修行
ロンさんの訓練は、想像を絶するものだった。
まずは基礎体力作りということで、塔の一階から最上階まで繋がる螺旋階段の登り降りをさせられた。すぐに呼吸が苦しくなり、涙で目が霞む。十三年間まともに運動をしたことがなかった自分にとって、ウォーミングアップですら過酷だった。
階段の登り降りが終了すると、筋力トレーニングが始まる。腕立て伏せ。腹筋運動。スクワット。今まで使ってこなかった筋肉に、次々と刺激が与えられた。激しい疲労感に耐えきれず、弱音を吐き、何度も休憩を求めた。そのたびにロンさんに呆れられた。
毎朝、激しい筋肉痛に襲われた。辛い。逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、逃げたところで魔族に殺されてお終いなのは目に見えていた。完全に詰んでいた。
訓練を始めて一ヶ月。トレーニングメニューに飽きてきた頃、そろそろ剣を振ってみたいと、ロンさんに言ってみた。即座に「まだまだ基礎体力がついていない」と喝が飛んできた。もやもやとした気持ちが膨らんでいった。
二ヶ月後、ようやく戦闘訓練が開始された。木の棒を使っての素振りから始まり、剣術における正しい姿勢や体の使い方などを叩き込まれる。最初は基礎的な動作もままならず、足がもつれたりして、またまたロンさんを呆れさせてしまった。逃げたい気持ちはまだ残っていたが、懸命に教えてくれるロンさんや、応援してくれているランパとミュールを落胆させたくなかったので、必死となって訓練に喰らいついた。気づくと、掌は血豆だらけになっていた。
三ヶ月後、自身の体の変化に驚いた。か細かった体に、うっすらとしなやかな筋肉がつき、腹筋も割れてきていた。自分の体ではないみたいで、少しにやけてしまった。
明日から実戦形式での訓練に移る――ロンにそう告げられた日の夜、勇斗は見張りの塔の屋上に座り、三ヶ月間を振り返りながら、月を見上げていた。この世界の月は二つあった。自分の住んでいた世界と違うことを改めて思い知らされる。
「いやー、最初はどうなるかとハラハラしてたけど、頑張るじゃん。筋肉も大分ついてきてるし」
振り向くと、ミュールが立っていた。白い歯を見せニカっと笑っている。
「ありがとう」
勇斗の頬が緩んだ。正直、この成果には自分でも驚いている。
「ちょっと、一杯やらない?」
勇斗の目の前に、瓶と木のコップが置かれた。
「これは?」
「ビラードだよ。ミケーレ大陸では一般的に飲まれているお酒なんだ」
「僕、まだ子供だしお酒は飲んじゃだめなんだけど」
えっ、とミュールが目を丸くした。
「僕の世界では、お酒と煙草は二十歳になってからっていう決まりがあるんだよ」
「へえ、そんな決まりがあるんだ。ここでは子供だって酒を飲むし、煙草も吸える。酒はただの嗜好品じゃなくて、栄養補給としても重要なんだ。長旅や過酷な生活の中で身体を保つために欠かせないんだよ。それに煙草は、ただ楽しむだけじゃなくて、通過儀礼や身分を示す象徴的な意味もある。吸い方や持ち方ひとつで、その人の立場や経験がわかるってわけ」
信じられない気持ちが脳を支配していく。この世界は、元いた世界と違うことが多すぎる。
勇斗の横に座り込んだミュールは、コップにビラードを注ぎ始めた。
「まぁ、飲んでみるといいよ」
ミュールに手渡されたコップを両手で持った勇斗は、しゅわしゅわと泡を立てている黄色い液体をじっと見つめた。本当に飲んでいいのだろうか。鼓動が速まってきた。
「明日から実戦なんだから、体温めて、ほら」
勇斗は、おそるおそるコップに口をつけ、ビラードを少しだけ喉に流し込んだ。苦さの中にほんのりとした甘みがある、なんとも不思議な味だ。
「な、いけるだろ?」
うん、と勇斗は愛想笑いをした。
「じゃ、オレも飲もうかな」
白い歯をこぼしたミュールは、自身のコップにビラードを注ぎ、一気に飲み干した。かぁっ、うまい! と笑顔で叫んでいる。
「お母さん、僕がお酒飲んだって知ったらどんな顔するかなぁ」
ビラードをちびちびと飲んでいる勇斗が、ぼそっと呟いた。ミュールの狼のような耳がぴくりと動く。
「母さんか。ユートって何人家族?」
「えっと、お母さんとお父さんがいる。兄弟はいない。僕、一人っ子なんだ」
