなことして。許さない!」

 ミラと呼ばれた紺制服の女生徒は、腹立たしげにぶつけられた布袋を蹴っとばした。

 白い丸いものが入っているはずの袋が大きく弧を描き、カロア川の水面にぽちゃんと落ちる。重さのなさそうなその袋は、ぷかぷかと浮かんだまま、下流に向けて流れ去って行った。



 そのころ、メリチェルは女子寄宿舎の前でムッとしていた。

 さっき、寄宿舎に入ろうとする茶制服の生徒をつかまえて、「アンゼラさんの落とし物なんだけど、届けてくれないかしら」と頼んでみた。そうしたら、「紺色の人とは口をききづらいから」と断られたのである。

「なんなのよ……。あ」

 こんどは緑制服の寄宿舎生が、二人連れ立って通りかかった。

「あのう、もしもし。あの」

 二人はまるでメリチェルの声が聞こえないかのように、素通りしていく。

「あのーっ!」

 大声を張り上げたらやっとこちらに一瞥をくれたが、返事はない。無視である。

 そしてこんな声がきこえた。

「赤マントに話しかけられちゃった」

「やだあ」

(やだあってなによ? 赤マントは話しかけることもいけないの?)

 一体なんなのだろう。この学院内身分制度の厳しさは……。

(こんなの校則にないわよね。生徒間で自然発生した制度なのかしら)

 赤マントのメリチェルは学院内身分制度の最下層であり、緑制服以上は口をきくのもごめんな様子なのである……。

(どん底! わたしってばどん底!)

 メリチェルはぐっと拳を握りしめた。

「こんなのはじめて。でもめげちゃだめ!」

「なにがめげちゃだめなの?」

 ひとりごとに返事があった。

 学院内貴族とでも言うべき紺制服でありながら、最下層の赤マントにやさしく話しかけてくれるその人は、先日お世話になった眼鏡の舎監生、コレットである。

「いえ、なんでもありません。これ、アンゼラさんの落とし物なんですけど」

「あらまあ。届けておくわ」

「では、よろしくお願いします」

「ええ。――それはそうとメリチェル、下宿はどう? 不自由してない?」

 コレットは心配そうに言った。

「カロア川が見えるとても素敵な下宿で、ご主人もおかみさんもいい方で、大満足です!」

「ならよかったわ。あなたを寄宿舎から追い出すことになっちゃって、申し訳なかったわ。だめね、私。舎監なのに。力及ばずってところね……」

「そんなそんな! コレットさんはよくしてくださいました! 今だって、紺制服なのにこうして赤マントに話しかけてくれて……」

「赤マントが紺制服と話しちゃいけないって規則はないのよ。ちょっとおかしいわよね、この学院」

 コレットは苦笑した。

「おかしいと言えばおかしいですけど、なんだか新鮮だわ」

「メリチェルは貴族だものねえ。学院の外だったら、平民の私が伯爵令嬢のあなたに、こんなえらそうな口きけないわね」

「コレット先輩はえらそうなんかじゃないです」

「そうかしら」

 コレットは肩をすくめて、困ったような顔をした。

「本当は私、あなたに寄宿舎に入ってほしかったの。私なんて真面目しか取り柄がないから、こうして舎監を任されてるけど、人の上に立つってどうしたらいいかわからないの。あなたを見てさすがだと思ったわ。あのミラににらまれても、堂々としていて……。うらやましいわ」

