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第一章 デジャンタン術式学院

 車輪の音も軽やかに、箱馬車が丘の上を走り抜ける。

 十四歳のメリチェルは午後の光に目を細め、馬車の窓から外を見ていた。木々のむこうに街並みが見えてくる。

 目的地の街、デジャンタンだ。

 生まれてからずっと領地を出たことのなかった田舎貴族の自分が、デジャンタンのような大きな街でやっていけるかしら。

 あんな都会に、なかよくできる精霊はいるかしら。

(あ……川が見える)

 川にかかる石橋を渡る。窓の外では幅のある川が、日差しにきらきら輝いている。

 大きな川。デジャンタンを流れる川。屋敷の裏を流れるチョルチョル川も、末はこの大河に流れ込んでいる。そう思えば、見知らぬ街も故郷の村の親戚のように思えて、心細さはやわらいでいく。

(川は好きよ。つながっているから)

「よろしくね、カロア川」

 橋を渡り終えるところで、メリチェルはそう声に出してつぶやいた。メリチェルの声に応えるように、川面に魚が一匹とびはねる。

「あら。うふふ」

「楽しそうですね、お嬢様」

 となりに座るばあやのエナは、のんきなお嬢様とちがい、そわそわとおちつかない様子だ。さっきから手の中のハンカチーフを揉んだり広げたりしている。

「そうね、楽しみでもあるし緊張も……きゃっ!」

 突然、馬車がガタン!と大きく揺れ、止まった。

 御者が「どうどう」と馬をなだめる声がする。メリチェルとばあやが顔を見合わせると同時に、箱馬車の扉が開いて御者が顔を出した。

「申し訳ございません。車輪が穴にはまってしまったようです」

「あらやだ。目的地はすぐそこなのに……」

「だいじょうぶよエナ。わたしにまかせて」

「えっ、ちょっとお嬢様?」

 あわてるばあやをよそに、メリチェルはドレスの裾をひるがえし、馬車のステップから飛び降りた。木漏れ日が模様を描く地面を踏んで、馬車の周囲をぐるりとめぐると、後輪の片方がえぐれた穴にはまりこんでいるのが目に入った。

