模擬戦:副隊長マルルカ・セントフォード
押し殺した溜息を一度に全て吐き出したら、嵐が巻き起こる気がする。訳の分からない事態に、リグルドはうんざりとし、吐き気すら催していた。
充分な間合いを空けて、リグルドはマルルカと対面する。二人の周囲の兵士たちは、この余興がいかにも楽しみなようで、下卑た笑みを浮かべて取り囲んでいる。
リグルドはこの場をやりすごす方便を十四通りほど考えてみた。だがゴードンまでもが仕切り役として二人の間に立ち、恥だけはかかせてくれるなよと言わんばかりにこちらを睨みつけた時、すべてを諦めた。
リグルドは正面に立つマルルカをそれとなく観察した。眼前のマルルカは近くで見ると、細面で際立った顔立ちをしている。その白い肌やブロンドの髪色は、はるか北方に住むという狩猟民族のヴィルム族を思わせる。両親のどちらかが、北方出身なのかもしれない。穏やかな顔に笑みを湛えているマルルカは、このような場でなければ可愛らしくも感じられただろうが、こうして対面した今となっては酷く不気味だった。
リグルドはマルルカが放り投げ地面に突き刺さった訓練刀を掴んで、引き抜いた。訓練用とはいえ、鉄製のためそれなりに重い。先ほど、この刀を軽々と投げた筋力、隙の無い所作。マルルカがかなりの手練れであることは明白だった。生身は鎧で覆われて見えないとはいえ、あの痩躯のどこに、こんな力があるのだろう。黒い雨の副隊長というのは、決してお飾りではない。
まじまじとマルルカの姿を見て、リグルドは、はて、と気づいたことがあった。訓練刀を投げた彼女は、手に何も持っていない。
「おや、マルルカ副隊長殿は、訓練用の刀が無いようですが。よろしければ、当軍のものをお貸ししましょうか」
ゴードンが口を挟んでくれた。
「いえ結構。そうですね……私の武器は、これにしましょう」
マルルカがそう言って手にしたのは、訓練刀が入っていた木製の鞘だ。当然、武器として作られていないため、持ち手が存在せず、男性は勿論のこと、女性の小さい掌にはさぞ扱い辛く思える。
リグルドは、思わず眉を寄せた。
手加減のつもりなのか。だが、いくら手練でも、木製の鞘と鉄製の訓練刀が打ち合えば、訓練刀が勝るだろう。
無性に、腹立たしくなってきた。よりによって、この女副隊長は何故、見せしめに自分を選んだのか。手加減した上で、男を相手に圧倒的な勝利を収めることで、観客の前で自らの力を誇示したいのだろう。底意地の悪い女だと思う。
――なんとかして、この相手に一泡吹かせてやれないだろうか。
マルルカは、右手で掴んだ鞘を肩に担ぎ上げる。
「それでは始めましょうか。試合終了の敗北条件は気を失うか、武器を失った場合です。また敗北が決定的であり負けを認めた際も、それで終わり。相手に重傷を負わせたり、殺したりした場合は負けです。気をつけましょうね、お互いに」
マルルカは目を細めて、くすっと笑った。自分が傷つく事は無いと分かりきった余裕の笑みだ、とリグルドは思った。自分のような雑兵相手であれば、ただの一撃すら受けることなく自らは勝つと、彼女は考えているに違いない。
怒りと裏腹に冷たくなっていく頭で、リグルドは無言で頷きを返した。
「それでは両者、構えて」
マルルカとリグルドのちょうど間に立ったゴードンが、二人の対決者を交互に見やる。
リグルドに対して身体を横に向けたマルルカは、右手に握った木製の鞘を手首と水平に構えた。刺突を攻撃手段とする、細剣を扱う構えである。
リグルドは両手に訓練刀を握りしめて、中段に構える。
「始めッ!」
ゴードンが腕を振り下ろし、試合開始を合図した。
その途端、リグルドは左足で一歩、軽く踏み込んで訓練刀を振りかぶった。間合いにはまだ遠い。リグルドは刀を振り下ろさぬまま、踏み込んだ勢いを利用してすぐさま右足で思い切り地面を抉り、土と砂をマルルカに向けて力いっぱい蹴り上げた。
大きな砂埃が立ち込め、その砂埃の中を小さな物体が高速で飛んでいく。練兵場に残された古の兵士たちの傷痕、折れた歯や金属片、木片の数々だった。
周囲の兵士たちから、怒号のような歓声がワッと沸き起こった。ゴードンの刺すような視線を感じたが、構っている余裕はない。
(お上品な戦いには縁がないんでね!)