お母さん、今頃どうしてるんだろう。ショックで倒れたりしていないだろうか。もしもお母さんに何かあったらどうしよう。考えれば考えるほど胸が締め付けられてくる。
「どうした、ぼーっとして。もう酔ってきた?」
「あ、いや、大丈夫だよ。そういや、ミュールってロンさんのことをじーちゃんって呼んでるけど、家族なの?」
「いや、他人だよ。怪我していたオレを助けてくれたんだ。その恩返しとして、今は料理や洗濯を手伝っている。いずれ出ていくつもりだけどな」
「怪我って、どうしたの?」
勇斗は、戸惑いの顔をミュールに向けた。
ミュールは二杯目のビラードを注ぎ、飲み干したあと、無数の星が煌めく夜空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「オレの故郷、魔族に襲われたんだよ。半年くらい前にな。仲間が、たくさん殺された。オレは逃げている最中に川に流されて、気づいたらこの塔にいた」
「殺され――」
「オレは魔族が嫌いだ。あんなことをしやがった魔族を絶対許せない。特に、あいつだけは」
ミュールの顔つきが、みるみるうちに険しくなった。彼の手に握られたコップが小刻みに振動している。どう声をかけて良いのかわからなくなり、おろおろしてしまう。
「あ、ごめんごめん。気にしなくていいから。さ、飲もうぜ!」
朗らかな表情に戻ったミュールに、肩を二回叩かれた。勇斗は、半分以上残っていたビラードを一気に胃に流し込む。体が熱を帯び、ほどなくして睡魔が襲ってきた。
「ユート、オレは――」
ミュールが何かを言っているようだが、聞き取れなかった。深淵へと沈んでいく感覚。ふわりと意識が飛んでいった。
翌日は寝過ごしてしまった。頭が痛い。はじめての二日酔いだった。ミュールの気功で何とか治った。
今日から実際に武具を身につけての訓練が行われる。久々に黄金色の鎧をまとった勇斗は、安心感を覚えた。しっくりくる感じ。まるで鎧と一体化したようだ。
塔の中階層にある広間では、完全武装したロンが待っていた。鉄仮面を被り、体は重厚な鎧で覆われていた。
「戦闘では、相手の動きをよく観察することが重要じゃ。さぁ、構えよ」
「は、はい」
勇斗は震える手で剣を構えた。剣は、刃が潰された練習用だった。
「遠慮はいらん。情は捨て、ワシを魔族だと思ってかかってこい」
「い、いきます」
金属同士のぶつかる音が、絶え間なく響いた。
「基本の型を忘れるな!」
ロンは叫ぶ。
「は、はいっ」
「動きをよく読め!」
ロンの厳しい声が止まない。勇斗は歯を食いしばった。
「うわあぁっ」
「力ずくじゃ剣術とは呼べんぞ! 体全体を使えっ!」
次々と飛んでくる鋭い指摘に戸惑いながら剣を振るう。ひとつひとつの細かい指示を理解しようと、懸命に頭を回転させる。しかし、脳と体の連携が全然うまくいかない。額から流れ続ける汗が目に入りそうになる。攻撃に転じることはできず、怪我をしないように自分の体を守るのが精一杯だった。
「ぎゃあああっ」
ガシャンと金属が床にぶつかる音。勇斗は激しく尻もちをついていた。
「どうした? 早く立て。そんなのでは元の世界には帰れぬぞ!」
片膝をつき、荒い息を吐き続ける勇斗に対して、ロンは厳しい言葉を浴びせる。
「弱い、弱すぎるっ! アルトはもっと強かったぞ!」
「うぅ」
「腰抜けめ、お主はアルトの足元にも及ばんな。アルトは十歳の時点でワシを打ち負かしておったぞ」
「そんなこと。言われても」
「甘えるな。温室育ちのお坊ちゃんめ」
十三年間、他人と比較されることはなかった。テストで少し悪い点数を取ったときも、体育の授業で見学が多いと先生から指摘されたときも、「勇斗は勇斗。今のままでいいのよ」と母にずっと言われてきた。だから、他人がどれだけ優れていようと気にする必要はないと思っていた。しかし、今、その信念は鋭く切り裂かれた。
他人と比べて劣る自分。しかも、比較の対象が、自分と同じ顔をした人間ときた。悪寒がする。ふつふつと、闘争心がたぎってくる。なんだよ、アルト、アルトって。僕は、僕は――
「どうした、アルト以下のユートよ」
頭の中で糸が切れる音が聞こえた。
「う、うおおおおおおっ!」
立ち上がった勇斗は咆哮し、ロンに向かって突進した。
剣が空振る。空気を鋭く切り裂く音が耳をかすめる。目の前にいたロンの姿が消えていた。
「お主、今、死んだぞ?」
ロンの刃が、勇斗の首筋ギリギリのところで止められていた。