 動物が掘った穴のようである。たいして深くない穴だが、大型四輪馬車は車体が重く、一度はまりこんでしまうとなかなかやっかいだ。

「ああ、こんなときマヨルが一緒なら……」

「わたしでもできるわよ、エナ」

 メリチェルは後輪のかたわらにすっくと立ち、目を細めて枝越しの青空を見つめた。

「エランダス……デジャンタン。トロメラウディ・メギデスタ・マグデュスタ」

 小さな唇から洩れるのは、術式と呼ばれる呪文の一種。メリチェルの術式は正式に学んだものではなく、召使いのマヨルから倣い覚え、工夫を重ねた自己流である。

「シェクラマスタ・ジェデスタ・イナグルル」

 視線の先を穴にはまった車輪に移す。

「メリチェル……カロア。カロアラ・ソルテヴィラ・チョルチョル」

 風がそよそよと通り過ぎる。

 古びた車輪は、穴にはまったまま微動だにしない。

「……」

「動きませんでしょ。お嬢様」

「おかしいわ?」

「私は術式のことはくわしく存じませんが、マヨルが言うにはお嬢様の術式は、領地のお屋敷周辺でしか通用しないとのことですよ」

「どうして?」

「ジコチュー過ぎるとかなんとか……。例えて言うなら、赤の他人に自分の知り合いの話ばかりして退屈させるようなものだそうです。お嬢様の術式は」

「どういう意味かしら?」

「それを学びにデジャンタンの術式学院に行かれるのでしょう?」

「そうだったわ……。でも、土地が変わるだけでここまで術式が通じないとは思わなかったわ。びっくりよ!」

「衝撃だとは思いますが、どうか気を落とさずに……」

「おもしろいわ! 術式って奥が深いのねえ。しらなかったわ、実際に経験するまで」

 すごいわ、すごいわ、と言いながら波打つ蜂蜜色の髪を揺らし、木々を見上げて踊るような足取りで歩きまわる無邪気な令嬢を、ばあやは目を細めて見つめた。

 メリチェルはあたたかなまなざしで自分を見ているばあやと、にこっとほほえみを交わした。

「それはそうと……。車輪はひっぱり上げるしかないのかしらねえ」

 ばあやはちらりと御者を見た。

「や、やれるだけやってみますよ。うーん、ひとりじゃきついなあ〜」

 御者はばあやから受けた視線を、リレーのように通行人に向けた。

 ちょうどいいぐあいに、馬車の横を体格のいい若い男が通りかかったのである。男は埃っぽいマントをまとい、大きな荷物を肩から下げている。旅人のようだ。

「なにかお困りで」

 黒髪のその若者は、御者の馴れ馴れしい視線につかまって、おっくうそうに答えた。

「馬車の車輪が穴にはまってしまいましてー」

「グランジェメルデミスタリアデスタスカス」

「は?」

「戻した」

 御者とばあやが車輪を見ると、あったはずの穴はなく、車輪はなにごともなかったかのように平らな地面に乗っている。

「おおおおー!」

「あらー!」

「すばらしいわ!」

 御者とばあやが惚れぼれと車輪と地面を見ているので、メリチェルは歩み去る旅人を早足で追った。

「あなた術者なのね。省略形で術式がまるでわからなかったわ。熟練者なのね〜」

「それほどでも」

 足を止めずに、面倒そうに黒髪の若者は言った。顔ごとふりかえりはせず、冷ややかな横目でメリチェルを見る。しかし、そんなつれない態度にめげるメリチェルではない。

「デジャンタンに向かわれるの? わたしはこれからデジャンタンの……」

「旅のお方!」

 小走りのばあやが、メリチェルと青年に追いつく。

「たすかりました。ありがとうございます」

 ばあやはそう言うと、押しつけるように青年の手に布の小袋を押しつけた。

「金など……」

「飴です」

「飴……?」

「わたくしたちの土地でとれる蜂蜜を使った、おいしい飴です。さ、お嬢様もお礼を」

「そうだったわ! わたしったら」

「「「ありがとうございましたー!」」」

 令嬢、ばあや、御者の三人揃ったお礼の声に、無愛想な旅人は面食らったようにうなずいた。たくましい大きな手で飴の袋をつまんで、ぶらぶらさせている様子がちょっとかわいいなと、十四歳の令嬢はほほえましく思った。



 デジャンタン術式学院。

 術式の理論が確立されていなかった三百五十年前、術式がまだ「呪文」と呼ばれていた時代に創設された歴史ある学校だ。

 今でこそ「術式学院」とそっけない名前で呼ばれているが、創設当時は「呪術学校」だったわけで、建物の建築様式は暗黒魔法的な雰囲気。つまり、おどろおどろしい。

 メリチェルは身長の何倍もある高い鉄門の前で立ちすくみ、天を突き刺すように立ち並ぶ尖塔を見上げた。尖ったアーチ窓の窓ガラスが、夕焼け空を映し込んで橙色に染まっている。カラスが不吉な声で鳴きながら上を横切る様が、よく似合う建物だ。

「……私も寄宿舎へ入ってお嬢様のお世話ができるとよかったですのに」

 メリチェルの気後れを察してか、ばあやがつぶやく。

 デジャンタン術式学院の寄宿舎は、従者の逗留をゆるしていない。貴族の子女のためのお飾り学校ではないからだ。身分に関係なく、本気で術式を学び国のために尽くす気概のある者のための国立学院なのである。

「だいじょうぶよ。マヨルが先に来ているんだし」

「マヨルはしっかり者ですし、私からもよーく言ってありますから心配ないとは思いますが。ええ、それこそお嬢様が夜中にぐずってめそめそしたらどうしたらいいかまで、よーく言ってありますが……」

「エナ、わたしもう小さな子供じゃないのよ」

「お荷物にぬいぐるみを忍ばせている方がなにをおっしゃいます」

「くじらちゃんはぬいぐるみじゃないわ。生きてるのよ」

「はいはい」

「大切なお友達なんだから」

「はいはい。やはり心配です」

 そんなやりとりをしていると、取り次ぎの門番が戻ってきた。門番はすらりと背の高い娘を連れている。娘は艶のあるまっすぐな黒髪を、肩の上で切りそろえている。

 マヨルだ。

 メリチェルは手を伸ばしてマヨルの手を取った。

「マヨル! 三ヶ月ぶりだわ。元気だった?」

「ご到着を今か今かと待ちわびておりましたよ」

 マヨルは切れあがった一重の目を細め、やわらかくほほえんだ。メリチェルより三つ年上のこの娘はめずらしい異国の顔立ちで、ふだんは表情がきつい。マヨルと顔見知りらしい門番は、彼女の笑顔におどろいたようだった。

「君、そんなふうに笑うんだな。このお嬢ちゃんは君の友達かい?」

「友達だなんて畏れ多い。この方はソルテヴィル領ソシュレスタ伯ご長女の……」

「メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタですわ。マヨルとは屋敷では主従の間柄でしたけど、ここでは学友として過ごすつもりです」

 メリチェルはマヨルの二の腕をそっとつかんだ。自分の身分は伯爵令嬢で、マヨルは父娘で屋敷に仕える召使いだった。でも、実力主義のこの学院内で、身分は関係ないときいた。それを思い出してもらうため、つかむ手に少し力を入れる。

「ここでは友達よね?」

 メリチェルの言葉に、マヨルはしぶしぶといった様子でうなずいた。

「マヨルは遠い異国の生まれだけれど、ソルテヴィルに来たときにはもう素晴らしい術使いだったのよ。わたし、マヨルに術式を教わったの、門番さん」

「マヨルは入学三ヶ月で、学院生で一番の実力者と認められたんだそうですね。その愛弟子とあっちゃ、あなた様もきっとこの学院で名を馳せる生徒におなりでしょう」

「そうなれるようにがんばるわ、門番さん。――門番さんじゃ、何人もいるでしょうからわからなくなっちゃうわね。お名前を教えてくださいな」

「変わったご令嬢ですなあ。門番に名前をきく生徒なんて、ほかにいませんでしたよ。私はセロロスと申します」

「セロロスさん」

 メリチェルは新しく出会った人の名前をきいたときいつもするように、明るい水色の瞳を大きく見開いて、じっとセロロスを見つめた。髭のあるおだやかな初老の顔を、深く心に刻みつけるように。



