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消磁

作者: ゼロン
掲載日:2026/06/07

遊礼の世界へようこそ


幼なじみなんてものは、つまるところ物理的距離の副産物だ。

源の家とうちは、五十メートルも離れていなかった。

母親同士が同窓で、物心ついたときにはもう源遊礼を知っていた。

遊礼は俺のことを「トモくん」と呼び、俺は彼女を「遊礼」と呼ぶ。この呼び方は幼稚園から大学までつづいて、決まった方程式みたいに、誰も変えようとは思わなかった。

だから源のおばさんが菓子折りを提げて訪ねてきた日も、べつに驚かなかった。

「智也くん、遊礼のこと、お願いね」

両手を合わせて、壊れものでも託すみたいな口調だった。

「あの子、一人暮らしじゃどうにも心配で」

うちの母親が横から口を添える。「そうそう、智也がそばで見ててくれれば安心でしょ」

二人の母親は顔を見合わせて笑った。とっくに俺の人生について、なにか契約を交わしたみたいな顔で。

俺はちょうど林檎を囓っているところで、曖昧に返事をした。

心のなかでは思っていた。あなたたちが心配してるその相手は、たぶん、あなたたちが想像するよりずっと、心配のいらない人間だ。

そのことに最初に気づいたのは、高一の文化祭だった。

源遊礼はクラスの文化祭委員で、学級会で出し物の案を話し合っているとき、教室は市場みたいな騒ぎだった。

メイド喫茶をやりたいやつ、お化け屋敷、バンド演奏を提案するやつ。意見が空気のなかでぶつかって、教室じゅうに焦れったさが散らばっていく。

遊礼は窓際に座っていた。

左耳にイヤホンを差して、右耳は空っぽ。

顔は少し窓のほうを向いていて、なにかを見ているふうでもあり、なにも見ていないふうでもあった。

ぼんやりしているのかと思った。

でも、学級会が終わりかけたとき、ふいに立ち上がって黒板の前まで歩いていった。

「メイド喫茶、お化け屋敷、バンド」

その三つを黒板に書いて、それから振り返った。

「三つともやりたい人、挙手」

まばらに手が挙がる。

「ひとつだけじゃ悔しい人」

今度はさっきより多い。

「じゃあね……」

彼女はチョークの箱からもう一本取り出して、三つの単語を丸で囲み、真ん中に線を引いた。

文化祭・番外編。

「一日目はカフェのテーマで、二日目はお化け屋敷の舞台裏でライブ。お客さん来れなかったら、自分たちだけで聴くの」

彼女が言い終えると、教室はしばらく静まりかえって、それから誰かが笑った。「そんなんでいいの?」「いいね」みたいな、なかば感心した声があちこちで上がる。

遊礼は小首を傾げた。

「だめなら、そのときにまた考えればいい」


その日の放課後、俺は彼女のうしろを歩いていた。

「さっきの、どうやって思いついたんだ」と訊いた。

「なにが」

「あの案」

「べつに、考えてない」彼女は右耳のイヤホンを外した。「最初からああだった」

最初からああだった……。いかにも彼女らしい答えだ。

何年も経ってからわかった。ある種の人間は、生まれつき世界を見る周波数が違っている。

彼女は「考える」必要がない。答えはもう、もとからそこにあるからだ。

後ろを歩きながら、彼女の右耳にぽっかり空いた、小さなイヤホン穴を見た。

左耳で音楽を聴き、右耳で世界を聴く。

そのときから俺は知っていた。源遊礼という人間は、誰の世話も必要としない。

でも彼女の世話になる人間は、たぶん、たくさんいる。



「消磁体」の噂が流れはじめたのは、大学二年生のころだ。

誰が言い出したのかは、はっきりしない。

でも秋になるころには、「英文学科の源遊礼は消磁体だ」というのが、キャンパスでは暗黙の共通認識になっていた。

噂の内容は、だいたいこんなものだった。

源遊礼は、人を拒まない。でも、人を受け入れもしない。

誰でも、告白したあとは彼女に「友達」にされる。

もっと正確に言えば、彼女に「消磁」されるのだと。

好きだとか、憧れだとか、胸の高鳴りだとか、何度も寝返りを打った夜だとか。そういうものが、彼女のそばに長くいると、磁気カードが強い磁場に近づくみたいに、ひとりでに消えていくのだと。