「社交界はここよりもっと怖いですから」

「――それをきくと平民でよかったと思うわ」

「でも、マヨルはわたしよりももっともっと怖い思いをしてきました」

 メリチェルはコレットをまっすぐ見つめた。

 寄宿舎でマヨルを守ってくれるのは、この人しかいないと思った。

「コレット先輩、マヨルをよろしくお願いします」

 メリチェルの真摯な瞳を受け止めて、コレットは力強くうなずいた。



 下宿の居間である。

 メリチェルがベルタに誘われてお茶をいただいていると、ロギが帰ってきた。きょうも図書室から借りた本をどっさり抱えている。

「ロギ、あんたもお茶にするかい? メリチェルちゃんが焼き菓子を買ってきてくれたんだよ」

「ん。ああ」

 荒っぽそうな見てくれに似合わず、ロギは甘いものが好きなようだ。

 この間、飴の袋をのぞきこんでいる姿を見た。なくなってしまったようだから、屋敷から送ってもらってあげてもいいかなとメリチェルは考えている。

 ロギはメリチェルの向かいの席に、どかっと腰を下ろした。

「んあー……」

 ロギはなにか考え込んでいる様子だった。

「なにかあったの?」

「あの、くやしいきいきいきい!の女……」

「アンゼラのこと?」

「そんな名前だったか。女王様みたいな女とそのとりまきに、目の仇にされてるな。マヨルともども。女のトップ争いこええ……」

「女王様? ミラかしら」

「顔立ちが派手で気の強そうな。舌なめずりが似合いそうな」

「すごい言いようね。きっとミラだわ」

「術式学院を出るのが術者のエリートコースだけどよ、学校の中で競争するのはごめんだと思ったな。嫉妬がこええ」

「出る杭になって打たれたくないのなら、どこにも出ていかなければいいのよ」

 メリチェルはそう言い放つと、クリームを添えた焼き菓子をあむんと口に入れた。

「おいし〜い」

「お茶のおかわりいるかい? メリチェルちゃん」

「ありがとう、ベルタさん」

 ロギがあっけにとられているのが、メリチェルにはわかった。

 男性の多くは、自分のことを砂糖菓子かなにかだと思うようだ。それはそれで構わないのだが、いつも砂糖菓子でいるわけにはいかないので、たまにはびっくりしてもらうことにしている。

「なあに、ロギ? わたしの顔になにかついてる?」

「い、いや……」

 ロギはあわてたように、焼き菓子を口に入れた。



 ロギはメリチェルがよくわからなくなってきた。

 ぬいぐるみがないと言っては悲鳴をあげ、三日とあけず菓子を買い、窓から輝くカロア川を見つめては甘ったるい小唄なんぞを口ずさむこの令嬢は、ときどきとんでもなく辛口になる。

 貴族だけあって、はやくから大人であることを強いられてきたのだ――。

 そんなふうに同情しそうになると、こんどは反対にとんでもなく甘ったるい面に出会うのだ。

「カロア川の精霊? ああ、わたしも考えたのよ!」

 学院の中庭だった。

 ロギが精霊の話をふると、メリチェルは鞄からいそいそと画帳を取り出した。

 画帳には、朝日に輝く水面のようにまばゆく美しい姿をしていてまとう衣裳は流れるように落ちかかるしっとりした練絹――とでも言いたくなるような青年が描かれていた。

 絵の技術そのものは上々と言える。しかし、これでもかとばかりに甘ったるく麗々しい顔立ちに、現実主義者のロギは歯の浮くような寒気と全身の鳥肌を感じた。

「この三文芝居の二枚目みたいなニヤケた優男はなんだ」

「ひどい! カロア川の精霊よ!」

「こんなもんカロア川に見せたら、怒りで氾濫するんじゃないか?」

「ひどい! 自信作なのに!」

 メリチェルはぷりぷり怒って、ロギの手から画帳をひったくった。

「は。やっぱりまだお子ちゃまだな。そうかそうか、そういう甘ったるい二枚目が好みか。はっはっは」

「もうロギにはぜったい見せないわ! いーっだ!」

 メリチェルは上下の歯の間から舌を出しロギに毒づくと、マヨルに向かって走り去って行った。過保護な従者は、なにを言ったのだとばかりにロギをにらみつける。

 ロギはマヨルに肩をすくめて見せた。

 あのふたりは幸福な関係だな。ロギはそう思った。

 メリチェルは幸福な関係に取り巻かれている令嬢なのだろう。信頼関係の網が故郷に張りめぐらされているから、学院で悪意にさらされても明るい顔でいられるのだろう。

 ロギはメリチェルから、マヨルの過去をきいていた。

 家族と故郷を奪われたという(むご)い過去のあるマヨルが、メリチェルの明るさに救われているのは、傍からみていてよくわかる。

「故郷か……」

 ずっと放浪の日々を過ごしてきたロギには、故郷がない。

 家族はかつていたことはあったが、今ではどこでなにをしているのやら……。

 ロギは物心ついたときから、父親とふたりで旅をしていた。

 母親のことは覚えていない。母親はまともな家の人間で、放浪癖のある父親についてくることを拒んだときいた。別れたのちも父は母を思い出しては、「あいつのいる土地が俺の故郷」などと言っていた。

 家族に縁がない代わりに、ロギには国中に仕事仲間がいた。流れ術士には同業者組合(ギルド)があって、仕事の情報はそこから得る。組合の支部はちょっとした街なら国中どこにでもある。デジャンタンにももちろんある。