 門の外で名残り惜しげに手をふるばあやと御者に何度も手をふり返し、メリチェルはマヨルとともに学院の敷地内へ歩を進めた。

 歩道も壁もどこもかしこも石で覆われた、歴史的価値のある大建築である。田舎育ちのメリチェルは重々しい構内の様子がめずらしく、ついきょろきょろしてしまう。

 ときおり、茶色や深緑の制服を着た生徒とすれちがう。そのたびにメリチェルは笑顔で会釈した。

 笑顔を返してくれる生徒はいなかった。みな冷ややかな視線をメリチェルに向ける。

 そして通り過ぎたあとメリチェルとマヨルをふりかえり、不思議そうに見たり、連れとひそひそささやき合ったりする。

 それでもめげずにメリチェルは、誰か通るたびに笑顔で会釈した。

 人づきあいの基本は、まずあいさつから。

 両親にそう叩きこまれてきたからである。

「ねえマヨル。茶色と緑と紺色の制服の人は通りかかるけど、マヨルみたいな白い制服の人はほかに見ないわ。制服の色って、どんな意味があるの?」

「この学院は能力別編成なのです。制服の色は(クラス)をあらわします」

「なるほど! マヨルは入学三ヶ月にして最上位生なのよね?」

「学院生二百人程度の中でのことですよ」

「それでもすごいわ! わたし鼻が高いわ。そんな人に学院を案内してもらえるなんて」

「……そのことなのですがお嬢様。私とはふだん行動を別にしたほうがいいと思うのです」

「えっ……?」

「寄宿舎の部屋はとなりですし、いつでもなんでもご相談に乗ります。勉強のお手伝いもよろこんでします。でも……人前ではなるべく別々に」

「いやよ。どうして?」

 マヨルが理由を口にしようとしたとき「メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタ君」と呼び止める声がした。

 声のほうを見ると、重たげな黒いローブをまとった白髪の男性が、校舎の渡り廊下から笑みを浮かべてこちらを見ている。

 その一歩うしろに付き従うように立っているのは、品よく整った顔立ちの若い男性。若いほうの人物は、襟とカフスにモール飾りを施した長上着と襟に結んだクラヴァットという、いかにも都会風なしゃれた装いだ。

「学長と主幹教諭です」

 マヨルがささやいた。あわててふたりに礼をとるメリチェル。

 マヨルは、メリチェルが「自分で持つから」と言い張って持っていた荷物を渡すよううながした。そして「編入試験がんばってください」と言い残すと、学長と主幹教諭に一礼し、メリチェルをその場に残したままスタスタと寄宿舎のほうへ行ってしまった。

 荷物を託して手持無沙汰になってしまったメリチェルは、しばらくぽかんとしていた。

 しかし、マヨルに言われた一言を思い出して我にかえる。

「へ、編入試験っ?」

「さよう。君の属するクラスを決めるために、術式の実技試験を受けてもらう。ソルテヴィルの推薦者によると、君はかなりの使い手だそうだの」

 学長の言葉に、メリチェルは頬が引きつってしまった。

 ソルテヴィルではともかく、この地では小動物が掘った穴ひとつ埋められませんでした――と白状するのは、試験の前がいいだろうか後がいいだろうか……?



「……なるほど」

 若い主幹教諭はやわらかそうな亜麻色の前髪をかきあげた。その目は水槽の水面を見つめている。

 メリチェルは肩をすぼめて縮こまっていた。「術式をとなえて、水を動かしてごらん」と言われたが、水槽の水は微動だにしない。

「まるで動かないね」

 わざわざ言われなくとも、見ればわかる。

「……お恥ずかしいです」

「原因はわかる。君は『術式』というものをまるでわかっていない。君は『術者』ではなく、昔ながらの『呪術師』だってことだ」

「はあ……。よくわからないのですが」

「昔の術使いはみな『呪術師』だったんだよ。『呪術』というのは特定の人や特定の場所に結びついている。特定の人や土地を寿いだり呪ったり、影響を及ぼしたりする技術だから、『呪術』には固有名詞が盛り込まれる」

「固有名詞……」

「人や土地の名前のことさ。君のとなえた文言は、名前だらけだ」

「はい。そうですね」

「古代の『呪術』には名前が盛り込まれるのがふつうだ。けれど、『術式』はちがう。あらゆる物質、あらゆる場所を対象にしたものが術式だ。『呪術』は固有名を持つものにしか作用しないけれど、『術式』は名のない普遍的なものに作用する」

「普遍的なもの?」

「バケツとか、水槽とか、水とか、人間とか。『メリチェル』や『マヨル』のような名前のない、ふつうのもののことだよ」

 目の前の水槽を見つめながら、主幹教諭は言った。

「『術式』はまず、名前のないふつうのものを対象とした上で、条件で絞り込まれて個々のものに作用する。わかる? ……わかってないね?」

「もっと簡単に言ってもらえるとうれしいです……」

「そうだな……」

 主幹教諭は癖なのかまた前髪をかきあげ、しばらく言葉を切って考えていた。ものわかりの悪いメリチェルにイライラした様子も見せず、やわらかな態度で接してくれる。

 若いのにいい先生だなあとメリチェルは思った。見た目も品があってかっこいいし、まだ二十代だろうに教師の最上位という高い立場だし、きっと女生徒に人気があるだろう。

「うーん、君の名前はメリチェルだよね?」

「はい! 先生のお名前は?」

「レオニードだよ。つまり『呪術』の場合、『メリチェル』には作用するけれど、『僕の前にいる十四歳の女の子』に作用することはない」

「……レオニード先生の前にいる十四歳の女の子は『メリチェル』ですけど」

「もし僕が君の名前を知らなかったら? 『呪術』では僕は君になにもできない」

「あ……」

「古い呪術だと『メリチェル』と言えば済むけれど、いまどきの術式ならば『女の子』『十四歳』『術者の目の前』『時は現在』……などなど、こまかく文言を分解しなくてはならない。めんどうなようだけれど、君の名を知らなくてもこれなら君に作用することができる。名を知らないものにも名のないものにも作用するから、使い勝手がいいんだ」

