No.43 最後の恋人
コウ。あたしの大切な宝物。目下あたしの人生最後の恋人だ、と思っているほど愛しい存在。
「出たよ、仁美のお決まりの定形文が」
一緒にバイトをあがった留美子が呆れた顔であたしをしげしげと見つめて呟いた。
「だってホントのことだもの。悪い?」
いい加減にしなさいよ、という彼女の声が、被ったカットソーの布地でくぐもった。ぱふりと被って覗かせた顔は、さっきほどの呆れ顔ではなかったが。
「四十路にもなって、何いつまでも乙女みたいなことを言ってんのよ」
早いとこ自分に釣り合う年の男を見つけなさい、とその横顔が言っていた。
今日はコウが高校の友達とカラオケで遅くなる、なんてことを言っていたから、そのまま留美子と外で飲む約束になっていた。これ幸いとばかりに彼女にアポっておいたことを、あたしは早くも悔やんでいた。
「――で、今度はコウ君の何が心配なわけよ?」
その口調が、既に臨戦態勢になっている。完全に、コウの味方だ。まるであたしだけに非がある、と、話を聞く前から決めつけている。でも、今回は流石の留美子もあたしの気持ちを解ってくれるに違いない。そう気を取り直したあたしは、最初のジョッキを一気にあおってから財布を取り出し彼女の前でこっそりと開いてみせた。
「げ……っ、ちょっと、何でそんなもん持ち歩いてんのよ」
この年になれば大抵の女も見たことのある、四角いシルバーなラッピングをされてる恥ずかしいブツ。それを、どうしてそんなもんと縁遠いあたしみたいな女が持ち歩いているのか、という経緯を留美子へつらつらと愚痴混じりに語った。
「この間、久し振りに連休が取れたからさ、遅まきながらの大掃除をしたわけよ」
「もしかして、コウ君の部屋も勝手にやっちゃった、とか?」
「当ったり前じゃない。あいつ、自分で掃除なんて絶対しない奴だもん」
「あんたそれ、プライバシーの侵害だって。嫌われるよ」
「っていうか、こんなもん持ってる段階で、既にあたし切り捨てられてるとか思わない? あいつ、彼女でも出来たのかな」
「そりゃ彼女の一人や二人くらい、いてもいい年じゃないの? コウ君って確か、来年は大学受験生、だっけ?」
うん、と答える声は、重い。大ジョッキの一気飲みが酔いを加速させた所為もあるのか、途端に零れたあたしの涙を見て、留美子が初めて険しい表情を引っ込めた。
「同居解消、って言われてたんだっけ。まだそれ、言い張ってるんだ、コウ君」
こくりと頷くあたしの前に、彼女が揚げだし豆腐の載った小皿をことんと置いた。
そう。恋人だなんて、本当はあたしの独りよがりで、ホントはただの同居人。ふた周り近くも年の離れた、あいつによく似たあいつの息子。折角縁あって出会ったのだから、あいつが死んだあと、あたしが引き取った。あいつのことを捨てた女に、産んだってだけでコウを取られるなんて癪だった。そのくらい、あたしはコウのことも愛してた。あいつとおんなじくらいに、とても。
「なのにさー! ひどいと思わない? あたしって、コウの、何?!」
「似非ママ」
「……」
やっぱり留美子は今回もコウの味方に終始した。
「そういう年頃なんだから、むしろちゃんと避妊してるってことに安心してやれば?」
なんて言葉にもかなりのショックを受けたけど、それ以上にダメージを食らった言葉は
「コウ君はあの人の代わりじゃないよ。あの子をあの子自身として、ちゃんと一人前って認めてあげな」
という、至極真っ当な一言だった。
ちょっとだけふらつきながら、一人帰路をとぼとぼと歩く。安アパートが見える辺りまで来ると、背高のっぽの影があたしに向かって動き出した。
「おっせー。何で俺よりおせえんだよ。この不良中年」
そう言いながら、あたしの手からビールの詰まったコンビニ袋を取り上げる。