(王立術士団に入って、王都を故郷にするさ)

 王立術士団に入って名を上げて、王都で尊敬される術士になって、王都の一等地に豪邸を建てていい家の美人の嫁さんをもらって、大勢の召使いにかしずかれて万々歳な人生を送る。そんな人生計画を立てている。

 よくわからないが、そんな人生を人はしあわせと言うじゃないか。

 皆にしあわせと言われる人生を送ってみたいじゃないか。

 だから。

「まあ、がんばるかー」



 ロギと話したくなったら図書室に行けばいい。彼は学院にいるほとんどすべての時間を図書室で古文書相手に過ごしている。

「まーた邪魔しに来た」

 メリチェルがそろりそろりとロギのいる大机に近づくと、呼んでもいないのに彼は本から顔をあげた。

「……だって口きいてくれる人があまりいないんだもの」

「あいかわらず嫌われ者のマヨルのとばっちりか?」

「マヨルは嫌われてなんかないわよ……一部にしか。人を寄せつけないだけよ。そうじゃなくて、赤マントなんかと話すのは恥みたいなムードがあるのよ。わたし、人間扱いされてないの」

「ちったあ水動かせるようになったのか?」

「う」

「動かせるようになってから一人前の口きくんだな」

「なによロギまで。わたしだって努力してるわよ。でもどうしても、勘がつかめないのよ。あわれに思ったら下宿で術式みてちょうだい」

「ことわる。あんたの部屋に入ったりしたら、あの女に殺される」

「あの女じゃありません。マヨルよ。それならわたしがロギの部屋に――」

「同じだ。ことわる」

「けち」

「俺だって命が惜しい。なんだあの女の殺気立った目は」

「あの女じゃなくてマヨ――」

 メリチェルは書架の一隅に目を留め、急に黙った。書架の前で本のページを繰っているのは、紺の制服に薄茶の髪の女生徒だった。

「アンゼラだわ」

 ロギにしか聞こえない程度の小声で、メリチェルは言った。

「友達か?」

「本当にあなたって人の名前を覚えないのね。『くやしいきいきいきい!』の人よ」

「ああ――。『くやしいきいきいきい!』のあいつなら、よくここにいる。勉強熱心だな」

「マヨルが来る前は、あの人が白制服だったんですもの。勉強家じゃなかったら白制服にはなれないわ」

「白制服を取り返そうと努力中か。大したもんだ」

「そうね。とても努力家ね」

「地面に教科書バシーン!だしな。見かけによらず熱い性格だ」

「それが、そうでもないらしいのよ。授業や寄宿舎ではとてもおとなしいんですって。わたしが最初入る予定だった部屋はアンゼラがつかってるんだけど、自分から進んで部屋を変わるってレオニード先生に申し出てくれたらしくて……」

「いい子ぶって点数稼ぎか」

「そんなふうには思いたくないわ」

「そんなふうにしか思えないだろ。逆上して教科書叩きつけるようなやつだぜ?」

「ああいう荒々しさを示す人には、ああせずにはいられない理由があるのよ」

 メリチェルは水色の瞳を不安そうにゆらして、アンゼラの猫背気味の背中を見た。

 アンゼラは一心不乱に結界術の本を読んでいた。

 ほかのことなどなにも目に入っていない、真剣なまなざしである。

 真面目に努力している様子と言えばその通りなのだが、その横顔にはなにかにとり憑かれたような不穏な色があると、メリチェルは直感的に思った。

「アンゼラ、だいじょうぶかしら。なんだか心配だわ」

「人のことより自分のこと」

 ロギが、滅多にない厳しい口調で言った。

 メリチェルはロギを見た。

 彼もまっすぐこちらを見ている。

「心配されてる側は、毎日ここで熱心に術式を研究してる。心配してるつもりのあんたは、ここで用もなく無駄口を叩いてる。本当にやる気があるのなら、俺じゃなくて教諭陣のひとりでもつかまえて、もっと実りのある話をするんだな」

