アルト⑵
アルトが目を開けた瞬間、まず目に飛び込んできたのは、白い天井だった。
上体を起こし、周囲を見回す。部屋のようだった。壁は天井と同じく白色。どこまでも平らで無機質だ。窓からはオレンジ色の光が差し込んでいた。
腕に刺さった管を見て、眉をひそめた。管は天井近くに吊るされた奇妙な袋に繋がっていた。袋の内部には透明な液体が溜まっていて、その液体が管を通して自分の体内に流れているみたいだ。
もしかして毒か? そう思ったアルトは、素早く腕から管を引き抜いた。
「ここは、どこだ?」
どうしてこんなところにいるのか、どうやってここに来たのか、何もわからない。頭の中がかき乱される。必死に記憶をたどる。魔神を倒したあと、どこからか攻撃を受けた。そしてマグマの海に沈んだ。誰かの声が聞こえた気がしたのだが、それが誰の声なのかはっきりと思い出せない。
そして、さっきまで見ていたあの夢。自分と同じ顔をした気弱そうなやつが、伝説の武具を身にまとって消えるという、変な夢。あれは一体――
部屋の外から気配を感じた。誰かが、来る。魔族か? アルトは近くにあった点滴スタンドに左手を伸ばし、握りしめた。
扉がきぃ、と音を立て、静かに開かれる。
見知らぬ女性が部屋に入ってきた。
「えっ? 嘘っ」
女性は素っ頓狂な声を出したあと、口もとに手を当て、棒のように直立した。
「勇斗! 目を覚ましたのね!」
駆け寄ってきた女性が抱きついてきた。柔らかい匂いがする。抵抗しようとしたが、なぜかできなかった。なすすべもなく、抱擁され続ける。「よかった、よかった」と、かすかな声が耳に入ってくる。頬に雫が落ちてきた。
「待っててね。すぐ先生呼んでくるから」
そう言うと、女性は慌てながら部屋を出ていった。
こら、きみ! 廊下は走ったらダメでしょ! という声が部屋の外から聞こえたあと、青い服を着た少年が勢いよく部屋に入ってきた。入ってくるなり、少年は目に涙を浮かべながら、アルトのもとへ駆け寄った。
「勇斗! お前マジで目を覚ましたんだな! 廊下でお前の母ちゃんとすれ違った時、もしかしてと思って来てみたら――マジで、マジでよかったぁ!」
目の前の少年は、腕で目をごしごしと擦ったあと、しわが寄るほどの満面の笑みを浮かべた。
アルトの目は点になっていた。何だこいつ。どうしていきなり泣いて、笑っているんだ? さっきの女性といい、こいつといい、一体誰なんだ?
「そのポカンとした表情、自分がどうなったか覚えてない様子だな。俺たち、あのあと鳥居の下で倒れていたらしいんだよ。そんで病院に運ばれて。俺はすぐに目を覚ましたんだけどさ、お前と真弘は一向に意識が戻らなくて――」
早口でまくし立てている。内容は全く頭に入ってこなかった。
「ここはどこだ? それでお前は誰だ?」
アルトが冷たく言うと、少年の顔つきが険しくなった。
「な、何言ってんだよ。ここは高日中央病院で、俺は光太。お前の親友の夏野光太。記憶がないとか、そんな冗談やめろよ? つか、お前そんな冗談言えたんだな!」
なるほど、病院か。しかし、タカビなんとかという地名は知らないな。
アルトは布団を放り投げ、ベッドの上に立った。窓から外の景色を眺める。
「な、何だここは」
アルトの眉が吊り上がる。見たこともない形をした建物、変な服を着て歩く人々、道を行き交う鉄の塊――目に映るもの全てが異質だった。
窓を開け、空気に手を触れる。ひやっとした風が手の平をかすめた。
「マナが、ない? どうなっている?」
「お、おい勇斗、お前何やって」
アルトは窓枠に手をかけ、迷うことなく身を翻した。
「勇斗ぉーっ! ここ四階だぞーっ!」
重力に引かれて落下が始まる。周囲の景色が一瞬で流れていく。病衣が慌ただしくはためく。目下に広がる灰色の地面が近づくにつれ、膝を少し曲げて、衝撃を殺す準備に突入する。
着地の瞬間、鈍い音が響いた。地面に小さなひびが入る。アルトは深く息を吐きながら顎を上げ、周囲を見渡した。
背の高い少女と目が合った。彼女は目を大きく見張り、ピタッと体が固まっていた。手に持っていた紙袋が地面に落ち、小さな音を立てた。
「ゆ、勇斗? 意識が戻ったの? というか、何で空から降ってきたの?」
「シグネリア?」
「はぁ? シグネリアって誰? 私は美咲ですけど。幼馴染の顔、忘れたの?」