「振られるよりも怖いよ。振られたらまだ、相手を恨めるけど、彼女は恨ませてくれないから」

そう言ったのは三年の先輩だった。

合宿の深夜、酔って机に突っ伏しながら、俺たちに話してくれたのだ。

先輩は、告白したらしい。

結果、彼女の読書会のメンバーになった。

「あの感覚はわかんないよ」先輩はコップに酒を注いだが、飲まなかった。「勇気を振り絞って心を差し出す。彼女はそれを受け取る。で、次の日にはもう、自分がどうでもよくなってるんだ」

「魔法みたいな話ですね」誰かが笑った。

先輩は笑わなかった。

「魔法だよ……人を苦しませなくする魔法だ」

俺は隅っこでそれを聞きながら、なにも言わなかった。

そんなことはもちろん知っていた。

遊礼は、ずっと昔からそうだった。



十六の年の夏、俺は初めて遊礼の「消磁」を間近で目撃した。

相手は隣のクラスの男子。

名字は忘れた。覚えているのはバスケ部で、背が高くて、笑うと八重歯が見えることだけ。

そいつは遊礼を下校途中に呼び止めた。

夕日が二人の影をやけに長く伸ばしていた。

「源さん、好きです」

声は力んでいた。

胸の空気をぜんぶ押し出してしまいそうな力み方だった。

遊礼はそいつの前に立っていた。頭ひとつ背が低くて、見上げる格好なのに、目線は対等だった。

赤くもならない、うつむきもしない。ただ静かに、相手の息が落ち着くのを待っていた。

それから彼女は言った。

「そうなんだ」

ありがとう、でも、ごめんなさい、わたしも好き、そのどれでもなかった。

そうなんだ、だ。

男子は固まった。

たぶん、予習してきたどんな返事にも、その選択肢はなかったのだろう。

「あのさ」遊礼は小首を傾げた。「好きなものって、変わったりする?」

「どういう意味ですか」

「たとえば……」彼女は相手の鞄にぶら下がったキーホルダーを指さした。

バスケットボールの形をした小さなやつ。「これ、昔はサッカーが好きだった?」

「えっと……小学校のときはサッカーでした」

「今は好きじゃない」

「嫌いになったわけじゃないですけど、まあ……」

「変わったんだ」

彼女は頷いた。

その仕草は軽すぎて、当然の物理法則に同意するみたいだった。

「わたしも、おんなじ」

言い終えると、彼の脇を通り抜けて歩き出した。

男子はその場に立ち尽くしたまま、追いかけてはこなかった。

俺は物陰から出て、彼女の横に並んだ。しばらく歩いた。

「さっきの、どういう意味だ」と訊いた。

「なにがどういう意味」

「『わたしもおんなじ』って」

彼女は立ち止まった。

秋の風が髪をばらばらにして、彼女は手で耳のうしろに払いながら、横顔をまるごと見せた。

「だから──わたしも変わるんだよ、ってこと」

「なにが変わるんだ」

「たくさん」彼女はちょっと考えた。「好きな色とか、食べたいものとか、明日会いたい人とか」