 メリチェルは一瞬、息が止まった。

 ロギのまなざしがいつもと違い、真面目だ。

「――そのとおりだわ」

 自分が恥ずかしいと思った。

 けれど、恥ずかしいと思うのと同時に、うれしくもあった。

 最初のころは、適当にあしらわれてばかりだったのに。ロギが、メリチェルのために真剣に忠告してくれた。

 それがなんだかうれしい。

「邪魔してごめんなさい」

「がんばれよ」

 図書室を出ようとしてふりかえると、ロギがまだこちらを見ていた。言葉だけでなくロギの視線も「がんばれよ」と言ってくれている気がして、メリチェルは胸が熱くなった。



 ――とはいえ。

「はあぁ〜。水がぜんっぜん動かないのよ〜」

 メリチェルは夕食後のテーブルに突っ伏していた。

「再試験までまだ半月あるんでしょう? だいじょうぶだよ、メリチェルちゃん。毎日がんばってるんだからさ」

「わたしにはきっと才能がないんだわ、ベルタさん」

 テーブルクロスに頬をのせた目の前に、一輪の野の花を生けたガラス瓶がある。

「エグリスム・グランジェメル・ヴェナディウス・サザルゾン・ゲインデラマウス・デミスタリアス・ゼア・フィグジョン・デイタラスタアス・マダルラカアス・マクス・ランシェ・ゾラニウス・マギョウラ・スモルス――」

 小さな花びらが一枚浮いた瓶の水の表面は、滴をたらしたほどのゆらぎもない。

「はぁ〜……」

「ためしに自己流でやってみろ。それはカロア川の水だ」

 部屋の片隅の長椅子で、食後のコーヒーを飲んでいたロギが言った。

「カロア川の水……」

 メリチェルは顔をあげ、姿勢を正した。

「エランダス……デジャンタン。トロメラウディ・メギデスタ・マグデュスタ。ジャデウス・ナザルス・オルディオス」

 メリチェルは一旦そこで窓の外を見た。日が落ちてよく見えないが、そこにはカロア川の流れがある。

「メリチェル……カロアラ。ゲニウス・カロア――――きゃっ!」

 水がまるで命を宿したように、まとまって瓶から伸びあがり跳ねとんだ。魚のような形状になった水の塊はメリチェルのドレスの胸元を濡らすかと思いきや、くるりと一回転してすっぽりと瓶に戻る。水が飛び出た勢いで空中に跳ねあがった花だけが、はらりとメリチェルの蜂蜜色の髪に降りおちた。

 テーブルの上には、一滴もこぼれていない。

「えっ、なに、メリチェルちゃん……余裕で動かせるじゃない。ええーこんなの初めて見たよ! まるで水が生きてるみたいだね。魚みたいだったよ!」

「……自分でもちょっとびっくりしたわ」

「これで合格だね!」

「ちがうのよ……これじゃだめなの、ベルタさん。これは間違ったやり方なの」

「べつに間違っちゃいねえだろ……。おどろいたぞ、おい」

 ロギは身を乗り出すようにして見ていた。

「でもレオニード先生が、固有名詞を術式に入れこむことを禁止するっておっしゃったのよ。だからこの文言じゃだめなの。それに、試験に出る水は地下水で、カロア川の水じゃないの。いくらカロア川の精霊さんとなかよくなっても無駄なのよ」

「カロア川の精霊となかよく〜?」

「ええ。姿絵を書いてみたり、心の中でお話してみたりするの。そんなことを繰り返していると、だんだん精霊さんが『いる』ような気がしてくるのね。川が生きてるような気がしてくるの。川が生きていて、人とおなじように喜んだり、悲しんだり、眠くなったり、お腹がすいたり……。どんなことが好きなのか、どんなことに怒るのか、口癖はなんなのか、だんだんわかってくるの。はじまりはわたしの想像なんだけど、だんだん想像じゃなくなってくるの。わたしの描いた絵姿が、生きて、動いて、しゃべるの」

「……おい、だいじょうぶか?」

「わたし、おかしくなんかないわよ。だってそういうものなんだもの」

「おまえ、本格的に変だったんだな」

「変じゃないわよ……。もういいわよ。この話はわかってもらえない話だって知ってるもの。くじらちゃんは生きてるのよって言ったときと、みんなおなじ反応をするわ。くじらちゃんはぬいぐるみだけど、生きてるのよ。『ある』んじゃないのよ、『いる』のよ」

「精霊の話はわからないけど、くじらちゃんの話はわかるよ、メリチェルちゃん」

 ベルタは子供時代をなつかしむように、目を細めやさしい笑顔になっていた。

「あたしも子供のころ大切なお人形があったもの。まだあるもの。死ぬ時はお棺に入れてもらうつもりだよ。汚い人形だって主人も息子たちも言うけど、あたしにはかけがえのない子だよ。そんなにその人形が好きなら、同じような新しいのを買えだなんて男どもは言うけど……。たとえ見た目が寸分変わらない人形があったって、あの子はあの子しかいないんだよ。あの子は生きてるんだから。たったひとりの存在なんだから」