「な、なるほど」

「君がさっきこの水槽の水に向かってとなえた『呪文』はね、日常語に翻訳すれば、『チョルチョル川とカロア川の親戚の水よ、メリチェルのために動いてください』と頼み込んだような内容だったよ。仮にこの水に人格のようなものがあるとしたら、『チョルチョル川って誰? 私はカロア川の親戚じゃないけど?』って思うだろう。地下水だからね」

「あ、地下水だったんですか……。てっきりすぐそこのカロア川から引いた水かと」

「推薦者の資料によると、君は故郷の川を操ることができるんだね。川全体を操れるなんてすごいことだけれど、どこでも川つながりで水をとらえようとするのはよくない。その方法では、おなじカロア水系の水しか操れないだろう。古代だったら、人は生まれた土地を遠く離れることは少なかったからそれでよかったかもしれない。しかし今の時代の人間は旅をする。多くの土地を知る。水は川でつながっていない……。固有名を用いる古代の呪術は、知り合いの知り合いは知り合いというような、狭い世界でしか通用しない」

「……狭い世界」

「君の『呪文』はソルテヴィルの地でしか通用しないんじゃないかな?」

「……マヨルにもそう言われました。わたしの術は、例えて言うなら、赤の他人に自分の知り合いの話ばかりして退屈させるようなものだそうです」

「いい例えかもしれないね。知り合いの川の話をして水の気を引こうとしないで、水全体がわかる文言を学びたまえ。君の最初の課題は『水』と会話することだ。『チョルチョル川』でも『カロア川』でもない、世界の『水』を操る術式を学びたまえ」

「世界の水ですかぁ……」

「術式に固有名を入れ込むことを禁止する。さて、君の(クラス)だが」

 レオニード主幹教諭は部屋の隅へ行き、クローゼットを開いた。未使用の制服が収納されているクローゼットだ。いよいよ制服の色が決まる。

(最下位クラスだろうけど、何色でもいいわ。ここの制服かわいいから)

 女生徒の制服はすとんとしたワンピースドレスで、白い襟にリボン。ふくらんだ肩には学院の紋章が刺繍されたワッペンがついていて、カフスや裾模様やボタンなど、各所に金色があしらわれている。

 しかし、主幹教諭が取り出したのはただの赤いマントだった。丈は短く、マントというよりケープに見える。装飾は、胸元に簡略化した学章が刺繍で入っているだけ。

「えーと、これは? 制服ではないのでは」

「君はなにもできないので、とりあえず仮入学者の身分を与える。一ヶ月後までに水を操る術式を体得できなかったら、入学許可は出せないよ」



 きちんとした制服ではなく、旅行用ドレスの上に短い赤マントをはおる姿は、見るからに「仮入学者」だった。

 主幹教諭室を出たメリチェルは、気落ちしてとぼとぼと外廊下を歩いていた。二階なので眼下に石畳の中庭が望める。

 ひと気のない殺風景なその庭を、黒髪に白い制服の少女が足早に横切るのが見えた。

「マヨ……」

 石の手摺から身を乗り出しマヨルを呼ぼうとして、声を引っ込める。紺色の制服を着た女生徒がマヨルの前方からやってきて、「ちょっと」と言って彼女を引きとめたからだ。

(お友達かしら?)

 それにしては声音が冷たいと思った次の瞬間、女生徒が見ていてあっけにとられるようなことをした。マヨルの肩をおもいきり突き飛ばしてよろめかせ、マヨルが手にしていた本を落とすと、今度はその本を遠くに蹴り飛ばして拾えなくしたのである。

 マヨルは女生徒に顔を向けたのち、文句を言うでもなくおとなしく蹴り飛ばされた本を拾いに行った。

 女生徒は唇を引き結んで、そんなマヨルの後ろ姿を見て、立ち尽くしている。

(な……! なんなの、あの人は!)

 おとなしそうな女生徒で、メリチェルの目には意地悪をしておもしろがるような人物には見えなかった。おもしろがるどころか、彼女はなぜこんなことをやってしまったのだろうとでも言いそうな顔で、マヨルを突き飛ばした自分の右手を見ている。

 メリチェルは二階から女生徒を呼び止めようと思ったが、授業をしているクラスが多いので大声を出すのははばかられた。

 外廊下から中庭に降りる階段は遠い位置にあった。庭に出るまでに時間がかかってしまい、メリチェルが中庭に降りたときにはもう、女生徒の姿もマヨルの姿もなかった。

(マヨル……)

 マヨルが意地悪をされるのを見るのは、はじめてではない。

 マヨルははっきりと異人種の容貌をしているから、差別的な扱いを受けることが少なくないのだ。メリチェルは女生徒の顔をしっかり記憶に刻みつけた。印象の薄い地味な容姿だったが、人の顔を覚えるのは得意なのである。

 今にこらしめてやろうっと!と物騒な決意を胸に、メリチェルは校舎の出入り口をにらみつけた。

(あらっ?)

