戦場を濡らす黒い雨
「……投げたのですね。訓練刀を」
マルルカは片膝をつき、訓練刀を見つめたまま言った。今、その顔からは笑みが消えていた。
「最終手段でした。手を使った砂塵の投擲も兜の投擲も効果が無かったのは音でわかりましたから、訓練刀を躱されていたら、私の負けでした」
「何故私が、これを叩き落とすと?」
「叩き落としてもらえるように仕向けただけです。確証はなかったですが、目線を上方に誘導したうえで、目線の真正面から平たい訓練刀が飛んでくれば、金属片と勘違いをしてくださるかなと」
それだけではない。マルルカは気づいていた。
足音の偽装は、接近による警戒心を抱かせる効果も担っていた。敵の接近を待ち構えて、さらに意表を突かれた自分には、僅かではあるが隙があった。その隙は、訓練刀を確実に狙いへ投擲するための接近も可能にしたはずだ。本人の理解すら及んでいないようだが、無意識に動いたのだとすれば、驚くべき実戦的才覚といえる。
マルルカは、腹の奥底からせり上がる興奮が表情に出て来ないように、手で口元を覆った。心臓の脈動を、血液の流動を感じる。顔がみるみる熱を帯びていくのが分かる。
——これだから戦いは止められないのだ。それが命の奪い合いであれば、尚のこと。
「ところでゴードン隊長。これは……両者武器喪失による引き分け、とはなりませんか」
マルルカをよそに、リグルドはゴードンに近づき、進言した。ゴードンはしばし唖然としていたが、事態を理解すると、皺くちゃの日に焼けた浅黒い顔がみるみる赤くなった。
「たわけ!戦場で自ら武器を捨てるものがあるか!お前の負けに決まっとるわ!」
「勝負に勝っても戦に負ければ、それは負けです。最終的な勝利条件に向け、策を練るのが兵士ではないでしょうか」
「あっははは!」
二人の言い合いは、爆発したような哄笑に掻き消された。マルルカは、片膝をついた姿勢のまま、訓練刀を手にして堪えきれず笑っていた。
ゴードンが、ぴくりと身体を震わす。
「マルルカ副隊長殿。我が兵士がとんだご無礼を……!こやつには懲罰を……!」
「それには及びません」
訓練刀を手に、マルルカは、リグルドとゴードンのもとへゆっくりと近づいていった。彼女には、穏やかな顔が戻っている。
だがリグルドは、その顔に言い知れぬ嫌悪と恐れを感じて思わず一歩、後ずさった。マルルカの顔を見た途端、本能から背筋が粟立ったのだ。彼女の表情は、模擬戦の最中に目にした狂気的な表情と変わらない。口元だけに笑顔を張り付けて、心ではちっとも笑ってなどいない……そんな顔だ。
「少年。君、名前は何と?」
マルルカは、リグルドの方を向いて優しい声で問うた。
「はっ!第一兵団所属、マイアー隊のリグルド・フォーレンスであります」
「……そう。リグルド、思いのほか楽しませてもらいました。君のような兵士ばかりだとすれば、アドラルド軍のみなさんは思いのほか、手強いかもしれませんね。これからが楽しみです」
ふふっ、と口元に手を当ててマルルカは笑った。本当に楽しみだと言わんばかりの笑顔で。
「はっ!光栄であります」
「マルルカ殿。このリグルドのような破廉恥は我が兵には二人とおりませぬ」
「ならば安心です。勝つために手段を選ばない。彼の心意気は私たちと、よく似ていますから。それが……最も恐ろしい」
一瞬だった。
次の瞬間には、世界が真っ赤に染まっていた。
リグルドがそれを血液であると気づいたのは、そばにいたゴードンが膝をつき、地面に倒れ伏したからだった。だがそれはゴードンなのだろうか。あるはずのところに、あるものがなかった。赤と白の断面からどくどくと流れ出る赤黒い液体。
不意に、リグルドの足先に何かがこつんと当たった。リグルドは足元に視線を移す。ゴードンだった。白いたっぷりの髭は、血を吸ってところどころ赤く染まっている。先ほどと変わらず浅黒いままの顔で、皺だらけの重い瞼の奥から生気のない瞳が、忌々しそうにこちらを睨んでいた。
「訓練刀でも、意外とよく斬れますね」
マルルカは、血の滴る訓練刀を素振りして、刀身の血を払い落とした。絹の様に白い顔に飛んだ血しぶきは、雨粒と混ざって彼女の顎先からぽたぽたと流れ落ちていく。上気した頬は白い肌によく映え、官能的にすら見える。
身体は、即座に動いた。リグルドは口にせり上がってこようとするものを必死でこらえ、周囲を取り囲んでいた兵士たちの集団に一目散に飛び込んだ。
「……一人残らずアドラルド兵を捕まえなさい!抵抗すれば、殺していいです。いえ……抵抗しなくても、殺していいですよ?」
リグルドは、状況の分かっていないアドラルド兵の集団を必死で押しのけながら、マルルカの心底楽しそうな号令を背後に聴いた。直後、大きな号砲が二度、鳴り響く。
リグルドの目はアドラルド兵の集団を取り囲むようにして迫ってくる、漆黒の兵士たちを視界に捉えていた。