「そうなのよ! ベルタさん! 大切な、たったひとりの存在なの。ベルタさんのお人形はなんてお名前なの?」

「ライラだよ。それはそうと、くじらちゃんはおうちにあったのかい?」

「それが――」

 メリチェルが眉を曇らせたそのときだった。大きな音を立てて玄関扉が開き、遅番だったセロロスがひどく真剣な表情で駆け込んできた。

「どうしたの? あんた」

「火事だ」

「えっ」

「学院が火事だ。主幹教諭室から出火したらしい。ただの火事じゃない――術式だ。誰かが術式で教諭室に火を放って、結界で消火を阻んでる――!」


 

 学院は騒然としていた。

 いつもは静かなはずの遅い時間である。宵闇の中、外灯が石畳をさみしげに浮かびあがらせている頃合いなのに、今夜の中庭は昼のように明るい。

 燃え立つ炎が、校舎二階をめらめらと舐めつくしているのだ。

 とくに炎が激しい部屋は――メリチェルが編成試験を受けた、あの主幹教諭室。レオニード教諭が白制服のマヨルを、一対一で指導しているはずの……。

 メリチェルは舞い飛ぶ火の粉も気に止めず、中庭で二階を見上げていた。

 石畳を走り回る大勢の足音。

 炎に呆然とした顔を向ける人々。

 悲鳴。怒声。泣き声。

 悪い夢を見ているようだった。

「な……なぜ消えないの? あの火はなぜ消えないの?」

 優秀な術使いである教師が大勢いるはずなのに。なのになぜ、火事の炎が消し止められないのか。

「術式がはじかれて届かねえな……。術式避けの結界が張ってある。相当緻密な結界だ。かなり日数をかけて記術されたしろもんだな」

 ロギは彼にしては長い術式を唱えたあと、燃え盛る炎に舌打ちして言った。

 そしてそばにいる教師の肩をつかみ、「星座盤とデジャンタンの詳細な地図を持ってこい。産業用のやつだ」と命令口調で言った。

「星座と地形を照合して結界の網を探ることは、もうやっている」

「星座と地形だけじゃ足らんな。デジャンタンはでかい都市だ。人や人工物の密度と流れで地霊の反響が変わる。外路図と産業分布図が要る」

「人的霊力の地霊への影響は研究中で、まだ理論が確立されてな……」

「この状況で理論の完成を待てと? バカかおまえら! いいから外路図と産業分布図を持ってこい! 俺が見るから!」

 ロギは禿頭の教師に怒鳴るようにそう言ったついでに、メリチェルの腕をつかんだ。

「どこ行く気だ」

「マヨルを助けるのよ!」

「役立たずは引っ込んでろ! 邪魔なだけだ」

 じたばた暴れるメリチェルをベルタに押しつけ、ロギは中庭のやじうまたちを眺めまわした。

(ガキどもが。騒々しいったらありゃしねえ)