「うわ、まだ飲むつもりか? 仕事で何かあった、とか?」
誰の所為でやけ酒三昧を決め込んだんだっつー話な訳で。実際に子供を産んだことがないまま産めない年になってしまったコドモなあたしは、本当のコドモであるコウに八つ当たりの言葉を吐いていた。
「べっつにー。コウには関係ないでしょ。どうせもう出て行くんだから」
――どうせ、他人になっちゃうんだから。
「ちょ……っ、何だよ、やけ酒って俺の所為なのかよ」
そんな風にうろたえて、どうしていいか解らなくなるとがっつり頭を抱え込んでくれちゃうところ、あいつとそっくりそのまま、同じ。
「ったく、しょうがねえなあ」
そう言ってあたしの愚痴につき合ってくれちゃう根気強いところもそっくり。
「……コウ、今日のカラオケ、本当は彼女とだったんでしょ」
と呟く自分の声が、怖いくらい湿った粘りを伴っていた。これじゃあまるで、浮気の証拠を掴んだ本命の女が男を詰問しているみたいだ。
「お? 何でバレた?」
だけど、コウは違った。まだ未成年の癖に、勝手に人のビールを嗜みながら、平然とした顔でその事実をあっさり認めた。すっごい、むかつく。例のブツを目の前に出して説教かまして猛反対してやろうとバッグに手を伸ばしたのだけれど。
「今度ちゃんと紹介してやるよ」
向こうのばあちゃんが首を縦に振ってくれたらな、という言葉が、あたしの伸ばした手を止めた。
「向こうの、って……あんたまさか」
「うん。初給料もらえるようになったら、結婚するつもりー」
染まる頬の薄紅は、アルコールの所為ではない、と思う。
「ちょ、ば……っ、あんたいったい自分が今何歳でどういう立場だと思ってるのよ」
うろたえさせる筈のあたしの方が、コウにうろたえさせられていた。酔いもあっという間にあたしの中から吹っ飛んでいる。握り潰したビール缶が、空き缶になっていたことに感謝したのはそのあとだけれど。
「うん、俺、まだおふくろのスネかじってるただのクソガキ。コーコーセー。だからホントは大学もいいや、とか思ってたけど、あいつが学校にだけは行かせてもらえるなら行った方が絶対にいい、って」
聞けばその彼女とはあたしよりもつき合いが長いらしい。小学校の時からの幼馴染で、自分を捨てた母親のこととか、籍を入れないままコウの父親と暮らしたあたしのこととかも全部知っている子なのだと言う。
「今の真っ当な俺がいるのは、おふくろのお陰でもあるけどな。でも、あいつが『仁美おばさんはコウをお父さんの代わりじゃなくって、コウのことがホントに大事なんだよ』って叱られなかったら、俺きっとホントの母親についてってグダグダな自分になってた、と思うんだ」
そんな彼女は、暴走するコウのことも今回止めたのだそうだ。
「まだコウも自分も学生だから、親に心配掛けるだけだ」
って。
「……随分しっかりした子ね。マキちゃん? それともショウコちゃんかな」
知りうる限りのコウの女友達を挙げてみる。幼く可愛い面差しと一緒に、コウの子供時代の顔も思い出す。
まだコウが小学校低学年の頃に、あたし達は三人で暮らし始めた。ボロボロだったあいつを支えながら、コウもまとめて引き受けた。あの頃のコウは、不審に満ちた目をしてた。いつの間に、素直な目であたしを見てくれるようになったんだろう。思い出そうとしても思い出せない。
自分ひとりでコウを支えて守って来たつもりでいた。心の何処かで、いつかそれに応えてくれると勝手にエゴイスティックな期待を抱いていた。
――あの子をあの子自身として、ちゃんと一人前って認めてあげな。
留美子の忠告がリフレインする。コウは、あの人の代わりじゃないし、あたしが思うほど、もうコドモじゃ、ない。
「今は、ナイショ。おふくろが反対する理由をまだクリア出来てねえからな、俺」