言い終えて、また歩き出した。

俺もついていく。

「で、あいつはまだお前のこと好きなのかな」

「わかんない」彼女は歩調を変えなかった。「たぶん、明日にはわかんなくなってる」

彼女の言ったとおりだった。

次の日、あの男子が遊礼を見る目は、昨日とはまるで違っていた。

気まずいとか、嫌悪とかでもない。ただ、道端の猫を見つけて、かわいいなと思う、でもそれだけ、みたいな目。

一度も心を動かしたことなんてなかったみたいに、きれいな目だった。



もう少し大人になってから、俺は遊礼の消磁がなんなのか、なんとなくわかってきた。

魔法でも、特殊能力でもない。

彼女はただ、受け止めるだけなのだ。

差し出されたものを全部、受け止める。

煮えたぎる好意、尖った渇望、不器用な真心……

彼女はそれを、ひとつ残らず受け取る。

そして、そっと横に置く。

評価もせず、期待も添えずに。

「告白するときの顔って、雨の日に似てる」

彼女は一度、そう言った。

「どういう意味だ」

「ぐっしょりしてる……」彼女は弁当のタコさんウインナーをこっちの椀に移しながら言った。「でも、ずっと雨ってわけじゃない。雨はやむよ」

「『好き』もやむって言いたいのか」

「やむとかやまないとかじゃなくて……だいじょうぶだよって言いたいの」

雨が降っても、降らなくても、みんな天気のうちでしょ、と。

彼女は自分のぶんのタコさんウインナーを齧った。

「わたしは天気じゃない、観客なの」

観客。

彼女が自分につけた定義だ。

舞台には上がらない。筋書きには関わらない。どの役者のなにをすることにも、判断を下さない。ただ黙って芝居を観て、幕が下りたら拍手をする。

そういう構えは、ある種の人間にとって、拒絶よりも残酷な優しさだ。



十九の冬、いまでもよく覚えているできごとがあった。

あの時期、遊礼は古書店でバイトをしていた。

店の名前は妙ちきりんで、「月の裏側」という。大学の裏門の寂れた通りにあって、店主は煙草の好きな爺さんで、週の五日はいないから、店番はほとんど遊礼ひとりだった。

俺はバイトの帰りに、ときどきそこへ寄った。

とくに用があるわけでもない。ただ彼女がいるかを見に行って、いれば本棚の古い漫画をめくるだけだ。

その日の夕方、遊礼は本棚のまえで、一人の女の子と話していた。

たぶん店の客で、短い髪に美術科のベレー帽を被っていて、目が少し赤かった。さっきまで泣いていたのだと思う。

本棚からそう遠くない場所で、声がとぎれとぎれに聞こえてくる。

「……どうしたらいいのかわかんないんです。気持ちは変わるものだってみんな言うけど、わたしは変えたくないんです」

遊礼は少しだけ沈黙して、それから棚から一冊の本を抜いた。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。

