みえない
【ご注意】
本作品集には、精神疾患、希死念慮、自傷行為、暴力的描写を含む表現があります。
読者の方の心身の状態によっては、強い不安や動揺を引き起こす可能性があります。
これらの表現に不安を感じる方は、閲覧をお控えいただくよう、お願いいたします。
(1)
あぁ、今日は特に疲れたな。
台所から戻って、ソファに横たわってから、右腕に自分のおでこを乗せて、ほっと一息を吐いた。
小学生の頃は、どこからともなく湧いてくる元気の力で、遊びも宿題も、友達との関係だって続けることができた。
でも、中学生になって、季節の半分くらいが過ぎた頃から、朝起きても疲れは取れないし、吹奏楽部の練習では上手くなっている実感が湧かなくなったし、勉強に至っては、宿題をこなすので精一杯。
中間試験や期末試験に向けて、計画を立てて勉強している友達は皆、偉いと思っているし、高校入試に向けて今年から模試に挑み始めた友人たちのことは、さらに偉いと思っている。
わたしは毎日を生き延びるだけで、全てが終わってしまうというのに。
どこで差が付いてしまったのかな、あの子たちとと。
そんな小さな嘆きをしていたところで、現状が変わらないことなんて、知ってる。
人に言われなくたって、知ってる。
あなたに言われなくたって、知ってる。
うん。知ってるの。
わかってる。
薄いため息が喉の奥から漏れ出たとき、うっかり左手の甲を、ソファの端の木にぶつけてしまう。
じんじんと痛む左手を、右手でさすった。
その時だった。
家の外の道路から、ちいさな音楽が聴こえてきた。
金管楽器の音色だということは、すぐに分かった。
そして、心地よい高音の響きから、それがトランペットだというのも分かった。
こんな、「くだらない」わたしでも、吹奏楽部にはそれなりに長く在籍していたんだよ。
金管楽器の音色くらい聴き分けられるんだよ。
それにしても、心地よい音色。
うちの部活のメンバーでは出せない音色。
トランペットのメロディーを支えているのはユーフォニアムとチューバたち。
どちらも野太い音なのに、これまた、うちの吹奏楽部には出せない優しい響きに満ちている。
音は、だんだん大きくなる。
これって、マーチングなのかな。
歩きながら、演奏している。
ピッコロがマーチのテンポで軽快に歌い出して、確信する。
うちの中学校ではマーチングはしていないけれど、隣町の学校の定期演奏会では、マーチングを毎年披露している。
道路から聞こえてくるのは、まさに歩きながら奏でる楽しい行進曲。
楽しい音。
うん。そうだね。
とっても、楽しい。
あんな音色がわたしにも出せたのなら、吹奏楽の練習は、きっと毎日、楽しかっただろうな。
睡眠導入剤をたくさん口にしたときに感じるような、安心感と高揚感。
道路から聞こえてくる楽器の音色は、そんな安らぎを、わたしに与えてくれる。
道路の許可は取ったのかな。
わたしは、ふと興味が出て、窓の近くに行こうと思ったけれど、ソファにうずくまっている身体が「動きたくない」と小言を言ってくる。
それに、音はどんどんこの家から遠ざかってゆくから、わざわざ確かめなくてもいいかなって気になって、ソファのクッションに身体をそのまま沈めた。
(2)
吹奏楽の音が遠ざかって、無音の瞬間が訪れた。
でも、今日は外が賑な日みたい。
3秒も経たないうちに、外から子猫の鳴き声が聞こえてきた。
うちで飼っていた猫も、小さい頃はあんな可愛い鳴き方をしていたっけ。
一ヶ月前、いつもどおりに朝を迎えてカーテンを開けて、陽の光を浴びたとき、足元で猫が丸まっていた。
いつもどおりの幸せそうな丸いシルエット。
でも、なんでこんな窓際で寝ているの?
朝だから、ここ、寒いでしょ。
そう言って、猫をそっと抱き抱えると、その子の腕が重力に逆らわずに、ぶらりと下を向いた。
抱きしめたとき、その子はわたしに温もりを返してくれなかった。
幸せそうな口元から、その子の息はしなかった。
道路から聞こえてくるのは、わたしがずっと聞きたかった、あの猫の、子猫時代の声を彷彿とさせた。
わたしが離れようとすると、必死でみゃあみゃあと引き止めた、小さなあの子の声。
道路の猫も、誰かを呼んでいる。
母猫かな?
それとも飼い主さん?