続けざまに、リグルドは訓練刀の平らな面を相手側面に叩きつけるため、訓練刀を握りなおして一歩踏み込んだ。確実に敵を捕らえるため、もう一歩、視界不良の砂埃の中へ踏み込もうとする。武器の破壊……相手の鞘さえ壊してしまば、こちらの勝ちだ。
だが、リグルドは一瞬足を止めた。小さな違和感が頭を過ぎった。
余りにも静かなのだ。
聞こえるはずのものが聞こえなかった。マルルカの悲鳴、驚愕、呼吸、そして何より、飛んで行った金属片や木片と、彼女の鎧との衝突音は――。
その僅かな躊躇いの直後。リグルドの眼前を、目にも止まらぬ速さの何かが通り過ぎ、風圧が砂埃を吹き飛ばした。
激烈な突風に、思わず目を瞬く。明瞭になった視界に、元と変わらぬ傷のない綺麗な姿で、マルルカは立っていた。先ほどまでの狂騒が幻だった様に、練兵場は静まり返る。
「……力量不明の相手への超短期決戦。良い作戦と思います。私でなければ、ですが」
彼女の僅かな違いを、リグルドは咄嗟に認識した。片手で構えていたはずのマルルカが両手で鞘を握っている。何より、彼女は口元だけに笑顔を張りつけ、細めていた目は今、僅かに見開かれていた。
リグルドは、先ほど眼前を通り過ぎた何かがマルルカの振るった鞘であったことを察し、思わず後ろに飛びずさった。
もし、あと一歩踏み込んでいたら……。
背筋が凍るような心地がした。重傷を負わらせたら負けだと言ったのはマルルカの方なのに、あの一撃を側頭部に受けていたら、重症どころか死んでいた可能性すらあるのではないか。そう考えて、忘れていたように心臓が激しく脈打つのを感じた。
距離を開けたせいか、マルルカは構えを解いた。彼女の持つ鞘の側面が、僅かに光ったように見えた。
「あら、鞘をダメにしてしまいました。やっぱり横着はいけませんね」
マルルカは鞘を軽く持ち上げて困ったように眉を曲げる。
まじまじとマルルカの持つ鞘を見たリグルドは、驚愕の声を押し込めて息を飲み込んだ。鞘に小さな金属片が突き刺さっている。それだけでなく、木製の鞘は沢山の何かが衝突したように、痘痕のような凹凸を作っていた。
——すべて弾き落としたのか。
リグルドは、大きく息を吐き、呼吸を整えた。状況は考えるまでもない。マルルカは、恐るべき視力、速さと正確さをもって使い慣れぬ鞘を操り、すべての飛来物を鞘で叩き落していたのだ。しかし木製の鞘とはいえ、それなりの強度はあるはずなのだ。どれほどの速さ、力で鞘を扱えば、鞘に金属片が食い込むほどの破損を被るのか……。
「……い」
ぼそぼそと、小さく低い声。鞘を凝視していたリグルドが再び、マルルカの顔に視線を戻した時、その唇がわずかに動いて見えた。それに気が付いたとき、声の主が眼前のマルルカであることを認識した。認識は同時に、聞き取り辛かった音を明瞭にしてくれた。
「……あっイケナイ、それではこちらの負けですね……。でも、負けてもいいから——」
——殺したい。
リグルドは、思わず肩を震わせた。最後の言葉は聞き取れなかった。だが、口の動きは読めた。吊り上がった口角、僅かに紅潮した頬。おそらく、これこそ、この女の本性なのだ。
マルルカの声に耳を澄ましていたからか、こん、こん、と兜を小さく叩く音に、リグルドは気が付いた。雨が降り始めたようだ。マルルカを視界に捉えたまま、上方をちらと見やる。雲は先ほどよりも更に、黒く染まっている。本降りになるまで、さほど時間は残されていないだろう。
リグルドの決断は早かった。右足を大きく振りかぶり、再び砂を蹴り上げる。
砂塵が舞い、再び飛来物がマルルカを襲う。一瞬、砂埃で不良になった視界の中で、彼女は鞘を手足のように扱い、目にもとまらぬ速さの飛来物を、正確に、一つ一つ叩き落した。砂塵がなかったとしても、蛇のように蠢く鞘の動きを視認できた人間はいなかっただろう。
「同じ作戦? そんなもの――」
マルルカが口を開いた次の瞬間、砂塵の中を目線の高さで飛来物が襲い掛かってきた。マルルカの身体はほんの一瞬硬直するが、彼女の視力と反射神経は、苦も無く、新しい飛来物を叩き落とす。
(射線が高い。蹴り上げたのではなく、投げて寄越したか)
マルルカの耳はザッ、ザッ、という砂を踏む音と、そして何かの風切り音を捉えていた。
(上か)
頭上から降りかかってきたそれを視認し、マルルカは身を躱す。鈍い音を立てて地面に打ち付けられたのは、兜だった。どうやら、なりふり構わず攪乱する作戦のようだ。これではまるで癇癪を起した子供だ。
「裸にでもなるつもりですか? いくらやっても無駄ですよ」
マルルカは砂塵の向こうの相手に言葉を投げかける。その直後、地面を踏みしめる音がした。ザッ、ザッ、という音が近づいている。諦めて、真っ向勝負に出たようだ。
(……2,1,今ッ!)
腰の左横に据えるように鞘を構え、マルルカは近づく足音に合わせて敵の側面、防具と防具の隙間の位置を目算して鞘を一閃しようと踏み込んだ。だがその時、マルルカが見たのは地面に転がる小手だった。
——偽装。
そう気づいた時、再び、地面を強く蹴る音がした。マルルカは砂塵の中を襲来する、光る飛来物を捉えていた。頬を緩める。何度やっても、同じことだというのに。
余裕を持って、マルルカの鞘は、それを叩き落とす——。
「――っ!?」
撃ち抜いたはずの鞘を持つ手が、刹那、重たい衝撃を受ける。飛来物を叩き落したはずの鞘は、鈍い粉砕音を伴って、その真ん中でへし折れた。折れた鞘の片割れと飛来物は、一緒になって地面に落ち、鈍い響きを残した。
呆然としたのも束の間、マルルカは片膝をついて、自分が叩き落そうとしたものを掴み上げた。鉄の塊。訓練刀だった。
「……ゴードン隊長、試合終了でしょうか」
マルルカは、砂塵の向こうに敵の声を聴いた。ぱらぱらと降り始めた雨と共に、強い風が吹いて砂塵を吹き飛ばす。マルルカが見たのは、兜と小手を外し、両手に何も持っていない敵兵の姿だった。