「この本ね、読むたびに違うの……」彼女は表紙を手で撫でた。「小学生のときは天国の話だと思ったし、中学生のときは死の話、高校生のときは孤独の話だと思った」

彼女は本を差し出した。

「変わってるのはお話じゃなくて、人なんだよ」

女の子は本を受け取って、うつむいて表紙を見る。

「じゃあ……今は? 今読んだら、どんな感じですか」

「今はね」

遊礼は本棚にもたれた。顔が少し傾く。ガラス戸のむこうから夕日が流れ込んで、彼女の半面をオレンジ色の光に浸していた。

「夜の列車、かな。

どこへ行くかはわかっててね、でも途中の駅がみんな綺麗だから……ちょっとぐらい遅れてもいいかなって思うの」

女の子はしばらくきょとんとして、それから急に笑った。

「なにそれ、わかんないです」

「ふつうの答えだよ」

「じゃあもっと簡単に訊きますね」女の子は本を胸に抱えた。「源先輩って、女の子のこと好きですか」

店の空気がふいに静かになった。レコードだけがまだ回っていて、ジャズが流れている。

遊礼は首を傾げた。ほんとうに考えているみたいに。

「んー、好きだよ」

女の子の頬がうっすら赤くなる。

「じゃあ、男の人は」

「それも好き」

「……なにそれ」

「えー」遊礼はぱちぱちと瞬いた。「両方好きじゃだめなの」

「でも、でもそれって――」

「ひとのカタチって、もともとばらばらなんだよ」

遊礼は相手の言葉を遮った。強くはなく、ただ穏やかに述べる口調だった。

「線みたいな人もいれば、円みたいな人もいるし、出口のない迷路みたいな人もいる」

彼女は女の子の手から本を抜き取って、ぱらぱらと頁をめくった。

「わたしは信号」

「信号?」

「うん、届く人は立ち止まって聴いてくれるし、届かない人はそのまま通り過ぎる。それだけ」

顔を上げて、女の子に笑いかけた。

とても淡い笑顔だったが、なぜか俺は、ずっと昔、彼女が自販機に百円を呑まれたときの表情を思い出した。

あのときも彼女は、こういうふうに笑っていた。

結局、女の子は告白しなかった。彼女は『銀河鉄道の夜』を買って、レジでお金を払って、出ていった。

店のドアを押すまえに、一度だけ振り返った。

遊礼はもうカウンターの奥に戻って、読みかけの文庫本を手に取っていた。表紙が上を向いているから、タイトルは見えない。

「源先輩」

「ん」

「今度来たとき、また本、紹介してください」

「うん」

女の子が出ていくと、ドアの風鈴が一度鳴って、それから静かになった。

俺は本棚の裏から出て行った。

遊礼は俺を見ても、とくに驚かなかった。最初からそこに俺がいるのを知っていたみたいな顔だ。

「今日、帰り早いね」

「早番だったんだ」俺はカウンターのむかいの古いソファに腰を下ろした。「さっきの子……」

「さっき?」

「告白、だろ」

「たぶんね」

「おまえが言ったこと、あの子、帰ってから一晩は考え込むぞ」

「考え込まないよ」遊礼は文庫本の頁の端を折って、本を閉じた。「あの子はわかるの。自分が思うより、ずっと早くわかる」

「なにを」

「好きにも、いろんな好きがあるってこと」

彼女はカウンターの下から缶ジュースを取り出して、こっちに寄越した。オレンジ味だ。

「好きが返ってくるのが好きっていう好き。あの子と一緒にいたいっていう好き。それからもうひとつ――」

彼女は少し考えて、適切な言葉を探しているようだった。

「『あの人がいると、空気がちょっと甘くなる』っていう好き」

俺は缶のプルタブを引いた。泡の弾ける音が、静かな店内にやけに響く。

「おまえは?」

「わたし?」

「おまえは、なにが好きなんだ」

遊礼は答えなかった。天井を見て、椅子のうえで両足をゆらゆら揺らしていた。

「わたしはね、空気の甘い場所が好き」

だから人じゃないんだな――俺はそう思ったが、口には出さなかった。



彼女はほんとうに、人から好かれることに困っていないらしい。

そのことを、二十歳の年、俺は何度も思い知った。

まず五月、大学院の先輩が図書館で三十分にわたる論理展開を披露し、自分と彼女が「魂レベルで最適な組み合わせ」だと証明しようとした。遊礼は最後まで遮らずに聴いて、ただ一言だけ言った。「すごく綺麗な論証だね。でも、論証が綺麗なものは、だいたい自分を納得させるためのものだよ」

先輩は長いこと黙り込んで、それから図書館のあの席に二度と現れなかった。

七月、サークルの合宿。

後輩の男子が屋上で「源先輩といると、自分がもっと良い人間になれるんです」と言った。遊礼は聴いてから、首を傾げて訊いた。「じゃあ、あなた自身は誰なの」後輩は答えられなかった。その晩、彼は少し酒を飲んで、ロッジの廊下で少しだけ泣いた。翌朝起きたら、彼は彼女のことを好きじゃなくなっていた。