「あ、う――」
勇斗は、カシャンとその場にへたり込んだ。体に全く力が入らない。床の一点だけをじっと見つめる。
「我を忘れるな。常に冷静でいろ。一瞬の隙が命取りとなる。魔族を相手にするときも同じじゃぞ」
ビクッと肩が跳ねた。死の恐怖。魔族に殺されかけた場面が再びフラッシュバックする。両肩が小刻みに震えてきた。
「ふぅ、今日はここまでにしようかの。続きはまた明日じゃ」
ロンは剣を鞘に納め、静かに階段を登っていった。広間に静寂が訪れる。
「あ、うぅ、あぐっ、くそっ、くそぅ」
屈辱感、怒り、無力感――初めて意識した感情が一気に芽生え、ぐるぐると勇斗の中で渦を巻いた。
「うわああああああああああっ」
けたたましい泣き声が響き渡った。
激しい訓練は何日も続き、休む暇など一日たりともなかった。その中で、勇斗を突き動かしていたのは、心の奥底から湧き上がる「悔しい」という感情だった。毎晩、落胆を感じながらも、訓練の内容を振り返り、反省点を一つ一つ洗い出しては、次に活かすために努力をした。
今日も乾いた音が、塔の広間に木霊する。
「ぬっ」
ガキイィィンと、ロンの剣が宙を舞い、床を転がった。
「はあぁっ!」
勇斗の剣先が、ロンの鉄仮面をかすめた。すかさずごめんなさい! と叫び、慌てて剣を下げる。
「ホッホ、大丈夫じゃよ。今のお主にとっては上出来じゃ。ひとまず合格としよう」
久々に聞くロンさんの優しい声に、温かさがこみ上げてきた。
「ありがとぅ、ございますぅ」
勇斗はしゃくり上げたあと、晴れやかな表情を作り出した。すがすがしい気分だった。
その夜、小さな宴が開かれた。いつもより豪勢なミュールの手料理に舌鼓をうち、ビラードも飲んだ。もう少し甘いお酒が欲しいと言うと、メルディアというお酒が出てきた。蜂蜜のように甘くて美味しかった。
「ユートよ、ワシが教えたことは基礎中の基礎。本来ならもっと教えたいところなのじゃが。まぁ、あとは実際に魔族と戦って体で覚えていくことじゃな」
ビラードを煽りながら、ロンが言った。はい、と勇斗は少し頼りなさげな声を出した。
「心配するな。ワシとの訓練で得たことは決して無駄にはならん。逃げずによう頑張った。これからの努力次第でお前は強くなれる。ワシが言うのじゃから絶対じゃ!」
ロンが豪快に笑う。
心地よい気分になった勇斗は、メルディアを胃に流し込んだ。
「そうそう、じーちゃんが言うんだから間違いないって。ユート、お前はもっと自信を持てよぅ」
顔を赤くしたミュールが、勇斗の肩に手を回した。酒臭さがぷんぷんとする。何杯飲んだんだ。
「こりゃ、ミュール! お前もまだまだ未熟なんじゃから、努力せんといかんのだぞ!」
「わ、わかってるよ」
ミュールが口を尖らせた。
ロンさんに稽古をつけてもらっている裏で、ミュールが自主的に訓練していたことはランパから聞いて知っていた。声もかけられないくらい真剣だったという。
「ふぃー、もう食えねぇー」
ランパが床で寝転がった。あっという間にいびきをかき、鼻ちょうちんを膨らませ始めた。たいへん幸せそうな顔をしている。
「こいつ、本当によく食うよな。というか、何で精霊なのにメシ食うの?」
ミュールは椅子から手足をだらんと放り出し、怪訝そうな目でランパを見つめた。
「精霊はマナさえあれば体を維持できる。食事なんかする必要はないのじゃが」
ランパって、普通の精霊とは違うのだろうか。味覚もあるし、怪我もするし。人間みたいだ。
「ランパ、そんなところで寝てたら風邪引くよ」
勇斗はランパを揺すった。しかし、全く起きる気配はなかった。仕方ない、ベッドまで運んでやろう。
「ユートォ、オイラが守ってやるからなぁー。ずっと一緒だぞぉー。むにゃむにゃ」
勇斗にお姫様抱っこをされたランパの口から、よだれとともに寝言が漏れた。
翌朝、ベッドから起き上がると、激しい頭痛に襲われた。飲みすぎてしまったのか、宴の終盤の記憶がない。
ベッドサイドの小さなテーブルの上に視線をやると、一枚の紙が置かれていた。文字が書かれている。
『準備ができたら塔の一階まで来てくれ。じーちゃんから大切な話があるらしい。あと、朝メシはキッチンに置いてあるから勝手に食べてくれよな』
見たこともない文字で書かれてあったが、なぜか読めた。
大切な話って何だろう?
勇斗は立ち上がり、部屋をあとにした。