殲滅戦
血と雨と大地の臭いがする。
血だらけでうつ伏せになっているリグルドは、アドラルドの冬の冷たい雨に打たれながら、そう思った。地面を忙しなく踏みしめる音に交じって、金属同士が激しくぶつかり合う戦闘の音や、怒号、絶叫が飛び交っている。
うつ伏せの姿勢のまま、視線を前方に向けた。兵士が倒れている。リグルドは、その兵士がパラギア兵の包囲から抜け出そうと正面から向かって行ったのを見ていた。そして、敵兵の第一標的となった兵士は、漆黒の鎧たちの数多の剣戟をその身に受け、絶命した。もしアドラルド兵の集団から我先にと飛び出したのが自分だったら、あそこで倒れているのはこの身だったかもしれないと思ったとき、咄嗟に目を背けてしまった。
逸らした視線は、今度は横に倒れている兵士の目と交錯した。閉じかけの瞼の奥にある瞳は虚ろで、血と泥に汚れた顔は苦痛に歪んでいる。リグルドは再びこみ上げてくるものを必死で堪え、きつく目を瞑って歯を食いしばった。
死んでいる。近くの兵士だけではない、すでに多くのアドラルド兵が命を失っている。実戦経験のないリグルドは、目の前で人がまさに死ぬところを、既に死んでいるところを見たのは、これが初めてだった。悲しさ、悔しさ、恐怖、絶望、自己無力感、あらゆる感情が濁流のように胸の奥を蠢いて、今にも何でもいいから喚き散らしたくなる。その感情の坩堝は同時に、自分がまだ生きていることを実感させた。
(……奴らはなぜ、アドラルド兵を攻撃した?)
同盟国ではなかったのか。まさか、副隊長が俺と引き分けた腹いせに、目撃者を全員抹殺――などということは。いや、彼らは初めから、これを狙っていたのではないか。彼らはこのために、到着直後などという体裁で武装していたに違いない。合同訓練に乗じ、訓練装備でろくな抵抗の出来ないアドラルド兵を制圧するために。
そこまで考えて、リグルドは、頭を強打されたような衝撃とともに、一つの結論に至った。
(兵だけのはずがない。兵を攻撃する目的は……国だ。奴らはこの国を制圧するつもりなんだ)
小手を失っている両手は寒さでかじかんできた。しかし、温めようと身体を動かせば、パラギア兵に見つかってしまうかもしれない。今はただ、倒れた振りをして奴らが遠のいていくのを待つしかない。
すると近くで、金属同士がぶつかり合う音がして、リグルドは息を呑んだ。目をゆっくり薄く開いて、音のした方を見る。足側の方向に居る漆黒の鎧のパラギア兵が、長剣で死体を何度も突き刺していた。ひとしきり刺した後、近くの死体を手あたり次第、長剣で突き刺し始めた。兵士はその行為を繰り返しながら、徐々にこちらに近づいているようだった。
リグルドは、かあっと顔が熱くなるのを感じ、固く目を瞑った。それは迫りくる危機への焦りであり、また自軍の兵士が死してなお、無用に痛めつけられ、愚弄されていると思ったからであった。
軍隊にも、同軍の兵士にも何の思い入れも無かったはずだった。だが、こうした極限の状態で、どこかで剣を合わせたかもしれない、どこかで顔を突き合わせて食事をしていたかもしれない、そんな身近に感じられる存在の命が軽々しくも失われていく様に、胸を締め付けられるようなただならぬ苦しさを感じていた。苦しみを解くために、兵士の雪辱を果たすだけの力が自分には無いことも。
(許してくれ)
リグルドは唇だけを小さく、そう動かした。逃げることしかできない自分が、酷く恨めしい。再び、目をゆっくりと薄めに開くと、漆黒の鎧はやはり、少しずつ近づいて来ていた。リグルドはパラギア兵士を視界に収めながら、その兵士の来る方向とは反対の方向に匍匐前進を始めた。進行方向にはパラギア兵は居ない。
鎧を着たままでの匍匐前進は、かなりゆっくりとしたものだった。動きが制限されているためもあるが、激しく動いてしまえばその分、大きな音が出てしまう。
幸いにも、降り出した雨がリグルドの動きを隠蔽してくれていた。リグルドがしばらく前進し、パラギア兵に真っ先にやられたアドラルド兵の死体に辿り着こうかという時だった。黒い何かが、兵士の上で素早く上下しているのに気が付いた。
カラスだった。カラスが、無抵抗の兵士の死肉を啄んでいる。くちばしは赤く汚れ、その先端は兵士のものと思われる赤い繊維のようなものを摘まんでいる。
それがカラスだと気が付いたとき、リグルドはカラスと目が合った。雨に濡れた身体から急激に体温が失われていくような感覚がして、どうかそのまま食事を続けてくれと、リグルドは祈った。野垂れ死んだ獣の如く、弔われることも無く鳥獣の餌となっている兵士への憐みなど、微塵もない。
数秒なのか、数十秒だったのか、リグルドにとっては酷く長い時間に感じられた無言の応酬は、リグルドの祈りも虚しく、突如終わりを告げた。カラスは大きな鳴き声を挙げながら上空へ飛び立っていってしまった。
リグルドは高まる鼓動を落ち着けるため、長くゆっくりと深呼吸しながら、出来るだけ首を動かさないように後方のパラギア兵を見た。
兜で見えないはずのパラギア兵と、視線が合った気がした。死体を突き刺すのをやめたパラギア兵は、ゆっくりとこちらに向かって、歩みを進めている。リグルドは判断を迫られた。相手が気付いていないことを祈って、ここで倒れた振りをするのか、あるいは――。
リグルドは迷うことなく、素早い動作で足の防具を取り外し、起き上がって全速力で駆け出した。
防具はこの先、役に立つかもしれず惜しいと思ったが、敵に追いつかれてしまえばおしまいだ。だが反対に、追いつかれなければ生存の可能性はある。今を生きること、そのことに全てを賭けた逃走だった。背後からは、雨音に交じって何やら大きな声が聞こえ、リグルドは速度を維持したまま急いで振り返った。そしてすぐさま、振り返ったことを後悔して正面に向き直り、遮二無二に走った。彼が見たのは、馬に騎乗して向かってくる二人のパラギア兵だった。
リグルドの目の前には兵舎が見えていた。兵舎へ逃げ込めば、勝機が掴めるかもしれない。兵舎には武器が豊富にあるし、騎馬兵を下馬させたうえで、狭所での戦いに持ち込むこともできる。
しかし、その僅かに芽生えた希望は、すぐさま絶望へと変わった。見覚えのある漆黒の鎧が弓を携えて兵舎の中から出てきたのだ。