十一月、古書店の閉店後、一緒にバイトしていた別の男子が、いきなり店の前で「好きです」と言った。

遊礼はちょうどシャッターを下ろしているところだった。

ガラガラと鉄の扉が落ちて、彼女は鍵を抜き、振り向いた。

「そういうことは、明るいうちに言ったほうがいいよ」

「な、なんでですか」

「夜の声は、ずっと残っちゃうから」

その男子は二度目の告白をしなかった。

その後、遊礼は古書店のバイトを辞めた。

理由を訊くと、「シフト表が変わって、水曜の映画と被った」と言った。

でも、彼女が水曜に映画を観ていないことを、俺は知っていた。



ひとから見た源遊礼は、たぶん、優しいけど近づきがたい人間なんだろう。

でも俺は、彼女の言葉のもう片方の面を知っている。

高校のとき、親父が転勤で北海道に行って、俺は一人、地元のまま学校の寮に入った。週末に着替えを取りに戻ると、ついでに源の家で夕飯をご馳走になった。

遊礼はいつも、料理のいちばんいい部分を俺の椀に取り分けた。

たとえば、唐揚げのいちばんカリッとしたやつ、卵焼きのいちばん綺麗に巻けた部分、タコさんウインナーのいちばんタコらしい形のやつ。

最初は偶然だと思った。

でも何度かつづいて、わざとだと気づいた。

「自分で食べないのか」

「食べるよ」

「じゃあなんでこっちによこすんだ」

彼女は箸を持ったまま、小首を傾げて俺を見た。すごく奇妙な質問をされた、みたいな顔で。

「だって、トモくんってば、食べるときに目を細めるんだもん」

「なに」

「その顔がね、冬にホットミルク飲んだ猫みたいなの」

彼女はそう言うと、こんどは自分のぶんの唐揚げをひとつ、箸で取った。

「見たいから」

それだけのために。

大学二年の秋、俺は立て続けに祖母を亡くし、研究が行き詰まり、ひとつの人間関係が終わった。そのことを誰にも話していなかったのに、ある日突然、遊礼が俺の部屋の前に立っていた。手にはコンビニの袋。

「トモくん、これ」

袋のなかはプリンだった。三個。

「なんでプリン」

「甘い、冷たい、噛まなくていい」

たしかに噛まなくていい。一個目のプリンを食っているあいだ、彼女は机のわきの床に座って、古書店で買った文庫本をめくっていた。

ずっと無言だった。

三個目のプリンを食べ終わったとき、彼女は立ち上がった。

「次はポテチ持ってくる」

「次ってなんだ」

彼女は答えなかった。

でも次の日、本当にポテチを持ってきた。

その次の日も、そのまた次の日も。

五日目、ついに訊いた。

「講義はいいのか」

「あるよ」

「じゃあなんで来るんだ」

「今日は行ったの」彼女は少し間を置いた。「先生がしゃべってたけど、耳に入んなかった」

彼女は自分の左耳を指さした。イヤホンは首にかかっていて、つけていなかった。

「こっち、雨が降ってるみたいだったから」

窓の外はたしかに雨だった。秋の長雨が、朝からずっと降りつづいていた。

「雨音がうるさいのかなって思ってね」彼女は部屋の隅に視線をやった。独り言みたいな口調で。「雨音がうるさいと、聞こえなくなるものがあるの。そういうの、溜まると壊れるんだよ」

彼女はしゃがんで、コンビニの袋からもうひとつプリンを取り出した。

「だから、これ買ってきた」

俺はそのプリンを見た。抹茶味だった。

「遊礼、おまえ、誰にでもそうなのか」

彼女はしゃがんだまま、顔を上げて俺を見た。表情は動かず、ただ睫毛がほんの少し震えただけだった。

「トモくん」

「ん」

「わたしと『誰にでも』は、関係ない」

彼女はプリンをこっちに押しやった。

「関係あるのは、ここ、いま、このプリンだけ」

立ち上がってスカートをはたくと、左耳にイヤホンを戻した。

「明日はコーンポタージュ味のポテチにする」

そう言って彼女は出ていった。

次の日、彼女は本当にそれを持ってきて、その味は意外とうまかった。



大学三年、春。

「消磁体」の噂はキャンパスでだんだんと薄れていった。遊礼が変わったからではない。彼女に「消磁」された人たちが、あることに気づき始めたからだ。

自分の好意は消えたわけではなかった、と。

ただ尖らなくなっただけだ。寝返りを打たせなくなっただけだ。一喜一憂させなくなっただけだ。代わりにそこにあったのは、もっと軽い、もっと静かな、胸の奥の片隅に置いておけば痛まない、そんなものだった。

焼けるほど熱かった鉄を、冷たい水にくぐらせたみたいに。

それはたしかに鉄だけど、温度が変わっただけだ。

かつて屋上で泣いた後輩は、いまでは遊礼の読書会の常連になっていた。そこで同じクラスの女の子と知り合って、先月から付き合いはじめたらしい。

「智也先輩」そいつは一度、俺に言った。「源先輩は、ほんとは誰も消磁してないんですよ。ただ、熱を下げてくれただけで」

その言葉を俺はずっと覚えている。

人間は、おそらく、ずっと煮えたぎっているわけにはいかない。沸騰したままだといつか蒸発してしまう。それより、誰かがしかるべきときに、そっと言ってくれるほうがいい。「そんなに熱くなんなくても、だいじょうぶだよ」と。

