隊長、そして師
しかし、その僅かに芽生えた希望は、すぐさま絶望へと変わった。見覚えのある漆黒の鎧が弓を携えて兵舎の中から出てきたのだ。
(これまでか……!)
思わず走る速度を緩めたリグルドは、再び背後を見た。長剣を手にしたパラギア兵が後ろに迫っている。
リグルドは一瞬の逡巡の末、兵舎へ向き直って、加速した。2騎の騎兵を相手にするのはあまりにも分が悪いと思ったからだ。しかし眼前の兵舎の弓兵は、既に弓を引き絞っている。その矢先は、確実にリグルドの方向を向いていた。
矢が放たれた、そう思った瞬間にリグルドは咄嗟に両手で頭を抱えて息を止め、雨に濡れて泥のようになった地面に身を投げ出した。
最高速度で激しく転がり、身体の至る所をしたたかに打ち付けて、食いしばった歯の隙間から空気が押し出される。どちらが天か地か分からなくなるくらいに転がって、ようやく回転は止まった。泥だらけになったリグルドは転倒の痛みで、苦しそうに大きく息を吐く。全身が鈍く痛い。手をどかして目を開けると、眼前に地面があった。
リグルドは、荒々しく呼吸を再開した。幸いにも矢を受けたような痛みは無かった。
(走らなくては……)
地面に手をついて立ち上がろうとした直後、何かがぬかるんだ地面に落ちる大きな音、そして金属を打ち付ける音がした。リグルドは覚束ない頭で、反射的に音のした方を見た。そこには、主人を失って立ち尽くす一頭の馬と、落馬したパラギア兵の姿があった。もう一騎は、少し離れたところで馬を止め、こちらの方を見ている。
どうして、と言葉が自然と口をついて出た。リグルドは、地面を転がったばかりの興奮状態で、兵舎の入口のパラギア兵を見た。その兵士は構えていた弓を下ろして、兜を取り外して近づいてきた。
「よお。無事かよ?」
呑気な声で問いかけた漆黒の鎧の主を見て、呆然とする。よく見知った顔だった。くしゃくしゃの髪の毛に、伸ばし放題の無精髭、顔貌だけ見ればおよそ兵士と思えないその男は、いつものようにニヤニヤと笑みを浮かべている。
「どうして、あなたが?」
地面に座り込んだまま、リグルドは荒々しい呼吸で言った。
「びっくりしたろ?この黒鎧、兵舎で寝てたら急に襲ってきやがった。ちょうど目が覚めたから良かったがよ、お返しに身ぐるみ剥いでやった。こんなナリだが、案外着心地が良い。しかしまあ、兵舎には誰もいねえし、なんだよこの鎧は?知らねえかよ、リグルド」
みすぼらしい顔をした男ーー、第一兵団マイアー隊の隊長、マイアー・カンパネルラは黄ばんだ歯をのぞかせながら、悪戯っぽく笑った。
「はは……似合ってますよ、それ」
見慣れた顔を見て、リグルドは先ほどまでの緊張が安らいでいくのを感じた。マイアーは、そうだろう、と嬉しそうに呟いたが、すぐさま見たことも無いような鋭い目つきで、もう一騎のパラギア兵の方を睨みつけた。
「で、あちらさんは?」
残ったパラギア兵は騎乗したまま、落馬した兵士とリグルド達の方を交互に見ている。落馬した兵士は、その四肢をだらしなく地面に放り投げていた。放たれた矢は、漆黒の鎧の胸元に突き刺さっていた。
「合同訓練に来ていたパラギア兵です。私がパラギアの副隊長と模擬戦をしたのですが、その直後、パラギア軍が我が軍に攻撃を仕掛けてきました。……ゴードン総隊長は、相手の不意打ちを受け、討ち死にされました」
「……間違いないのか」
マイアーの飄々とした表情は、つい先ほどとは打って変わって、驚愕のために色を失っていた。リグルドは、これほどまでに真剣なマイアーの顔を初めてだと、相手の問いかけも忘れて間の抜けたことを思った。
「リグルド?」
「え、ええ。私の目の前で、……首を」
口にすると同時に、あの時の光景が生々しく蘇る。真っ赤な鮮血、降りかかる血しぶき。足元に転がるゴードン、朱に染まる白髭、光を失った瞳ーー。
