カワウソノマツリ
パソコンの前で大きく伸びをしながら、真昼さんが叫ぶ。
「何なのよ、この匂いったら!仕事になんてなりゃしない!」
そんなに鬼気迫る表情で仕事してたわけじゃないから、多分納期は迫っていない筈だ。それに今日は、真昼さんの誕生日。陽が落ちれば、ふたりでパーティーしようと思う。
キッチンで紺色のエプロンをつけた僕は、慎重にル・クルーゼの赤い鍋の底を木ベラで掬う。もう少し煮つまり気味の方が、おいしいと思う。
「何ができるの、伊織」
僕の背中に回った真昼さんが、耳を噛むように言う。
「ラタトゥイユ」
忙しい上に生活に無頓着な真昼さんは、放って置くと食べることすら忘れるから、たくさんの野菜を一度に摂取できるメニューが重宝だ。これなら冷蔵庫で冷やしておけば、何日か食べられる。三日に一度は冷蔵庫の中身をチェックして補充してるんだけど、すぐに食べられるもの以外はビールと水しか減っていな……
「ここで耳齧ってどうしようっていうの!もうちょっと待ってて!」
「お腹空いたの。伊織の耳、おいしそうだったんだもん」
あどけないとも言える表情で、僕の肩にしがみついて鍋の中を覗く。この人は、十歳も上の僕の恋人だ。
「コーヒー飲みたい。バーナードカフェの」
「仕事、区切りついたの?」
「もう少しで終わるから、コーヒー」
「淹れておくから、さっさと片付けて」
「伊織のコーヒーじゃない、バーナードカフェのコーヒー!ロースト強めの苦いやつが飲みたいのよぅ。買ってきてくれないと、仕事しないもん」
真昼さんが仕事をしなくて困るのは、真昼さんだけだ。設計事務所とはいっても社員がいるわけじゃないし、僕はまだ親掛かりの学生なのだから。
「買ってきて買ってきて買ってきて。買ってきてくれないと仕事にならないぃぃ」
「真昼さん、いくつ?」
「三十一!伊織より十歳オトナ!」
薄手のシャツから伸びる腕は細くて、短い髪がふわふわしてる頭は小さくて、それでも真昼さんは一国一城の主だ。仕方ないなあと溜息を吐きながら、エプロンを外す。
「買ってくるから、ちゃんと仕事しててね。つまみ食いしちゃダメだよ」
「はあい」
返事しながら、また鍋の中を覗いている。信憑性、まるでなし。
駅前まで歩き、バーナードカフェのカウンターでコーヒーを待っていると、ショーケースの中に良いものを見つけた。甘いものは苦手だって言うけど、誕生日だっていうのにケーキがないのはさびしいと思っていたから、これなら。
「豆乳野菜キッシュ・梅風味ってやつ、ふたつください。あと、蝋燭ありますか」
「ありますけど、それに?」
笑いながら細い蝋燭を出してくれた店員さんは、可愛らしいタイプの女の人だ。小柄な身体でてきぱき動く姿は、なんとなく真昼さんに似ている気がする。きっとこの人は、身勝手だったり我儘だったりしないだろうな。小柄で元気な人は、真昼さんだけじゃない。だけど僕をハウスキーパー代わりに使うのは、真昼さんだけ。
店を出た道すがら、酒屋の店先に見えたのは一枚の張り紙だ。
『獺祭のシャンパンが入荷しました』
どう読むのかは知らないけれど、誕生日にならシャンパンくらいあってもいいかも知れないと、店に入った。聞けば日本酒のスパークリングだけれど、ワインよりも良い香りだと言う。
「だっさい、と読むんだよ。カワウソがね、魚を捕まえると岸に並べるから、それがお祭りに見えるんだって。ま、ニホンカワウソは絶滅しちゃったけど、そこから転じて、本とか資料とか広げて創作することを指すらしいよ」
酒屋のおじさんは、少々インテリ臭く教えてくれた。本や資料を広げて創作なんて、建築家の真昼さんにピッタリじゃないか。
真夏の夕暮れは、むしむしと暑い。室内で冷房をかけたまま仕事をしている真昼さんにはわからないだろうけど、僕の背中には汗でべったりとシャツが張り付いている。右手にバーナードカフェの紙袋、左手には酒屋の包みを抱えて、大急ぎで真昼さんの部屋に戻る。デスクに張り付いている真昼さんの横にコーヒーを置くと、モニタから目を離さず、口だけが「ありがと」と呟いた。こんな時の真昼さんには、話しかけてもまったく無駄だ。ちょっとしたきっかけでスイッチが入って、他の事は全部忘れてしまう。本当に身勝手で、お構いなし。