悪びれないけれど、それでも後ろめたい思いはあるらしい。若い子特有の抑え切れない激情と、年にそぐわぬ大人な思考が、コウの中で喧嘩をしているように見えた。
頼っていたのは、子離れ出来ていないのは、あたしの方らしい、と認めざるを得なかった。
「コウ。同居を解消したい理由ってさ、お互いの子離れ、親離れが目的だったの?」
さっきと打って変わった柔らかな自分の声の現金さに、思わず苦笑が混じってしまった。
「あ? 親の自覚あったんだ? いきなり自立とか無理だからさ。生活費だけでも自分でどうにかするとこから始めよっかなー、とか。結構軽いか、こんな理由って」
照れ臭そうに、コウが言う。
「早く自立しないと、嫁とガキを抱えられないじゃん」
と。どさくさに紛れて二本目に手を伸ばす彼の手の甲をぴしゃりとしながら、あたしは心から思った一言を彼にはなむけとして舌に乗せた。
「いいわよ。認めてあげる、同居解消」
ただし、彼女を部屋に連れ込まないこと、という条件だけは忘れなかった。
「えー、マジ?」
心底不満そうなしかめっ面で、ありがたくなさそうな顔をする罰当たりな似非息子。そんな今のコウの中に、思い出の中にある幼くて素直なコウを見い出した。
「あったり前でしょ。まあ、そうは言っても」
コウに負けじと不遜な笑みを零してみせる。少しは親らしい自分を演じて見る。
「約束破ったら、あたしがキレる前に、彼女の方があたしに謝りに来そうな気がするから、本気で心配なんかしてないけどね」
きっと、あの子だ。話している間に思い出した。
あいつの葬儀の時、コウの傍にずっといてくれた子。少しぽっちゃりとしたまあるいほっぺの、地味だけどはっきりとした気の強い目をした女の子。名前までは知らないけれど、ずっとコウに
「仁美おばちゃんがいるから、独りじゃないよ」
と背中をさすってくれていた、あの子に違いない。
怯える目をして見上げたコウは、ビールを片づける為に立ち上がったあたしを見上げて訊いた。
「まさかさ……実はあいつ、おふくろんところに何か余計なことをチクりに来てた、とか?」
どうして怯えるのかは解らないけれど。
「そういう子じゃあないでしょ。あんたあの子の何見て来てんのよ」
思い出が教えてくれただけ、と言うと、コウは随分ほっとした顔をしていた。
「さすが変わり者親子って言われるだけあって、おふくろの感覚って、ハンパねえな」
寛大なるご理解ありがとうございます、なんて。コウは俯いて立ち上がりざまに一言呟き、あたしの手から缶ビールを取り上げた。
「今の内に親孝行しとけ、ってのも、あいつに言われるまで全然頭回らないことだったんだ」
あたしの推測は正解だったようだ。あの子のご両親は確か亡くなっていて。だから最初にコウが言った
『向こうのばあちゃん』
と言った理由も納得出来た。
空き缶を片づける、という小さな親孝行を甘んじて受け、あたしは先に風呂を使わせてもらうことにした。
「空いたわよ。掃除も宜しくっ。孝行息子ドノ」
コウの部屋の前でそう声を掛ける。向こうから聞こえる
「受験直前の息子に甘え過ぎだ」
という言葉を華麗にスルーし、あたしはあたしで自分の部屋へ逃げ込んだ。
ドレッサーに腰掛ける。目の前には、いつも必ず挨拶を交わす、あいつとコウとのスリーショットを納めたフォトスタンド。
「よく見れば、コウの方が気の弱そうな目をしてるよね」
あいつにそう呟くと、写真の中のあいつがにこりと口角をもう少しだけ上げた気がした。
「きみ以上の男はいない気がするけど。でも、前を向く努力はするよ」
コウの為に、そして何より自分の為に。
「さようなら」
あいつに告げたそれは、決して悲しい音色ではなく。
少しくたびれた肌に、いつもより少しだけ贅沢に美容液をすり込んだ。