誰を呼んでいるのかは分からないけれど、とても耳を暖めてくれる、そんな鳴き声。
わたし自身が死んじゃうその日まで、ずっと聞き続けてあげたかった鳴き声。
か弱いけれど、まっすぐな鳴き声。
懐かしさから、思わずに、わたしの頬が緩んでしまう。
けれどもね、道路で鳴いていたら、カラスにすぐ見つかっちゃうよ。
この辺りは雑木林も近いから、ヘビだって来ちゃうかもしれないよ。
わたしは、その子猫にそう伝えてあげたいと思った。
さっきは重かった脚が、今度はわたしの言うことを聞いてくれそうなので、窓際に行って、子猫のことを見てみようかと思った。
だけど、それは杞憂だった。
子猫の呼ぶ声を聞いたのか、大人の猫の声が聞こえて、その子の声と重なった。
たぶん、母親の猫だろう。
わたしが抱きしめた、冷たい身体をしていたあの子の声と瓜二つ。
成熟した優しい母猫の声と、まだ無垢でちいさなその子の声が重なったとき、わたしは、再び、幸福感に浸ることができた。
2匹の猫の声は遠ざかってゆくけれど、きっと今度は離れ離れにならないだろうな。
欲を言えば、本当は2匹の声をもっと、たくさん聞いていたかった。
それでも、あの2匹が幸せな時間を過ごしていると想像してみたら、幸せな気持ちになったから、まあ、良かったのかな、と自分を納得させてみる。
それにしても、なんで今日はこんなにたくさんの「しあわせ」な音が聞こえてくるのだろう。
無機質で、無意味で、空白だらけの毎日。
そんな日々の中で、「しあわせ」だと思える音がこんなにも外から聞こえてくるなんて、それだけでとても幸福な一日だ。
今日は特別な日なんだ。
そう確信したのは、道路から友人たちの笑い声が聞こえて来た瞬間だった。
(3)
またしても、3秒。
今度は、クラスメイトの女子たちの笑い声が聞こえてきた。
姿はここからは見えないけれど、わたしとよく一緒にいてくれる三人組の女子たちだ。
わたしたち四人は、クラスではあまり目立つ方ではなかったけれども、このメンバーでいる時間が、わたしが学校で唯一、「わたし」らしくいられる瞬間だった。
いつも、あの子たちと一緒に笑うだけで、わたしは少しだけ、この毎日が意味があるような気になれるのだ。
あの三人は、ここがわたしの家だと知らないだろう。
けれども、いつもどおりに彼女たちは笑って、道を歩きながら、軽い雑談を繰り広げる。
「ねえ、そのヘアピン、ちょっと派手じゃない?」
「そう? 300円で売ってたけど、なんというか一目惚れしちゃって」
「わかる! 私もその色味タイプ!」
「え、そうかなぁ? 付けてる本人の顔には良く似合ってるけど、ちょっと校則に引っかかりそう」
「でも! あんな古くさいルールなんて、先生たちだって忘れているよ」
そう言って、友だちの一人がわたしのヘアピンを褒めてくれた。
「私も派手なのに挑戦したいなーー」
「あんた、私服いっつも派手じゃん。なにを今さら」
「えーー、そう思ってたの? 清楚系目指してるつもりなんだけど!」
「わたしから見たら、みんな私服、すっごい似合っているよ。どっちも個性あって、制服じゃいつも勿体無いって思ってるくらい」
「あらためて、そう言われると、なんだか照れちゃう」
面と向かって言われると気恥ずかしいよ。
他の二人も、一緒に笑う。
とても、心地よいみんなの声。
そして、その声で笑い合う幸せな時間。
こういう時間を期待していた。
こういう現実を望んでいた。
こういう「今」になってほしいと、心の奥では、本当は期待していた。
ずっと。
(4)
ヘアピンを付けて登校してみたのは、わたしなりの最後の抵抗のつもりだったのかもしれない。
300円で買った、このヘアピン。
昔のみんななら、きっと褒めてくれるデザイン。
やっぱり似合わないかもしれない……。
その不安は鏡の中で押し殺して、頭に無理やり引っ付ける。
少しでもいい。
昔、四人で過ごしたあの空間に戻ってさえくれれば、それでよかった。
わたしは、それ以上の高望みはしない。
でも、昔に戻ることなんて、最初から無理な前提条件だったのだ。
そう願うことそのものが、高望みに他ならなかったのだ。
教室に入る前に、あの三人組と廊下で対面した。
あの三人は気まずそうに顔を見合わせてから、一人がぽつりとつぶやくように言った。
「そんなヘアピン、きもちわるい」
それからの教室での流れは、いつもどおりの平穏そのもの。
平和な空間。
クラスの女子のほとんどが、わたしのヘアピンを指差して笑う。
それ以外の子は、無視を決め込む。
でも、授業と授業の間に、わたしに聞こえるくらいの声量で、思い出したかのように、わたし自身を指さして笑う。
たのしい時間。
なんて、たのしい時間。
私は、お昼に廊下に出た。
私の後ろ姿を、皆が笑う。
とても、平和な光景。
音楽室から聞こえてくる、下手くそなトランペットとピッコロの音をなんとか聞こえないふりをしながら廊下を進むと、図書室の前で、あの三人と出会った。
彼女たちが「そこ」にいたのは、偶然ではなかったのだろう。
三人はお互いに目を合わせてから、一人が一歩前に出てきて、わたしに付き合った。
「ごめん。ほんと、むり」
わたしは、その言葉をただ聞くだけ。
「私たちもさ、あなたに関わると、それだけで大変っていうか」
わかってほしいの。悪意はないの。
私たちは、間違ったことは言っていないの。
私たちは正しいの。
私たちが間違うことなんて、絶対にね、あり得ないの。
「私たちの視界にあなたが入ってしまうと、私たちの世界が壊されてしまうの。だから、本当にね。本当に一生のお願いだからね」
彼女たちは真っ直ぐに私の目を見てから、息を吸って、口を開いた。
「これから、この先。私たちの視界に入らないで欲しいの。あなたも私たちのことを、絶対に見ないでほしいの。絶対に、私たちのことをあなたの視界に入れないでほしいの」
誠実に向き合えば全てが許されるこの世界において、彼女たちは真摯に、真面目に、わたしに向き合って、深く頭を下げてくれた。
(5)
だから、わたしは、台所で包丁を手にした。
あの子たちのお願いをしっかり受け止めるために、包丁の刃を垂直にわたしの目に突き立てた。
すーっと真横に一本の線を引いた。
痛みより先に来たのは、音だった。
道路から流れる、幸せな音楽。
それに釣られるように、私は手探りでリビングに向かってから、ソファの中に身を沈めた。
家の外から聞こえる音が本物かどうかなんて、わたしには関係ない。
わたしに聞こえていて、それが幸せなものなら、なんでもいい。
今のわたしは、ただ、何も見えなくなった。
たった、それだけ。
そして、その中で、幸せな音をみつけて、幸せを感じる。
たった、それだけ。