 にらみつけた視線の先に、自分とおなじ赤マントをはおった人物がいる。

 メリチェルにとって大変意外な人物だ。

「旅のお方ー!」

 体格のいい黒髪の青年が、メリチェルの声に気付いて顔をあげた。穴にはまった車輪を戻してくれた、あの熟練の術者である。

「先刻はありがとうございました。あなたもこの学院に入学するのですか? でもおかしいわ、わたしはヘタっぴだから赤マントですけど、あなたはすばらしい術者でしょう? なのにどうして『仮入学』の身分なのかしら? 編成試験に失敗なさったの?」

 早口で質問するメリチェルに、黒髪の青年は訝しげな目を向けた。

「……なんの話だ」

「赤マントの話よ」

「君は誰だ?」

「覚えてないの?」

「……いつどこで会った?」

「三時間ほど前に、カロア川のそばで会ったわ。あなた、ちょっとお口の中を見せて」

「は?」

「お口がもごもご動いてる。飴をめしあがってるんじゃなくて?」

「あ」

 青年はやっと思い出した様子で、目を見開いた。

「あのときの令嬢か。結構な馬車に乗ってたじゃないか。貴族か、金持ちの商家のお嬢さんだろう? そんなお嬢さんがなぜこんなところに来るんだ」

「術式の勉強のため。それより、なぜあなたほどの使い手が赤マントなの?」

「生徒じゃないからな。俺は調べ物をするためにこの学院に来ただけだ。このマントは学院施設の利用許可を得た外部者が着用するものだときいたが」

「えっ、そうなの? 正式入学する前の仮入学者が着るものだと思ってたわ……」

「ああ、君は実力不足で入学許可が下りなかったのか」

 痛いところをまっすぐ突かれて、メリチェルはうっと言葉に詰まった。

「まあがんばるんだな」

 興味なさそうにさっさと通り過ぎようとする彼を、メリチェルは追いかけた。

「わたしメリチェルっていうの。メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタ」

「へー」

「あなたのお名前は?」

「なんで名乗らなきゃならないんだ」

「こちらが名乗ったのに名乗らないなんて!」

「『呪術師』は軽々しく名乗らないもんだ。名は身を縛るからな」

 メリチェルは思わず足を止めた。

「あなた『呪術師』なの? 術者ではなく?」

「術者だ。なりたいだけさ、古代の『呪術師』に。急ぐんで、じゃあな」

 青年はうるさそうに眉をしかめ、足を早めてメリチェルから遠ざかろうとする。メリチェルは小走りになってちょこまかと彼を追った。

「ねえ、ねえ、聞いて。わたしね……」

「お嬢様のご遊学につきあってる暇はないんだが」

「わたしレオニード先生に『君は術者ではなく、昔ながらの呪術師だ』って言われたの!」

 青年は足を止めた。

「レオニード先生って誰だ?」

 メリチェルは気取ったしぐさで前髪をかきあげて見せた。レオニードの真似である。

「ああ、あの気障野郎か……」

「先生に会ったなら、お名前をきいたんじゃなくて?」

「人の名前を覚えるのは苦手なんだ」

「顔を覚えるのも苦手でしょ。さて、わたしの名前はなあに?」

「メ……メ……」

「メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタよ。あなたのお名前は?」

「……ロギ」

 この娘の人なつっこさには敵わないとでも言うように、黒髪の青年は短く名乗った。


 学院の図書室。

 高い尖頭アーチ窓から、黄昏色の庭園とぽつぽつ灯りはじめた外灯が見える。天井まで届くつくりつけの書架には梯子がない。上段の本はどうやって取るのだろうと、術者でなければ疑問に思うに違いない。つまりこの学院は、本を取る程度の術式もつかえない人間は来る資格なし。入学お断りということだ。

「一ヶ月後までに、水を操る術式を身につけなくてはいけないの。そうしないと、入学できずにソルテヴィルに帰るはめになるの」

「帰ればいいだろ。ここはお嬢様の来るところじゃないんだよ。術式で成り上がりたいやつらが来る場所なんだ。術者なら王都で出世街道に乗って、高給取りになれるからな。実力があれば王立術士団に入るのも夢じゃない」

 ロギは頭上はるか上の書架から本をひょいひょいっと引き抜き――もちろん手を使わず術式で――降ってきた数冊をリズムよく次々とらえ、大机の隅に置いた。

「あなたも王立術士団に入りたいの?」

「術者として上を目指すなら、一度は在籍したいだろ。王立術士団出身なら箔がつく」

「箔なんかつけてどうするの?」

「どうするのって……。貴族のお嬢様には、平民が地位を求める気持ちなんかわからんだろうな。とにかく俺は、王立術士団入団試験のためにここに来たんだ。古い文献を研究するために、歴史の古いこの学院にわざわざ足を運んだ。来年の試験までに、古代の呪術を体得したい。邪魔しないでくれ」

