始まりの日
今にも雨が降りそうな黒く厚い雲が、空を覆っている。見れば見るほどに気落ちする空を見上げ、少年は溜息をついた。吐いた息は少しの間、真っ白いもやとなって宙を漂い、そして消えた。
短く切りそろえた赤毛、髭のない鋭い顎の輪郭は、その茶黒い軍用作業服に不釣り合いなほど、幼い顔貌をしている。少年、リグルド・フォーレンスは、水で濡らした布巾を無造作に石造りの床に置いて、かじかむ両手を擦り合わせた。寒さに痺れた指は、すり合わせると微かに熱を持って、感覚が戻って来る。
きっと、今日の訓練が始まる頃には雨が降っているに違いないだろうと考えると、リグルドはひどく憂鬱だった。こんな寒さで、糅てて加えて雨に身体を濡らしての野外訓練など、正気の沙汰ではない。ただでさえアドラルド王国の冬は厳しく、厳冬期には積雪は言わずもがな、湖が凍りつくほどなのだ。
今日の訓練に限ったことではないが、リグルドは常おもわずにいられない。百年以上に渡って戦争のない国で、一体何のために訓練が必要なのだろうか。
「おい訓練兵!掃除は終わったか」
ひげ面の男にぶしつけに声をかけられたリグルドは、声の主を振り向くことなく答える。
「はっ、あと少しです!壁の汚れが落ちませんので」
素早い動作で布巾を拾い上げて、少年は石造りの壁をこする。同じところを円を描くようにして拭いているが、そこに目立った汚れはなかった。
「早くしないか! 先刻、パラギア帝国軍が到着している。すぐ練兵場に来い!」
男は大きな声でリグルドを怒鳴りつけると、踵を返して早足で去っていった。ブーツが石造りの廊下を叩く音が聞こえなくなったのを見計らって、リグルドは手にしていたボロボロの布巾を桶の中に放り投げた。
「ったく」
その悪態は、聞く者のいない兵舎の廊下に響き渡る。
自分は、どこで間違いを犯したのかと、リグルドは考えずにいられない。大した仕事もなく、それでいて金払いの良い所はどこかと考えて軍の兵士に志願したはずだった。
しかし、いかに長きに渡り戦争のない平和な国といえど、兵士の役割は戦に限らない。戦闘訓練、兵舎や王城の清掃、使わない装備の手入れ――毎日がその繰り返しである。その程度のことを思い至らなかった自分を、リグルドは深く悔やんでいた。
こと掃除に関してリグルドは度々、手を抜いていた。どこもかしこも汚らしい兵舎を汗水たらして多少綺麗にしたところで、雑兵の寒々しい懐が暖かくなる訳でもない。掃除を言いつけられた時には、最も人目に付きそうな、最も綺麗な所で多くの時間を過ごし、上官の目をやり過ごすようにしている。
アドラルド軍に入隊して2年が経つ。今となっては、彼は自らの行動にどれほどの価値があるのかを頻繁に考えるようになっていた。そして、自らの評価にも成長にも価値が無いと思えば、リグルドは徹底して手を抜いた。
それでも、自らの評価が下がることの無いように、やっていないことをやっているように見せたり、些事を大事に見せることに関しては得意だったので、評価を落とすようなことは無かった。
いかに最小限の労力で、誰にも咎められることなく日々の重要なお勤めを終わらせるのか。
それが至上命題である。したがって、至極面倒な合同訓練であっても、こっそり身を隠してやり過ごすというわけにはいかなかった。
兜に小手、胴鎧に脚絆。言いつけ通りに装備を整えたリグルドが練兵場に到着すると、既に立錐の余地もないほど多くの兵士たちが集まっていた。重く厚い灰色の雲の下で、時折、肌を刺すような冷たい風が一団を吹き抜ける。粒の細かい砂塵が、風と共に舞い上がった。
リグルドは、兵士たちをかいくぐり、一団の中腹辺りに身を潜めることにした。周囲に見知った顔がないかと見回す。
自らを抱きしめるように腕を組んで身体を震わせる兵士や、談笑する兵士たちが目に入った。群がる羽虫の様な塊となった兵士たちは、各人、思い思いに口を開き、けたたましい鳥の囀りにも聞こえる。これから訓練だというのに、兵士たちに緊張は見られず、皆、弛緩しきっている。
見知った顔はなかった。所属する第1兵団は、その矜持もあってか、一団の先頭にいるのだろう。王都に属する全師団を集めての大々的な合同訓練とあって、こんなところでも兵団間のヒエラルキーや権威の誇示が行われている。
「おぉ〜っ、寒い寒い。こんな時期に野外で合同訓練なんて、正気を疑うぜ」
「賢王の思い付きだとさ。太平の世じゃ、俺たち兵士の一番の敵はご立派な国王様だってわけよ」
「はは、違いねえ」
髭の豊かな兵士が嘲笑した。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、目前の兵士たちが周囲に負けじと声を張って会話をしているせいで、会話が嫌でも耳に入る。仕えるべき君主に対する暴言を、咎める者はいなかった。
