波及
翌朝。
通知は、止まっていなかった。
零はベッドの上で目を覚ます。
カーテンの隙間から光。
現実は静かだ。
だが端末の画面は赤く染まっている。
未読メッセージ、数百。
DM。
タグ。
切り抜き動画。
昨夜の配信は既に拡散されていた。
《観測者が観測される瞬間》
《神回》
《あの笑い方やばい》
零は再生しない。
代わりに、ひとつの通知が目に入る。
――母。
着信履歴。
三回。
メッセージ。
『昨日、ちゃんと寝た?』
零は一瞬だけ躊躇する。
既読をつける。
返信はしない。
立ち上がり、洗面所へ向かう。
鏡。
自分の顔。
問題はない。
自然な表情。
瞬きをする。
背後は、何も映らない。
「……大丈夫」
独り言。
その瞬間。
スマートフォンが震える。
着信。
母から。
零は出る。
「もしもし」
『あんた、昨日泣いてたの?』
心臓が止まりかける。
「……何で」
『配信、見たのよ。』
零の呼吸が浅くなる。
「見なくていいって言っただろ」
『だって、すごい人数が見てるって聞いたから』
母の声は、いつも通りだ。
だが、どこか揺れている。
『あんた、笑いながら泣いてた。あれ、本当に大丈夫なの?』
零は黙る。
観測。
家族。
外の世界。
もう切り離せない。
「演出だよ」
嘘。
沈黙。
電話の向こうで、テレビの音がする。
ニュース番組。
司会者の声。
『昨夜、配信サイト上で不可解な映像が拡散され――』
零は凍る。
『専門家は「集団心理による錯覚の可能性」と――』
母が言う。
『あんたのこと、言ってる?』
「違う」
即答。
だが、画面には自分の顔のサムネイル。
目元のアップ。
笑いながら泣く男。
テロップ。
【観測配信の異常現象】
『零』
母の声が、低くなる。
『やめなさい』
その一言。
強い断定。
零の胸が締まる。
「やめない」
言い返す。
『危ない』
単語。
その瞬間。
部屋の電気が、チカ、と瞬く。
零は天井を見る。
蛍光灯が揺れている。
『ほら』
母の声が震える。
『危ないって、みんな言ってる』
零は息を止める。
「みんな?」
『コメント。今も流れてる』
母は、配信のアーカイブを再生している。
コメント欄を見ている。
“危ない”
“やめろ”
“死ぬぞ”
断定が、今この瞬間も揃っている。
零の部屋の壁に、細いヒビが入る。
ぱき。
音。
「見るな」
『え?』
「コメントを見るな!」
叫ぶ。
沈黙。
母の呼吸。
『零、後ろ――』
零は振り返る。
クローゼットの扉が、わずかに開いている。
暗い隙間。
黒。
『そこ、何かいる』
母の声が震える。
零はゆっくり近づく。
「いない」
自分で断定する。
「何もいない」
手を伸ばす。
扉に触れる。
『いる』
母が強く言う。
『黒いのが』
その瞬間。
隙間が広がる。
内側の闇が、濃くなる。
電話の向こうで、母が息を呑む。
『目――』
「言うな!」
零は扉を強く閉める。
バン。
静止。
呼吸だけが響く。
数秒。
何も起きない。
零はゆっくり言う。
「いない」
繰り返す。
「何もいない」
母は沈黙。
やがて、かすれた声。
『……閉まってる』
零の手は震えている。
『零』
「何」
『今、あんたの後ろに』
心臓が跳ねる。
『私が映ってる』
凍りつく。
「……何言ってる」
『鏡』
洗面所の鏡。
零はゆっくり顔を上げる。
鏡の中。
自分。
そして、その背後。
――母。
立っている。
無表情。
電話口にいるはずの存在が。
「……違う」
零は振り返る。
誰もいない。
だが鏡には、いる。
『零』
鏡の中の母が、口を動かす。
電話口の声と、ずれる。
『やめなさい』
同じ言葉。
強い断定。
“やめなさい”。
コメント欄でも、その単語が増えている。
《やめろ》 《やめなさい》 《終われ》
揃う。
零の視界が歪む。
床が軋む。
天井にヒビ。
世界が、収縮する。
「……揃えるな」
絞り出す。
だが母は言う。
『危ないから』
泣き声。
その“本気”が、単語を強化する。
観測は、血縁も区別しない。
零は鏡に近づく。
「母さんは、そこにいない」
ゆっくり。
「電話の向こうにいる」
鏡の中の母が、歪む。
『零』
「そこにいるのは、影だ」
断定。
数秒の拮抗。
鏡の中の母の輪郭が揺れる。
電話口で、母が言う。
『……零?』
声が、普通に戻る。
『今、何か言った?』
鏡を見る。
自分だけ。
背後は空白。
ヒビも消えている。
クローゼットは閉じたまま。
零は膝から崩れる。
「……見るな」
低く言う。
「もう、配信もコメントも見るな」
沈黙。
『あんた、やめるの?』
問い。
零は目を閉じる。
頭の中で、単語が渦巻く。
危ない。
やめろ。
面白い。
神回。
揃えば、形になる。
母が小さく言う。
『零、怖い』
その本音が、一番強い。
零は天井を見上げる。
「……俺もだよ」
正直な言葉。
その瞬間、部屋は何も変わらない。
揃わない。
本音は、断定にならない。
電話が切れる。
静寂。
零はゆっくり立ち上がる。
スマートフォンを握る。
通知。
《今夜もやる?》
《続き待ってる》
《母親映ったの演出?》
零は画面を見つめる。
自分の選択で、波及は止まるのか。
それとも――もう、広がりきっているのか。
新しい通知。
差出人:不明。
『あなたの配信、見ています。』
『次は、もっと大きく揃えましょう。』
零の喉が鳴る。
観測は、視聴者だけじゃない。
“揃える側”が、他にもいる。
零はカメラを起動する。
無意識。
自分で止められない。
赤い点が灯る。
配信開始。
「……今日は、短くやる」
低い声。
同接が跳ね上がる。
「俺の部屋は」
間。
「安全だ」
断定。
《安全》 《安全》 《大丈夫》
揃う。
部屋は静かなまま。
零は続ける。
「家族には、波及しない」
強く。
《しない》 《大丈夫》 《巻き込まない》
揃う。
今のところ、何も起きない。
零は画面の向こうを見つめる。
「次に揃えるのは」
ゆっくり。
「俺が決める」
カメラの向こう。
数万の視線。
綱引きは、次の段階へ。
そして視聴者の中に、確実に生まれ始めている。
――“揃えたい”という衝動が。