 拡声のために口元を両手で囲み、大声で「生徒ども!」と呼びかける。

「役に立たない術式をぶつぶつ唱えるのはやめろ! 雑音だ! 結界解除ができん! 黙って一列に並べ! おまえが先頭だ」

 ロギのすぐ横に、男子生徒の一群がいた。ロギは有無を言わせず男子生徒たちの腕をつかみ、縦に一列並ばせる。

「広げた腕一本ぶん間隔を開けて! セロロス!」

「よしきたバケツだ」

 いつのまにかセロロスが物置小屋からありったけのバケツを持ってきている。

「なにするんですか」

 先頭の男子生徒が尋ねた。

「火事のとき普通やることだ。おまえ知らんのか? バケツリレー」

「そんなことであの火は消えないんじゃ……」

「あの火を消そうなんて思ってたのか? おまえらごときじゃ無理だ! おまえたちがやるのは燃え広がらないようにすることだ。術式が効かないから人力でな!」

「人力……」

「火の回りそうな場所を水で濡らせ! あとは任せたぞセロロス。おいハゲ、地図持ってきたか?」

「三種類の縮尺別外路図と、産業分布図はここに」

「よし。占星術師こっちこい。今日地霊が弱い方向はどっちだ?」

「風の一宮二十度、地の一宮六度三宮十四度です」

「小惑星の合はないだろうな? 北の製鉄所は運営中か? 幹線路は川と平行、他領地との接点は……となるとこのあたりの地霊は十二角図でみた場合――」

 いつの間にかロギを中心に、教諭陣が集まってきていた。

 学問としての正確さは欠くかもしれないが、ロギには流れ術者として培った長年の勘がある。不正確な部分は教師陣が補い、仮説がいくつかはじきだされる。

 今ははじきだされた仮説を片っ端から目で確かめるしか、結界解除にたどりつく方法がない。

「俺の勘だと、結界一ヶ所目の記術は学院の重心から見て地の一宮六・三度。裏庭の銅像のあたりだ。ハゲ、あんた行って探してこい」

 仮説をいちいち理論立てて検証している暇はない。

 ロギはもう、とにかく行って見てこいと教師を急かした。

「二ヶ所目は水の一宮二十九・八度。火の二宮に食い込んでる可能性もある。三ヶ所目は風の…………ぐふっ」

「君!」

 ロギが石畳に倒れ込む。

 周囲にいた誰もが息をのんで彼の背後を見つめた。

 そこにはひとりの女生徒がいた。

「余計なことしないで……」

 泣きそうな顔で、薄茶の髪の彼女は言った。

 両手で重そうなレンガを抱えて――。

「アンゼラ・バイエ君! 君はなにを……。ま、まさかこの結界は君が?」

 学長が信じられないといった表情でアンゼラを見た。

 アンゼラは濡れた瞳の表面に炎の(あか)を映し、今にも崩れそうな風情で立ちつくしている。

「だって……だって先生が悪いのよ!」

「先生?」

「レオニード先生が悪いのよ! 私に期待してるって言ったくせに! 私の結界術は学院の誇りだって言ったくせに! 私よりマヨルなんかをえらぶから……マヨルなんかを……」

「なにを言ってるんだ、アンゼラ・バイエ君。マヨル君を候補生にえらんだのはレオニードじゃない。教員会議で決定したことで……」

「レオニード先生がマヨルを押したんでしょう? どうして? どうして? どうしてマヨルなの? 私はこんなに力があるのよ。レオニード先生の課題は全部達成してきたのよ。先生たち、誰も私の結界を解けないじゃないの。笑っちゃうわ……生徒の記術した結界が解けないのよ。そんな人たちがどうして私を引きずり降ろすの? おかしいわよ、絶対おかしいわよ。こんなおかしな学院燃えちゃえばいいんだわ……」

「アンゼラ・バイエ君。君は……自分がなにをしたかわかっているのか?」

「わかっているわ。私は、もうおしまい」

「そんなことではない! 君は、レオニードとマヨル君の命を――」

「レオニード先生なんか死んじゃえばいいんだわ。あの部屋で、レオニード先生が淹れてくれたお茶を飲みながら、レオニード先生に術式を教わるのは私だったはずよ……。レオニード先生と声を合わせて術式を唱えるのは私だったはずよ……。レオニード先生は、私に白が似合うって言ってくれたわ。明るい白が似合うって……。白い制服は私のものよ……私の……。マヨルなんかにわたさない……」