遊礼はずっと、その役目をしている。

でも彼女自身は、それを知っているんだろうか。



二十一歳、七月。

俺と遊礼は夜の土手を並んで歩いていた。遠くで花火の上がる音がする。夏大会の予行演習だ。

「トモくん」

「ん」

「花火って、空で散るでしょ。すごく綺麗に散る。でも、ほんとに燃えてる部分は、すごく小さいんだよ」

彼女は土手のコンクリートの縁石の上を、両腕を広げてバランスを取りながら歩いていた。

「人間のほうが花火なんだ」

「どういう意味だ」

「誰かを好きになるとね、自分じゃないものがいっぱい散っていくの。期待とか、欲望とか、想像とか、怖さとか。あともっとたくさんの期待」

彼女は立ち止まって、遠くを見た。

「あれって、ほんとは相手には関係ないんだよ」

「つまり」

「つまり、相手に責任はないんだよ」

好きという気持ちが責任なのだとしたら、好きになられるほうは、疲れてしまう、と彼女は言った。

「わたしは、ひとを疲れさせたくない」

彼女は縁石から飛び降りて、土手の地面に着地した。白いスニーカーが、乾いた音を立てる。

彼女は顔を上げて俺を見た。その瞳に、遠くの花火が逆さに映っている。

だからこれは、冷淡なんかじゃない。

優しさだ。

人の心を掌にのせて、あまりに熱すぎるから、そっと日陰に置いてやるような優しさだ。

その夜、帰り道を歩きながら、俺は何年もまえに彼女を恨んでいた連中のことを思い出していた。彼女のせいで、好意を失ったのだと嘆いた連中を。

たぶん、あいつらは間違っていた。

彼女は誰の好きも殺してなどいない。

ただあまりに多くのそれを、預かっているだけだ。灼熱のままの真心を預かって、冷めるまで待って、それから返している。

じゃあ彼女自身のものは――。

自分のものは、どうするんだ。

「なに考えてるの」

彼女の声が急に聞こえて、顔を向けると、やけに近くにいた。睫毛が灯りに落とす影が見えるくらい近くに。

「いや」俺は視線を前の道に戻した。「おまえも、誰かに預けてもらったほうがいいんじゃないかと思って」

彼女は一瞬きょとんとした。

それから笑った。目が三日月みたいに細くなって、十年前、自販機のまえで見せた笑顔とおんなじだった。

「いらない」

その二文字は、やけに軽かった。

「だってトモくん、ずっと隣にいるじゃん」


終章


その後、という言葉はひどくずるい。一時間後のこともあれば、十年後のこともある。

俺と遊礼はあいかわらず同じ街に住んでいて、俺はデザイン事務所に就職し、彼女は出版社に勤めた。たまに週末に会う。たいていは彼女がこっちに来て、コンビニの菓子と文庫本を提げている。

ソファに寝転んで、午後いっぱい本を読んでいることもある。時折くぐもった笑い声を漏らすから、なにがおかしいのか訊くと、彼女は頁のあいだに指を挟んだまま、ひとくだりを読み上げる。そういう文章はたいてい文脈とあまり関係がなくて、奇妙な韻律を持っていた。