リグルドも同じ想いを抱いていたし、周りの兵士たちも似たり寄ったりの会話をしていた。それほどまでに、アドラルド王国兵たちの士気は喪失して久しい。長く続く平和の世であるから、という理由だけでなく、多分にしてアドラルド国王――ランダルム・シュタインバッハの政治的手腕によるものであった。
リグルドにとって――もっとも、他の大半の兵士にとっても同様に――この国の兵士とはただ衣食住が安定的に確保される安全な職場としての価値しかなく、国王のためはもとより、国のために身を捧げるなどという忠義も奉公心も持ち合わせていない。だからこそ、隣国であり同盟国でもあるパラギア国軍との合同訓練が、たとえ同盟国間の友好構築や、パラギアが敵対する諸外国への牽制といった軍事的効果をもたらすとしても、兵士たちはそれほどの意義をこの訓練に見出していなかった。
耳を聾するばかりの銅鑼の轟音が響き渡り、リグルドは飛び上がりそうになった。
兵士たちの雑談はかき消される。ごん、ごん、と繰り返される音に、何事かと兵士たちは周囲を見回した。
「静まれ!」
銅鑼に負けじと、しゃがれた、それでいてよく通る声が兵士たちを制した。
リグルドが声のした方を見ると、兵士たちの集団より少し高い位置に、たっぷりの白い顎髭を蓄えた老兵の姿が目に入った。豪奢な装具が、曇天の下でも煌きを放っている。前方の兵士たちのせいでよく見えないが、老兵は台座か何かに上っているのだろう。
リグルドは、声の主を知っていた。否、アドラルド国軍の兵士で、この老兵を知らぬものなどいない。
老兵は、遠雷のように声を響かせる。
「誉れ高きアドラルド・ナイツよ。今日は祝福すべき日である。栄えあるパラギア軍の精鋭部隊”黒い雨”をこの地に迎え、合同訓練が相成ったこと、大変喜ばしく思う。このゴードン・ファルクス、アドラルド国軍を代表し、この地まで参じられたパラギア軍に改めて、感謝を申し上げたい。そして――」
ゴードンはそこで言葉を切り、眼前のアドラルド兵たちを見回した。垂れ下がった瞼をあらん限りに見開き、兵士たちを睥睨する。
「勇猛果敢たるアドラルド・ナイツが、名高き”黒い雨”から、多くを学び、多くを手にすることを願う。……国を護る盾であるとともに、王の剣である皆々が、朽ち果てて折れんことを祈るばかりである」
声の悲哀の中に、燃えさかるような怒気を含んでいる。周囲に気づかれないように、リグルドは笑いを嚙み殺していた。誉れ高きだの、勇猛果敢だのといった、仰々しい修飾が酷くおかしかったからだ。
パラギア軍の同席する手前、言葉を選んで兵士の士気を扇動したかったのだと推し量るが、ゴードンの指す"誉れ高きアドラルド・ナイツ"とは骨董品も甚だしい。師団長であるゴードンも生まれる前の、大戦時代の遠い過去の話である。今のアドラルドの兵士たちに、過去の栄光の面影は微塵もない。
ゴードンが降壇して次に壇上に上がったのは、漆黒の鎧を纏った若い兵士だった。黒い鎧にブロンドの髪と白い肌がよく映えている。パラギア軍の"黒い雨"と呼ばれる連中だろう、その名前はリグルドも多少知っていた。パラギア帝国は、アドラルド国を除く複数の隣国と戦争状態にあり、黒い雨は華々しい戦果を上げていると聞く。
兵士は、その痩躯のどこから発せられているか疑問を抱かせるほど、冴え冴えとした声を放った。
「身に余る評価、感謝申し上げます。パラギア軍、ダルテ隊副隊長のマルルカ・セントフォードです。到着直後につき、武装状態であることをお許しいただきたい」
アドラルドの兵士たちは、にわかに騒がしくなる。リグルドも、思わず壇上のマルルカを凝視していた。その声が紛れもなく、女性のそれだったからだ。
「隊長のダルテは、他の同盟国との合同訓練に出ておりまして、僭越ながら副隊長の私が参上仕り、ご挨拶させていただきます。ーー副隊長が女、というのは珍しいですよね」
マルルカは微笑んでいた。透き通った高音は、リグルドの元にもよく届く。
場はもはや、騒然としていた。かの"黒い雨"の副隊長が女だったこともさることながら、ここが練兵場という無味乾燥の場でなければ、マルルカはまるで花畑で花冠を作っている姿が容易く想像されるような、穏やかな笑顔を湛える乙女だったからである。
「お気になさらなず……といっても、こんな状況では訓練に差し障りもありましょう。せっかくの両軍での合同訓練、その開始にあたり余興の一つと思っていただければ、と」
マルルカは、腰に差していた刃のない訓練刀を滑らかな動作で抜き放ち、それを片手で軽々と放り投げた。咄嗟に兵士たちは、その剣の落下地点から逃げようと駆け出す。訓練用で刃がないとはいえ、鉄の塊である。当たれば痛い。リグルドも逃げようとしたが、弧を描いて飛んだそれは逃げる間もなく、リグルドの目の前の地面に突き刺さった。
「そこの兵士。私と手合わせ願います」