「ぅぐっ」
今まで堪えていたものを、リグルドは地面に伏して全てを吐き出してしまった。吐瀉物が鼻腔と口腔を逆流し、鼻奥につんとした痛みと異物感がする。自然と鼻水と涙が出てきて、口の中には不愉快な酸味が残った。気が付くと、伏せた頭にマイアーの掌の温かい体温を感じた。凍てつく冬の雨に冷え切った身体に、それは殊更に温かく感じられて、リグルドは安堵した心地がした。マイアーの掌はそのまま、雨に濡れたリグルドの赤毛をくしゃくしゃにする。
「……災難だったな」
「いえ、大丈夫です。それより――隊長ッ! 後ろ!」
リグルドが顔を上げたとき、マイアーの背後に、残る一騎のパラギア騎兵が迫って来ていた。マイアーはリグルドが言い切るのが早いか、振り向きざまに構えた弓に矢を番え、撃ち放った。流れるような速射にもかかわらず、その矢は正確に騎兵に向かって飛んでいった。
ぶん、と敵騎兵は己の眼前を、長剣で一振りした。金属と金属がぶつかり合う音がした、と思った直後、リグルドは腹部に強い衝撃を受けて、数メートル吹き飛んで泥の地面を転がった。まともに呼吸が出来ず、身体がバラバラになりそうな鈍痛に耐えてなんとか顔を上げて、状況を把握しようとする。
マイアーに腹部の鎧を蹴られたのだと分かった。顔を上げたリグルドが目にしたのは、先ほどまでリグルドとマイアーが居た場所を勢いよく駆け抜けていく騎兵の姿だった。騎兵の向こう側に、同じように地面に膝をついているマイアーの姿が見えた。
(な、なにが)
リグルドは一瞬の出来事に困惑していた。しかし、騎兵が傷一つない事から察するに、マイアーの矢は避けられたのか、外れたのか、あるいはーー長剣で弾かれてしまったのか。先ほど聞いた音が矢じりと長剣が衝突した音だとすれば、合点がいく。マイアーの蹴りが無ければ、突進してきた騎兵の長剣が、自らの首をはねていたに違いない。リグルドは全身が粟立つのを感じた。
(これが、パラギアの”黒い雨”……)
騎乗した不安定な状態に、降雨による不明瞭な視界。対決はマイアーに分があったはずだ。そのはずが、至近距離からの射撃がこうも容易く防がれてしまったのは、おそらく偶然ではない。副隊長であるマルルカもさることながら、雑兵であっても熟達した剣技を有していることの証明に他ならない。
「余裕がねえ、手荒だが赦せ! リグルド。お前は王城へ向かって、近衛兵団長に報告しろ!」
立ち上がったマイアーは、そう怒鳴って再び、弓を構えて騎兵の馬を目掛け矢を放った。騎兵相手にはまず、機動力を奪うことが先決だと考えたマイアーだったが、馬を狙った矢は、騎兵の長剣によって易々と叩き落されてしまった。
「ちっ! おめえは大道芸人かよぉ、クソッ!」
再び、マイアーは矢を番えて、連続で矢を放った。馬の足元へと飛んだ矢は、やはり騎兵によって全て叩き落されてしまった。実戦経験の少ないリグルドから見ても、もはやこの騎兵相手に弓矢といった飛び道具が通用しないことは明白だった。
「マイアー隊長!俺も戦います!」
リグルドは、マイアーと共に戦いたかった。マイアーのことが心配だったし、そして何をするにしても、一人での行動は心細かった。
「命令だ!いいから行け!」
「でも」
「早くしろ!!」
「は、はいっ」
マイアーの剣幕に押され、リグルドは、敵に背を向けて王城に向けて走り出した。
追いかけられはしないかと、ちらりと、後ろを振り返る。残されたマイアーと騎兵は、互いに睨みあっていた。ちょうど、マイアーが弓を構えたところだった。騎兵はそれを迎え打とうと、身構えている。こちらを追ってくる様子はなかった。
再び、正面に向き直る。リグルドは祈る気持ちで、王城へひた走った。