「それなんの本だ」

「わかんない」

「わかんないのか」

「適当に開いたところだから」

俺は彼女のまえに珈琲を置いた。

「今日も仕事休みか」

「今日は土曜日だよ」

「木曜日も土曜日だっただろ」

彼女は少し考えた。

「木曜日が、木曜日じしんを土曜日だと思ったんだよ」

これが源遊礼の世界だ。いま、彼女は今日を土曜日だと思っている。

俺は仕事机に戻り、図面を描きつづける。時々目を上げると、彼女の横顔が夕日に染まって蜂蜜色になっている。左耳にはあいかわらずイヤホン、右耳はあいかわらず空っぽ。

ソファの背もたれには、彼女が持ってきたコンビニの袋が投げ出してあって、なかにはいつものプリン、いつものポテチ、たまに変わり種の味の炭酸。

窓の外を電車が通り過ぎる音。隣の部屋から、誰かがカレーを煮ている匂い。

彼女が頁をめくる音が、ひどくゆっくりになる。

たぶん眠りかけている。

「遊礼」

「ん」

「おまえの『消磁体』……まだ言われてるのか」

彼女はしばらく黙っていた。そして本を閉じて胸の上に置いた。

「わかんない。まだかもね」

「気にしてるのか」

答えはなかった。

しばらくして、彼女の声が聞こえた。とても小さな、独り言みたいな声。

「トモくん、あのね、ほんとは――」

俺は手のなかのペンを止めた。

「ほんとは、あの人たちの気持ち、ちゃんとぜんぶ取ってあるの。一人ひとりの。告白したときの顔も、声も、そのときの風向きも……」

彼女は目を閉じていた。

「ただ、どうやって返せばいいのか、わかんない」

窓の外を電車が通り、部屋全体がかすかに震える。

「だから、ずっとわたしのなかにある」

俺は彼女の閉じた瞼を見た。その睫毛の先に、夕日のちいさな反射がある。

「それでいいじゃないか」と俺は言った。

「よくない」

彼女は目を開けて、こっちを見た。その顔は、らしくなく真剣だった。

「重たい」

「重たい?」

「うん、ひとの気持ちはみんな重たい。好きっていちばん重たい。かたちないのに、石より重たいんだよ」

彼女は胸の上の本をどけて、起き上がった。

「でも、捨てるわけにはいかないでしょ、ひとからもらったものだから」

「じゃあ、どうするんだ」

「あたしはね」

彼女は首を傾げて考えて、口元がほんの少し弧を描いた。

「べつのところに置いてあげるの。風のなかとか、文字のあいだとかにね、コンビニのプリンの蓋の上とかに」

彼女はテーブルの抹茶プリンを手に取って、アルミの蓋を剥がした。

「この蓋は、大きさがあって、カーブがあるから、すごく軽い気持ちなら、ひとつ置けるんだよ」

スプーンでプリンを掬って、俺を見る。

「そうやって少しずつわけてったら、いつかなくなる」

「なくなったら?」

「そのあとはね……」

彼女はスプーンを口に含んで、ずいぶん長く含んでいた。俺が質問を忘れたかと思うくらい長く。

それから、彼女は言った。

「軽くなるの」

その日の夕方、帰り際に、彼女は玄関でふと振り返った。

「トモくん」

「ん」

「トモくんのは分けられない。トモくんのだけは、分けてあげられない」

彼女は言葉を切った。

「なんでだろうね」

そう言って、ドアを開けて夕日のなかへ出ていった。

俺は玄関に立って、彼女がアパートの階段を降りていくのを見ていた。夏の熱気はまだ引いていなくて、彼女の白いシャツが夕暮れのなかで、歩く光の点みたいに見えた。

そのとき、はっきりとわかったことがある。

源遊礼は、誰の磁気も消してなどいなかった。

彼女自身が磁気だったのだ。

彼女に近づく者はみな乱される。立ち去る者もいれば、立ち止まって、自分のN極とS極を整え直し、それからまた歩き出す者もいる。

そして彼女は、ずっとあそこに立っている。

自分に向かって落ちてくる、熱くて、かたちのない、重たいものすべてを受け止めて。それから一人、コンビニの灯りの下で、それらを分類し、包装し、そっと世界の片隅に戻しに行く。

それを全部やり終えたら、立ち上がってスカートをはたき、次の夕暮れのほうへと歩いていく。

左耳で音楽を聴き、右耳は空っぽ。

あらゆる信号を受信しながら、どのチャンネルも占有しない。


(終わり)

「自分は、智也にとっての遊礼の特殊性を論じているのではないか」という疑義を受けたあと、僕は長いこと考えた。これは即興的な感覚で書かれたものだが、ある人にとっての別の人の特殊性を論じること……

それは決して、僕の本意ではない。

では、僕の本意とはなんだったのか。

よくよく考えて、その答えは見つかった。

ただ、ひとつの状態を、ひとつの在りようを、描きたかったのだ。

僕の動機は、こういうことだったのかもしれない。こういうふうなふたりのありかたは、もしかすると「好き」なのではないだろうか、と。

だから僕は「これは好きかもしれない」という矢を放ち、その結果から起源を探ろうとした。

僕は智也の視線を借りて、このありかたを定義しようと試みた。けれど、彼になにかを語らせようとするたびに、そうではない気がしてならなかった。だから彼は、ただ観察しているだけになった。

うん……実際には、どんな関係というわけでもないのかもしれない。ただ、そういう存在が、僕にはたしかに心地よかった。

たぶん、そういうことなんだと思う。

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