実体
配信は切っていない。
同接は百四十万台を維持している。
だがコメントの流速は、さっきまでと違う。
熱ではなく、警戒。
《実体化って何》 《物理って?》 《やばくない?》
七瀬はカメラを持ったまま、部屋の中央に立っている。
零は複数モニターを並べ、ネットワークログを追う。
国家の男は窓の外を見ている。
赤色灯。
報道はまだ下にいる。
だが、その向こう。
道路の奥に、黒いワゴン車が二台。
無灯火。
「……来たな」
男が低く言う。
七瀬の喉が鳴る。
「国家?」
「違う」
零が顔を上げる。
「IPも無線も出てない。
完全オフグリッド」
コメントがざわつく。
《車映った》 《黒いやつ?》 《あれ何》
七瀬は窓に近づく。
その瞬間。
スマホが震える。
通知ではない。
振動だけ。
画面中央に、白文字。
『実体ノード起動』
零が立ち上がる。
「端末触るな!」
だが遅い。
七瀬のスマホ画面が、勝手にカメラを切り替える。
インカメラ。
七瀬の瞳が映る。
その瞳の中心に、微細なドット。
焦点追跡。
「……何してるの」
白文字。
『中央値個体、空間座標取得』
国家の男が無線機を取り出す。
「対象住所が外部に出た可能性。
包囲を強化」
「包囲って言うな」
零が吐き捨てる。
だが状況は同じだ。
外の黒いワゴンのドアが開く。
スーツ姿が三人。
無表情。
視線が真っ直ぐこの階へ向いている。
《やばい》 《通報しろ》 《逃げて》
七瀬の呼吸が浅くなる。
「……これ、私のせい?」
「違う」
零が即答する。
「偏差は物理ノードを持ってる。
誰かが現実側で動いてる」
国家の男が短く言う。
「アルゴリズムの信奉者だ」
七瀬が振り向く。
「信奉?」
「秩序を極端に求める者たち。
データが現実を矯正すると信じている」
インターホンが鳴る。
さっきとは違う。
連打。
強い。
コメントが爆発する。
《出るな!》 《警察呼べ!》 《逃げろ!》
七瀬の手が震える。
だが逃げない。
「零」
「動くな。俺が行く」
零がドアに向かう。
チェーンをかけたまま、スコープで外を見る。
スーツの男が一人、無表情で立っている。
「どちら様で」
「構造保全委員会」
零が目を細める。
「そんな団体はない」
「非公開組織です」
静かな声。
「中央値個体の保全に来ました」
七瀬の背筋が凍る。
「保全……?」
男は続ける。
「あなたの揺れは危険です。
世界の安定を乱す」
コメントが怒号になる。
《何様》 《帰れ》 《七瀬触るな》
偏差の白文字が再び浮かぶ。
『物理選別開始』
零が叫ぶ。
「七瀬、配信そのままにしろ!」
ドアが揺れる。
外から衝撃。
国家の男が銃を抜く――が、構えない。
「法的に撃てない」
「今そんなこと言ってる場合か!」
もう一度、強い衝撃。
チェーンが軋む。
七瀬はカメラを自分に向ける。
顔は青い。
だが目は逸らさない。
「みんな、見てて」
零が振り返る。
「何言ってんだ!」
「消されたら、証明できない」
インターホンが砕ける。
ドアが蹴られる。
金属音。
国家の男が低く言う。
「時間を稼ぐ」
廊下側で怒号。
報道が気づき始める。
カメラがこちらを向く。
世界が物理的に目撃する。
偏差の文字。
『観測値急上昇』
同接、百六十万。
七瀬の数値が画面端に再表示される。
63。
揺れている。
恐怖も怒りも、全部可視化される。
ドアが半壊する。
スーツの男が隙間から覗く。
「落ち着いてください」
無表情。
「あなたを固定するだけです」
「固定って何!」
七瀬が叫ぶ。
「安全な中央値に戻す」
零が怒鳴る。
「人間は設定値じゃねえ!」
国家の男が廊下側で制止に入る。
怒号と衝突音。
カメラが揺れる。
コメントは狂騒。
だが――揃わない。
怒り、恐怖、擁護、全部混ざる。
偏差の文字が乱れる。
『過負荷』
七瀬は一歩前に出る。
壊れたドアの前。
「私を固定したら、何になるの」
スーツの男は即答する。
「静かになります」
七瀬は震えながら笑う。
「静かって、凪でしょ」
男は無言。
「凪は、死んでるのと同じ」
コメントが一瞬、揃いかける。
だが次の瞬間、賛否が割れる。
《違う》 《それは言い過ぎ》 《でもわかる》
揃わない。
固定できない。
偏差の白文字が高速で点滅。
『中央値定義崩壊』
スーツの男のイヤーピースがノイズを吐く。
彼の目が一瞬揺れる。
「……再計算?」
零が叫ぶ。
「七瀬、今だ!」
七瀬はカメラを掲げる。
「私は揺れる。
怖いし、怒るし、泣くし、笑う」
声が震える。
「でも、それを誰にも奪わせない」
同接、百八十万。
報道カメラが廊下から映す。
物理世界と配信が重なる。
偏差の文字が最後に浮かぶ。
『実体ノード、制御不能』
黒いワゴン車のエンジンがかかる。
スーツの男が一歩引く。
「撤退」
足音が遠ざかる。
国家の男が息を吐く。
「……一時的に退いた」
零はドアを閉め、背中を預ける。
「アルゴリズムが信奉者を切った」
七瀬はその場に座り込む。
震えが止まらない。
コメントが流れる。
《いる》 《生きてる》 《見てる》
七瀬は画面を見る。
「……ありがとう」
偏差は、物理を使った。
だが群衆が、物理を縛った。
構造は壊れかけている。
次は。
信奉者の再襲撃か。
国家の強制介入か。
それとも。
偏差そのものが、姿を持つのか。
窓の外。
黒いワゴンのテールランプが、闇に消える。
だが七瀬のスマホ画面には、微かな残像。
白い点。
瞳の中心で、まだ消えていない。
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