「王立術士団の入団試験と古代の呪術と、なんの関係があるの?」

「王立術士団の術士には、ただの優等生の術者じゃなれないんだ。術者の頂点だからな。なんでもできる術者であることに加えて、自分ならではの売りが要る」

「ふ〜ん。それであなたは、今どきの術式使いであると同時に古代の呪術もいけますよーって売りを得るために、ここで呪術の古い本を研究すると。そういうわけね」

「そういうわけだから、邪魔するな」

 ロギはいらいらした様子で本を開いた。

「ねえ――」

「さっきからなんの用なんだ!」

 ロギがもういいかげんにしろとばかりに声を張り上げた。途端に司書長から「そこ、静かにしなさい」と注意が飛ぶ。

「……なんで俺が注意されなきゃいけないんだ」

「声が大きいからでしょ」

「誰のせいだよ……。なんのうらみがあって君は俺にまとわりつくんだ?」

「うらみじゃなくて興味があるの。あなたはわたしに興味ない? わたし『呪術師』よ? レオニード先生がそうおっしゃったのよ?」

「貴族のお嬢さんに『無能』だとは言いづらいだろ。その代わりに『呪術師』と言ったんだ。術式の基礎がなくとも、生来の勘で術式っぽい能力を発動できる子供はよくいる」

「勘じゃないわ! ちゃんとマヨルに習ったもの」

「マヨルって?」

「友達よ。遠い異国から来た人」

「異国の術者か……」

 ロギの瞳が興味ありげに輝く。

 この人はめんどくさがりのようでいて、術式に関しては好奇心旺盛な人。メリチェルはそう判断した。人と話すのはおもしろい。ちょっとした会話の端々に出る興味の持ち方、感情の出し方で、相手がどんな人かわかってくるから。

「マヨルは今、この学院にいるの。白い制服の最上位クラスよ」

「――なにっ?」

 ロギの顔色が変わった。

「白い制服なの。マヨルのほかには見かけないわ」

「白い制服は王立術士団候補生の証だ。各地の術式学院に、毎年一人ずつ推薦枠がある」

「まあ! マヨルは王立術士団に推薦されるの?」

「推薦されたからってすんなり入れるわけじゃない。試験が少々有利になるだけだ。つまり、俺とマヨルとやらはライバルになる。異国の呪術が使える術者だと? どの程度のやつなんだ……」

「マヨルはあなたのライバルにはならないんじゃないかしら」

「なぜ? マヨルは王立術士団に入る気がないのか? 出世街道なのに」

「この国で出世する気はないんじゃないかしら」

「いつか故国に帰るってことか?」

「帰れるようになったら、帰るんじゃないかしら」

「帰れるようになったら?」

 メリチェルはにっこりほほえんで、答えは返さなかった。

「わたし、もう行くわ。そろそろ寄宿舎に行かないと」

「おい、ちょっと待て、マヨルの話を――」

「勉強の邪魔しちゃってごめんなさい。またね」

 メリチェルはひらひらとロギに手をふって、図書室の出口に向かった。

 扉の前でふりかえると、メリチェルに調子を狂わされたロギが、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。

 ――なんだかかわいい。

(そっけない人かと思ったけれど、思ったより話してくれるし、がんばりやさんだわ。きっといい人ね)

 メリチェルは笑顔で彼にもう一度手をふって、扉を開けた。

 日が落ちて夜の帳が下りてくる時間帯。天井の高い石造りの廊下に、メリチェルの足音がカツコツと響く。

 マヨルの故国は、今はもうない。侵略に遭い、征服されてしまった。遠い遠い、海の向こうの話……。この国では、ごく一部の政治意識の高い人々しか話題にしない、別の大陸の侵略戦争。正確な情報も伝わってこない、はるかかなたの世界の話。

 けれどマヨルは故国を忘れていない。父親とふたり、命からがら逃げ出してきた戦火を忘れていない。母と幼い弟を亡くした日を忘れていない。皆を死なせ、ばらばらにした侵略国ザティナに対するうらみを忘れていない。

 この国の人々にとっては遠い他国の話でも、この国に逃げてきたマヨルにとっては、決して遠くならない話。

 メリチェルはそっと目を伏せた。

 思い出すのは、はじめてマヨルに話しかけた、幼い日のこと――。



「なぜ私に話しかけるのですか?」

「なかよくなりたいと思って」

「伯爵令嬢が下男の娘となかよく? なんの施しですか」

 これ以上ないというくらい、不機嫌な顔で言われた。

 メリチェルはひるんだ。けれど、不機嫌に不機嫌で答えてはいけないと両親に厳しく言われているため、笑顔を崩さない努力をした。

 めげずに下男の娘を追いかける。

「ねえねえ、その薪重そうね。少し持つのを手伝ってあげるわ」

 バン! 薪の束が地面に叩きつけられる。

 メリチェルは今度こそ本気でひるんだ。伯爵一家はみなほがらかで、執事も部屋付き女中たちもみなやさしく、苛立ちを物にぶつけるなどという行動は、八歳の今まで見たことがなかった。

 屋敷の裏庭だった。花壇や噴水が美しく配置された表の庭園と違い、簡素な小屋がいくつかあり、薪や飼葉など生活に必要なものが置かれているわびしい場所だ。

「令嬢に薪など運ばせたら、召使いはしかられます。そんなこともわからないのですか。あっちへ行って。仕事の邪魔。迷惑です」

 下男の娘は異国の容貌をしていた。彼女の切れあがった一重の目は険しくつりあがり、メリチェルが遭遇したことのない「敵意」をみなぎらせていた。

 メリチェルはじりじりとあとずさるようにして、下男の娘から遠ざかった。そしてくるりと背を向けると、脱兎のごとく裏庭から逃げ去った。

 走りながら涙が出てきた。

 どうして? どうして? どうしてあんなきついことを言うの?

