炎上した元トップ配信者
水滴の音が、一定の間隔で落ちている。
ぽたり。
……ぽたり。
ライトの円は狭い。濡れた石壁だけを照らし、その外側は完全な闇だ。
湿った空気が肺に重く沈む。鉄と苔の匂いが混じっている。
足音がひとつ。
黒いブーツが浅い水たまりを踏む。波紋が広がり、光を歪ませる。
無音。
それから、低い声が落ちた。
「……聞こえてる?」
間。
暗闇は答えない。
「三年ぶりだから、音ズレしてたら教えて」
穏やかな声。焦りも高揚もない。
視界の右端に、文字が浮かび始める。
《きた》
《マジで始めた》
《生きてたのかよ》
《おい本物だぞ》
コメントの流れはまだ遅い。数秒に一行。
零は歩き出す。
カメラが揺れる。足元、壁、天井。配信特有の微かなノイズが混じる。
「深層には行かない。今日は浅いところで確認だけ」
《確認って何》
《また検証?》
《やめとけ》
《事故忘れたのか》
その言葉で、コメントの流れが一瞬詰まる。
零は何も返さない。
ただ、呼吸が少しだけ深くなる。
通路が分岐する。
左右に伸びる石の道。
右は乾いている。
左は水が溜まり、反射で奥が見えない。
ライトが右を照らす。
何もない。
《右だろ》
《右安定》
《左はやばい》
ライトが左へ。
水面が揺れ、光が散る。
《左罠》
《右一択》
《右だって》
断定が増える。
零は立ち止まる。
コメントの速度が、わずかに上がる。
《何止まってんの》
《ビビってる?》
《右行けって》
「……断定、多いね」
ぽつりと落とす。
《は?》
《普通だろ》
《何が?》
零は、ゆっくり左へ踏み出した。
《え》
《は?》
《左行くな》
水音。
数歩進むと、壁に突き当たる。
行き止まり。
《ほらな》
《時間の無駄》
《だから言ったろ》
零は壁を照らす。
光の円が石肌をなぞる。
手袋越しに、指先が触れる。
「……行き止まり、のはず」
石の感触に、わずかな違和感。
縦に、細い線。
継ぎ目。
コメントの流れが止まる。
《何見てる》
《バグ?》
《前からあった?》
零は少しだけ息を吸う。
「開かない、と思うけど」
“思う”。
柔らかい語尾。
沈黙。
次の瞬間。
ゴ、と低い音。
石壁が、横に沈む。
《え?》
《今動いた》
《は??》
壁がスライドし、暗い空間が現れる。
階段。
下へ続く石段。
《浅層に階段なんてあったか?》
《仕様変更?》
《偶然だろ》
コメント速度が倍になる。
零は動かない。
ただ階段を見つめる。
「……浅層、だよね」
《知らん》
《降りるな》
《戻れ》
零は一歩、踏み出す。
階段を下る音。
足音が反響する。
《またやる気か》
《三年前忘れた?》
《今何人見てる?》
「同接、いくつ?」
《四千》
《五千超えた》
《増えてる》
零は小さく笑う。
「早いね」
階段は思ったより長い。
ライトの光が途中で飲み込まれる。
下層に着く。
床は乾いている。
中央に、黒い円。
直径一メートルほど。
塗りつぶしたような黒。
光を反射しない。
《何あれ》
《前なかった》
《見たことない》
零は近づく。
息が、ほんの少しだけ浅くなる。
「……違和感あった人いる?」
《ない》
《ある》
《わからん》
《黒すぎる》
コメントが割れる。
黒い円の縁が、かすかに波打つ。
脈のように。
《動いた?》
《気のせい》
《いや動いた》
零は黙る。
十秒。
コメントの流れが加速する。
《近づくな》
《触るな》
《また事故る》
“事故”の文字が増える。
零の視線が、わずかに揺れる。
三年前。
叫び声。
ノイズ。
画面の向こうの悲鳴。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
「……今日は」
声が、わずかに低くなる。
「確率を確認するだけ」
《やめろ》
《実験かよ》
《人で遊ぶな》
黒い円が、ゆっくりと開く。
瞼のように。
内側から、白い膜。
中央に、暗い点。
《目だ》
《目だろそれ》
《見られてる》
断定が揃う。
目。
目。
目。
コメント欄が同じ単語で埋まる。
零は、かすかに頷く。
「……揃ったね」
その瞬間。
黒い円が、完全に開く。
巨大な瞳。
こちらを見る。
カメラ越しに。
視聴者の向こう側を。
《うわ》
《やばい》
《切れ切れ切れ》
ノイズが走る。
画面が歪む。
同接が一気に跳ね上がる。
《一万》
《一万二千》
《増えすぎ》
瞳孔が、ゆっくりと収縮する。
零を、捉える。
そして。
カメラの奥を。
まるで、視聴者一人ひとりを見るように。
《見られてる》
《俺ら見られてる?》
《冗談だろ》
零は、目を逸らさない。
静かに言う。
「……観測、成立」
低い声。
その瞬間。
瞳が瞬きをする。
画面が真っ黒になる。
絶叫のようなノイズ。
《うわあああ》
《切れた?》
《音やば》
映像が戻る。
瞳は消えている。
黒い円もない。
ただの石床。
零の荒い呼吸だけが響く。
《今の何》
《演出?》
《CG?》
《やばすぎ》
零は、ゆっくり息を整える。
「……確認できた」
静かな声。
「空気が揃うと、形になる」
《何言ってんだ》
《意味わからん》
《説明しろ》
零はカメラを少しだけ上げる。
闇を映す。
「今日はここまで」
《逃げるな》
《続けろ》
《またやれ》
零は一瞬、黙る。
そして、柔らかく言う。
「大丈夫」
その言葉で、コメントが止まる。
三年前と同じ響き。
「今日は、誰も死なない」
断定ではない。
約束でもない。
ただの報告。
だが――
同接は、まだ増えている。
《一万五千》
《止まらん》
《トレンド入った》
零は小さく息を吐く。
そして、最後にこう言う。
「……じゃあ、次は条件を変えよう」
暗転。