「ロギ――――!」

 アンゼラの尋常でない語りに呆然と聞き入っていた面々は、語りをさえぎって響き渡る少女の声に我に返った。

 メリチェルがベルタとともに、ロギに駆け寄ったところだった。

「ロギ! ロギ! ああ……ロギ!」

「だいじょうぶ。息してる。ロギは気を失ってるだけだよメリチェルちゃん」

「ロギ……ああ、血が」

「動かしちゃだめ! 医務室の先生! どこよ医務室の先生!」

 あっ僕です!と白衣の養護員が石畳に倒れ伏すロギに走り寄る。

 メリチェルは顔をあげ、呆然としているアンゼラと瞳を合わせた。

「アンゼラ……」

「あなたに名前を呼ばれる筋合いはないわ」

「アンゼラ……レオニード先生が、白が似合うって言ったのね」

「あなたに関係ないわ」

「レオニード先生があなたにお茶を――」

「あなたに関係ないわ!」

「悲しいわ。わたし悲しい。ああ、マヨル。先生。アンゼラ――」

「あなたに関係ないわよ! 私の名前を呼ばないで!」

 炎は弱まる気配はなく、なおも燃え盛っていた。

 火を消すための術式を発動させるには、地霊の効果を拒んでいる結界を解かなければならない。しかし、解除の糸口をつかんだロギは気を失っている。

「君、結界の記術はどこの場所に――」

 学長がアンゼラの両肩をつかんで揺らす。

「言わないわ。レオニード先生もマヨルも死んじゃえばいい」

「死なせないわ! 先生もマヨルも!」

 メリチェルは叫んだ。

「あなたなんかなんにもできないくせに――」

「できるわよ!」

 メリチェルはキッ!と顔を上げ立ち上がった。夜の闇を見据えている。

 視線の方向は――学院の門。

 門を出ると広場があり、そこを抜けて堤防に上れば、月明かりに照らされたカロア川が一望できるはずだ。

「あっ、メリチェルちゃ……」

 ベルタの腕を振り切って、メリチェルは駆け出した。

 門に向かって。川に向かって。

 カロア川。

 延長六二二セギリア、流域面積二六八四〇セギリエラス。多くの農地や都市をうるおすエランダスの重要河川。セイリャとの国境であるデヴォリア山を水源とし、エランダスの北西から南東へ蛇行しながら流れ、東の海へ注ぐ大河。カロア水系の本流。

 けれどメリチェルにとってカロア川は、そんな数字と情報の集まりではない。

 朝目覚めたときに窓を開けると、これからはじまる一日を祝福してくれるようにきらきらと輝く、それはそれは美しいもの。日の光を反射し、そよ風を運び、鳥や魚を遊ばせ、人はその様子をうっとりと楽しみながら、笑顔で川べりを歩く。

 やさしく、美しく、そしてとても頼りになる――。

 農地を潤し、産業に力を貸し、水路となり人々の暮らしを助けてくれる。

 ときおりちょっといたずらで、人をからかったりもするけれど。

 美しさの底に、人知れないおそろしさを秘めているかもしれないけれど。

 それでもいつもはご機嫌で、川辺に住む人や動物を暖かく見守ってくれている。

 カロア川はそんな――そんな――精霊(ゲニウス)

 すべてのものは精霊を宿していると、その精霊を見つけるのは人だと、教えてくれたのはマヨル。人はものに名前を与えたときに、ものに精霊を見つけるのだと教えてくれたのはマヨル。名前はものを縛るものではない。名前はものを決めつけるものでもない。

 名前はものになにかを与え、名付けを受けたものは、世界のかけらを贈り返す。

 名付けによって生まれ出る、ものに宿る神秘。それが、精霊。

 人が世界と交流するための神秘。それが、名前。

「カロア様――!」

 暗くひと気のない堤防の上に立ち、メリチェルはありったけの声を振り絞って精霊(ゲニウス)カロアを呼んだ。いつも思い描いている姿を、心に強く強く念じながら。

「カロア様、マヨルをたすけて。カロア様、力を貸して。カロア様――」

 マヨル。マヨル。故郷を焼かれ、家族を奪われ、飢えた獣のような目をしていた女の子。出会って最初は冷たかった。無理に訊きだした名前を根気よく呼んだ。マヨル。マヨル。素敵な名前ね、どんな意味なの――? 無視された。半年くらい無視され続けた。それでも名前を呼んで話しかけた。マヨル――。

 ――私の名前の意味は「時の流れ」です。

 やっと普通に口をきいてくれた。名を呼ぶ声に答えてくれた。時は流れ、マヨルに笑顔が戻ってきた。幸福な日々に乗って、やさしく時が流れればいい。笑顔で時が流れればいい。いつかマヨルが故郷で暮らしていたときくらい、笑えるようになればいい。