 裏庭の奥は雑木林になっていた。伯爵家の領地は田舎で、屋敷は豊かな自然に囲まれている。木漏れ日のさす雑木林にはちょろちょろと流れる浅い小川があり、幼いメリチェルが行っていいのは小川までと決められていた。

 メリチェルは川べりの石の上にすわりこんだ。ぐずぐずと泣く。どうして下男の娘にきつく当たられるのか、理由がさっぱりわからなかった。

「精霊さん、なんでかしら……」

 メリチェルの想像の中では、この小川には精霊が棲んでいることになっていた。

 メリチェルの膝下ほどの深さしかなく、メリチェルが跳び越えられるほどの川幅しかない小さな川だから、精霊の姿も小さいに違いない。水の精霊だから、魚の姿かもしれない。でも魚だと話ができないから、上半身は人で、下半身だけ魚。それって人魚の形だから、精霊は女の人。お兄様たちが好きな「出るとこ出て締まるとこ締まった」美女がいいかしら。うん、ぼんきゅっぼんの美女にしよう。ちび美女人魚。

 色っぽいちび精霊の姿を想像しながら、ななめにかけた小花模様の布鞄を開ける。裁縫好きの母親につくってもらった「くじらちゃん」専用持ち運び袋である。

 くじらちゃんとはメリチェルが大切にしているぬいぐるみで、五歳のころメリチェルがよく描いていたくじらの絵が元になっている。母がやわらかな布地を使ってかわいらしく立体化してくれた。以来、いつも一緒なのだ。

 メロンほどの大きさの、白くて丸いくじらちゃん。ひれの存在でかろうじて水棲生物とわかるぬいぐるみを取り出し、鼻先をうずめる。

 メリチェルは下男の娘のことを考えた。

 メリチェルの暮らす屋敷には、小間使いや料理人や下男下女など、百人くらいの召使いが働いている。メリチェルはその全員と話をしてみようと思い立ち、目標を達成するために現在奮闘中なのである。執事や部屋付きの小間使いとは話す機会も多いが、外の仕事をする下男下女と話すには、自分から積極的に出向いていかなければならない。

 伯爵の末っ子、八歳のご令嬢に、召使いはみんなやさしく接してくれた。

 だから、メリチェルが最も話してみたかった相手――異国からやってきた下男の、十一歳になる娘――も、ほかの召使いとおなじように、話しかけたらやさしく答えてくれると思っていた。

「小川の精霊さん……。わたし、きらわれているの?」

『ねえアンタ、精霊さん精霊さん言わないで、ちゃんと名前で呼んでくれない?』

(……!?)

 メリチェルは驚いて顔をあげた。

 今、誰かなにか言った?

 けれど、周囲を見回しても小川がさらさら流れるのみである。

『小川の精霊なんて小川の数とおなじだけいるんだから。アンタだって伯爵令嬢!って呼ばれたら嫌でしょ。八歳末娘!とか、金髪幼女!とかさ』

「そ、そうね。メリチェルって呼んでほしいわ」

『だから名前で呼んで』

 これは、小川の精霊の声だろうか? ええっと思ったものの、そこは八歳である。メリチェルは素直に事態を飲み込んだ。

「わかったわ。お名前をおしえて」

『チョルチョルよ』

「かわいいお名前!」

『この川の名前じゃないの。あなた知らないの?』

「しらなかったわ。この川に名前があるなんて」

『あらやだ、忘れられちゃったのね。あたしを呼び出せる人間はあまりいないのよ。三百年にひとりくらいしか出てこないの。だから、名前を忘れられちゃうこともあるのよ』

「それは悲しいわね。わたし、みんなに川の名前を教えておくわ」

『ええ。よろしく頼むわね』

「よろしく。精霊チョルチョルさま」

 しゅぽん。そんなかんじの音がして、突き出た石の上に、手のひらに乗りそうな人魚が出現した。

 メリチェルが思い描いたとおりの、銀色の髪のぼんきゅっぼんだ。

「きゃあ素敵! チョルチョル様のおでましだわ!」

『よろしくぅ〜』

 ちび人魚はウインクしながら色っぽく言った。

「わたしが思ってたのとおんなじ姿だわ! すごいわ!」

『なに言ってるの。あんたが思ってたから、この姿なんじゃないの』

「えっ……?」

『人間は、自分が思ったとおりの姿しか見えないのよ。いえ、見ようとしないのよ。小川なんかただの水の流れだと思ったら、精霊なんていないただの水の流れなのよ』

「わたし、この川にはずっと精霊さんがいると思ってたわ!」

『だからあたしがいるのよ』

「ああ、チョルチョルさまに会えて、なんだかとってもうれしいわ。いやなことがあったばかりだから」

『泣いてたわね。なにがあったの、メリチェル?』

「意地悪な召使いがいて……」

『意地悪な召使い? 名前は?』

「あ……」

 メリチェルは、そこでようやく気付いた。

 あの下男の娘の名前を、自分は知らない。

 メリチェルにとってそのときのマヨルは、「異国の顔立ちの、下男の娘」でしかなかったのだ。そしてマヨルにとってのメリチェルもまた、「伯爵の末娘」でしかなかったのだ。



 その後六年の年月を重ねて、メリチェルにとってのマヨルは、とても一言では言い表せない大切な存在になっている。

 マヨルの過去も未来の夢も、メリチェルは知っている。

 マヨルは学院で術者として実力をつけて、散り散りになった国の人を集め、いつか故国を取り返す志を持っている。メリチェルの父ソシュレスタ伯は、そんなマヨルを支援している。だからマヨルが学院に通う費用を受け持ったのだ。父は学費の返済は受け取らない気でいるが、マヨルは返すつもりでいる。

(故郷がなくなるって……家族や親しい人を戦争で亡くすって……どんなことかしら)