溜息をついてキッチンに戻れば、小さなボウルとスプーンがトマト色になって置かれていた。つまみ食いしちゃダメだって言ったのに……僕の溜息はまた深くなる。仕方のない人。
真昼さんの仕事に区切りがつくまで、僕もソファで本を読んでいるつもりだったんだけれど、気がつけば瞼が下がっていたらしい。唇に柔らかい感触を感じて目を覚ますと、シャワーを済ませて髪が濡れっぱなしの真昼さんが笑っていた。
「ほったらかしてごめんね、伊織」
「ん……何時?」
「もう十時近く。明日は会社訪問、あるの?」
就職活動中の学生は夏休みの時間も細切れで、僕もここのところネクタイを締め慣れた。
「明日は大丈夫だから、泊まってく。真昼さんの誕生日だもん」
「え!あたし、誕生日だった?」
忘れてるとは思ってたけど、そんなに驚かなくてもいいと思う。
「そっか、三十二か。ハッピバースデイ・トゥー・ミー!」
真昼さんは年齢を重ねることを、気に病まない。女の人の中には、思わせぶりに年齢を当てさせたり若く見せたがったりする人がいるけど、真昼さんには当て嵌まらない。実際のとこ、若く見えて困っていることはあるみたいだけど。
冷たくしたラタトゥイユと、ガーリックを擦り付けてかりかリに焼いたバゲット、バーナード・カフェのキッシュ。千切ったリーフレタスの上に乗せたローストビーフは、多分どこかからのいただきもの。
「誕生日だから、ハーパーの十二年もの開けちゃおうかな」
そう言いながら立ち上がろうとする真昼さんを、手で制する。
「待って。シャンパンがある」
アルミの小さなバケツに氷を詰め、ガラスの瓶を立てた。
「真昼さんに似合いの酒だと思う」
日本酒って良くわからないけど、お祝いに泡の出る酒は華やかだ。けど実は、僕はシャンパンを開ける作法なんて知らない。おっかなびっくり栓を抜くと、想像していたよりもずっと派手な音を立てた。へっぴり腰を笑われながら、薄いグラスに注ぐと、透明な泡が湧いた。
「あ、いい香り。何、これ?ブドウと違う。よく見つけたね」
褒められたことが嬉しくて、思わず胸を張った。瓶を見せながら、説明する。
「日本酒のシャンパン。獺祭ってお酒だって」
ついでに酒屋さんで教えてもらった薀蓄もご披露し、真昼さんが感心してくれたのに気を良くする。手元のグラスからは、フルーティな甘い香りが漂った。
僕から真昼さんに贈った細いアンクレットは、さっそく足首に巻きつけられた。
「何?まさか伊織からの足枷だっていうんじゃないでしょうね?」
足枷くらいで拘束できるなら安価いものだけれど、拘束なんてほのめかしでもすれば、真昼さんは一瞬にして輝きを失うだろう。僕の好きな人は、そんな人だ。
食器を片付けて、グラスだけ持って狭いベランダに出た。むっとした夏の夜の空気の中、月だけがくっきりと空に浮かぶ。
「いつか、月を掴むのよ」
僕の知らない目標を、真昼さんは持っている。それを知りたいような、知りたくないような。
夜になっても熱の冷めない空気を纏い、じめじめと汗をかく。細い肩の真昼さんは手すりに寄りかかり、小さくスタンダードなジャズを口ずさんでいた。
「夜半過ぎたね」
「うん、急に静かになった」
僕を振り仰いで、真昼さんが微笑む。
「本日のナイトドレスは、細いチェーンのアンクレット」
グラスを片手に冷房の効いた部屋に戻れば、そこはまだ煌煌と明るい場所だ。
先に寝室に入った真昼さんは、もう薄いシーツを被っている。
「さあ、寝よう。伊織も早くおいで」
ベッドの下には、脱ぎ散らかされた真昼さんの着衣だ。
捕らえた魚を岸に並べ、獺は祭をする。ベッドに潜り込みながら、僕たちの脱ぎ捨てた服はまるで、岸に並べた魚。
これから二匹の獺は、浅い瀬で祭を始める。
fin.