「カロア様、マヨルをたすけて。カロア様、カロア様!」

 メリチェルの呼びかけに答えるように。

 さらさらと流れていた川の水面が、盛り上がるように大きくうねった。



「……っつ」

「気がついたのかい? ロギ。ああ、まだ動いちゃだめだよ!」

 ロギはじんじんと痛む後頭部に手をやった。包帯でぐるぐる巻きにされている。

 石畳に敷いた毛布の上に寝かされているとわかった。のぞきこむベルタの顔の上に、夜空を照らす炎の色が見える。騒ぎはまだ収まっていないらしい。

「くっそ、誰が――。せっかく出した計算がどっかいっちまった」

「ロギ君気が付いたのか!」

 学長たちが近づいてくる足音が、石畳を通して体に響いた。

 ロギは体を起こそうとして、ベルタに押しとどめられる。

「頭打ったんだよ。動かしちゃだめ!」

 たしかに、下手に動かさないほうがいいだろう。仕方がない、寝たまま仕事だ――と思ったそのとき。

 炎に染まった不気味な夜空に、なにか細長いものが横切るのが見えた。

 そのあまりの現実感のなさに、頭打って幻覚が出たかと一瞬疑う。

 しかし、きつく目を閉じてまた見開いたら、それはさらにはっきりと見えた。

「……龍?」

「は?」

 ベルタがロギの視線を追って空を見上げる。

「えっ!? なんだいあれ!」

 ほかにも異変に気付くものが現れた。空を見上げる人数が増えるに従って、中庭のざわめきが大きくなる。

 不自然な(あか)に染まった空に、ぽっかりと満月が浮かぶ。月明かりを浴びて妖しく光るのは、色のない龍。

 月を透かす透明な体は、まるで水で出来ているかのようにゆらめいて――。

 水? たしかにあの龍は、水の塊に見える。

 メリチェルが下宿で瓶から跳ねさせた、あの透明な塊とおなじ質感を感じる。

 あの水の塊はつるりとした流線形に過ぎなかったが、今空を泳ぐのは鍵手や鱗まで精緻な龍の形をしている。

 しかもその頭部には、長布をまとった古代の装いの人物が、裾の長い衣裳と銀色の長い髪をなびかせて、立ったままの姿勢で乗っている。主人として龍を従えている。

 ゆるやかに旋回しながら、龍が近づく。中庭の上空――もう空とも呼べない近い位置まで。燃える校舎の、立ち並ぶ尖塔のすぐ上まで。

 水の龍が舞う。あの人物は、水の塊の上に立っているということなのだろうか。

 絵に描いたような麗人。

 どこかで見たことがあるとロギは思った。

 どこか残酷さを秘めた甘い顔立ちの若い男。芝居好きの女どもが好みそうな顔で、舞台に立ったらさぞ人気が出るだろう……。

「あ!」

 思い出した。あの顔は――。

 ロギの驚愕に応えるように、銀髪の麗人が下界を見下ろし薄く笑った。

 そして彼は前方を向いた。前方には窓から炎を吐く主幹教諭室がある。

 あとはもう龍はうねらず、一直線にその窓に飛び込んだ。

 龍が砕ける。大量の水になって。

 火の粉に代わって、水しぶきが庭に降り注ぐ。

 しぶきにロギが目を閉じた間に、火は消え失せた。

 アンゼラの行き場のない思いが燃え立たせた炎は、龍になって運ばれた水が、一瞬のうちに消し止めた。

 火も消え、龍も古代衣裳の麗人も消え。

 煤のにおいがただよう中庭は、しばらく不思議な静寂が支配していた。

 静寂をやぶったのは、外廊下に面した焦げ付いた扉だった。

 半ば炭になった主幹教諭室の扉が、崩れ落ちるようにガタンと外れる。中からレオニードに肩を貸したマヨルが、しっかりとした足取りで出てきた。白い制服は煤で汚れているものの、レオニード共々火傷や外傷は見えない。

 マヨルはふらつくレオニードを助けながら、ゆっくりと外階段を降りて来た。教師たちがふたりのもとへ駆け寄る。

 ロギはじっとしていなければならないことなどすっかり忘れて立ち上がっていた。マヨルがロギの姿に気付き、レオニードをほかの教師にまかせてつかつかと彼のところへ向かう。

「お嬢様は?」

「――え?」

「え、じゃない。メリチェル様はどこだ?」

「……わからん」

「メリチェルちゃんなら門の外に……」

 おずおずとベルタが言った。その答えを聞くか聞かないかのうちに走り出そうとするマヨルの腕を、反射的にロギはつかんだ。

「おまえなんで無事なんだよ」

「悪かったな無事で。レオニード先生の防御術式のおかげだ。離せ」

 ロギの腕を振り切ってマヨルは走り出す。

 ロギはあんぐりと口を開けるしかなかった。

「それなら普通、お嬢様じゃなくてレオニードじぇねえの……」

 ロギはレオニードのほうをふりかえった。

 守り抜いた生徒に見捨てられたレオニードは、力尽きて気を失ったらしかった。ちょうどロギのために毛布が敷いてあったので、そこへ運ばれている。

 ふと、不穏な気配を感じてロギはレオニードから目線を上げた。

 アンゼラが、まだこの場にいた。

 警備員に捕縛されたアンゼラが、抜け殻ような表情で目を閉じたレオニードを見ていた。



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