 豊かな国の恵まれた地位に生まれたメリチェルには、想像がつかない。想像はつかないけれど、名前を教えてもらおうとマヨルを探したあの幼い日、屋敷の裏手でひとり静かに泣くマヨルを見つけてしまってからずっと――遠い目をして涙を流すマヨルの穴の空いたような表情を見てしまってからずっと――伝わってきた悲しみは、メリチェルの胸のうちで生きている。

(我が国エランダスは平和なのだわ)

 王立術士団は敵国と戦う組織ではなく、術者の出世の象徴なのだから。

 もしも――もしも大きな災難が、この国に降りかかってきたら……。

 メリチェルはぶるっと身震いしたものの、すぐにきりりと顔をあげた。

(ソルテヴィルの地はわたしが守るの)

 そのために学院へ来たのだ。そのための力を得るために。



 女子寄宿舎の建物は重々しい校舎と違い、石材の白さが残る新しくてしゃれた建物だった。

 メリチェルはこざっぱりとした寄宿舎を見上げてほっとした。寝泊まりする場所まで魔物が湧きそうな建物だったら、安眠できたものじゃない。

 メリチェルが正面入り口から寄宿舎に入ろうとすると、うしろから「ちょっと! 赤マントは寄宿舎立ち入り禁止よ!」と呼び止められた。

 ふりかえると、紺色の制服のいかにも気の強そうな少女が、腕を組んでこちらをにらんでいる。

「えっ、でもわたし、今日から寄宿舎に入る予定なんですけど……」

「なに言ってるの? 赤マントは学院の寄宿舎じゃなくて、敷地外の下宿から通う規則があるはずよ」

「えーっ!? そんな、聞いてませんよ」

 正面入り口で押し問答していると、舎監らしい年長の生徒が書類を繰りながら近づいてきて、「メリチェル・ヴェンヌ・ソシュレスタさん?」と訊いてきた。

「はい」

「ああそう……。ミラ、この子は特例よ。貴族のお嬢様だから、赤マントでも特別に寄宿舎でいいらしいわ。マヨルのとなりの部屋よ」

「特例? なによそれ! この学院は身分で贔屓しないのが鉄則なんじゃないの?」

「授業やクラスに関してはね。寄宿舎は、まあ別みたいよ」

「別ですって? マヨルのとなりの部屋なんて、上位クラス生用の部屋でしょ。赤マントが上位クラスの広い部屋に入るの?」

「でもレオニード先生から指示が来てて……」

「あーあーあー、いいです、いいです。わたしが部屋を移ります。マヨルのとなりはあきらめるわ。敷地外の下宿ってどこですか?」

 メリチェルは自分のせいで言い合いになりそうなふたりの会話に割り込んだ。

「でもレオニード先生が……」

「先生にはわたし本人から言っておきますから。荷物がマヨルのとなりの部屋に置いてあると思うので、とりあえずそれをとらせてください。案内お願いします」

「ふん。案内? 赤マントが紺色に命令する気?」

「命令ではなくお願いです」

 メリチェルは堂々と顔を上げ胸を張り、ミラと呼ばれた生徒を見据えた。

 ミラは、メリチェルのまっすぐな視線に負けて目をそらす。

「貴族ってえらそうで嫌い……!」

(半ベソかいてうつむくのを御所望ですか?)

 口には出さず、心の中でメリチェルは言った。もし口に出したら火に油だ。そのあたりは心得ている。

 いつも笑顔でいるよう心がけたり、堂々とすべきところは堂々としているのは、そうするように幼いころから鍛えられたからだ。

(見た目で判断してなめないでほしいわ。貴族社会ってけっこう厳しいんだから)

「ミラはいいわ。案内は私の役目よ」

 舎監の生徒がミラをなだめるように言った。「ごめんなさいね」と言うような視線を、眼鏡の奥からメリチェルに向ける。ミラはここでは手を焼くタイプなのだと、メリチェルは悟った。

 舎監の生徒のあとについて、メリチェルは寄宿舎の廊下を進んだ。階段を上がる前にふりかえると、ミラが数人の生徒とひそひそ話をしている様子が目に入った。

 内容は聞こえなくとも、彼女たちの表情で悪口を言っているのがよくわかる。きっと寄宿舎に割り込もうとしたえらそうな貴族令嬢の悪口だろう。

 「貴族令嬢」というものは、一般社会ではよく嫌われる。最初から与えられるだけ与えられていて、贅沢し放題でずるいと思われるのだろう。マヨルにだって最初はきらわれまくっていたのだから、こんなことはいちいち気にしない。

(あら?)

 メリチェルは悪口の輪から少し離れて、ミラたちを見ている生徒に気づいた。

(マヨルを突き飛ばした人だわ)

 マヨルに意地悪をした地味な女生徒は、悪口の輪に入ろうとしなかった。かくれるように柱の陰からミラたちを見つめている。

 その様子が思いつめたように真剣なので、メリチェルは不気味に思った。

(そんなにわたしの悪口が気になるなら、悪口の輪に入ればいいのに)

 寄宿舎には、外からはうかがい知れない人間模様があるようだ。

 マヨルが人前では行動を別にしたほうがいいと言ったのは、この雰囲気に理由がありそうな気がした。

 この学院は術式の実力で身分の決まる、小さな階級社会らしい。貴族の自分や異人種のマヨルのような異分子が目立ったら、こんなふうに悪口を言われるのだろう。





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