美咲は眉間のしわを深くし、ローズピンクの長い髪をふわっと掻き上げた。スパイシーな香りが、アルトの鼻腔をくすぐった。
「人違いか。すまない。知り合いに似ていたから」
頬をうっすらと赤くしたアルトは、視線を逸らし、やるせない気持ちを噛み砕いた。
「ちょっと、意味わかんないんですけど」
「すまない、こちらも頭が混乱している。ここは、本当に一体どこなんだ?」
「どこって、高日町でしょ。わたしたちの生まれ育った町」
タカビ。さっきも聞いた知らない地名。やはり違う大陸に飛ばされてしまったのか。しかし、マナがないのはおかしい。いくら違う大陸といっても、マナは世界中にあふれているはずなのに。
「勇斗、無事か!」
エントランスの自動ドアが開き、光太がヒィヒィ言いながら全速力で走ってきた。
「どうして、四階から飛んで、普通に立ってるの、お前」
両手を膝につけ、腰を曲げた光太が、息も絶え絶えに言った。
「ねぇ、光太。この状況、説明しなさいよ」
「あれ、美咲? どうしてお前がここにいるんだよ」
「バカ弟のお見舞いよ」
美咲は落ちた紙袋を拾い上げ、ふん、と鼻を鳴らした。
「あっ、そうか。陽介もこの病院だったか」
「まぁ、それより」
光太と美咲が、アルトの顔をじっと見つめた。
「勇斗。お前、どうしちまったんだよ? 急にわけわかんないこと言って、四階から飛び降りて。なんなの、マジで」
「きみたち、さっきからユートユートって言ってるが、ユートって誰だ? ボクはアルト。伝説の武具に選ばれし勇者アルトだ」
アルトは口角をへの字に曲げ、両腕を組み、光太と美咲を睨みつけた。
しばしの沈黙が訪れる。夕焼け雲の下、カラスが鳴いた。
「へ、へへっ。勇者? アルト? だからさぁ、お前に冗談は似合わないって」
「冗談は言っていない。それより、ボクははやく城に帰って報告をしなければならない。きみたち、ミケーレ大陸にあるソレイン王国に帰る方法を知らないか?」
光太と美咲は首を傾げる。その後、お互いに見つめ合った。
「なぁ、もうドッキリとかやめようぜ?」
光太はぎこちない笑顔で、アルトの体を肘でつついた。
「ん?」
「どうした?」
「いや、随分ガッチリとしてるなと思って。勇斗はもっとヒョロヒョロのはず」
「まぁ、鍛えているからな」
「えっと、ちょっとだけ体、見せてもらっていい?」
「構わないが?」
アルトは病衣のボタンに手をかけ、ゆっくりと外していった。徐々に露わになる肌を、夕日が照らし出す。まるで岩を削り出したかのような厚みと硬さがある胸板。腹筋は六つの区画が完璧に割れている。肌全体には、無数の傷跡が刻まれていた。
光太の下顎がだらんと落ちて、口がだらしなく開く。数人の通行人が、アルトの姿を見て、顔をしかめていた。
「そういや、傷が塞がっているな」
アルトは自身の腹部を触ったあと、不思議そうに首を傾げた。その後、ズボンの裾を捲り上げ、両足を確認する。やはり傷が塞がっている。火傷の跡も見当たらない。一体、誰が回復をしてくれたんだ? この病院にはありえない力を持つ医者でもいるのか?
「いや、もういいから! 服着ろ、服っ! 周りの目線がヤバい」
光太はあたふたと動き回った。目をきょろきょろと動かし、大声を上げている。やがて美咲に小突かれ、静止した。
「随分と忙しいやつだな」
アルトは呆れたようにため息を吐いたあと、病衣をきっちりと着直した。
「ひとつ確認させてくれ。左手、見せてくれるか?」
「左手?」
「いいから!」
上着の袖をまくり、左手を見せた。光太の顔が、アルトの左手首に近づく。
「痣が、ない? 勇斗の左手首には昔から変な痣があるはずなんだけど」
光太の太い眉毛が、八の字になる。
「痣? 痣ならこっちだ」
アルトの右手首には、四芒星の形をした痣がくっきりと浮かび上がっていた。
「これは生まれつきあるものだ」
「――お前、本当に勇斗じゃないのかよ」
「だからボクはアルトだ。ユートってやつは知らない。何度言えばわかるんだ」
光太は絶句して息を呑んだ。ぴたりと固まっている光太の肩を、美咲が軽く叩く。
「ちょっと、向こうで詳しく聞きましょうか。ここじゃ人目につきすぎる」
美咲に案内されたアルトは、病院の裏側へとまわった。歩いていると、足裏がひんやりした。そういえば、靴を履いていなかった。
三人はベンチに腰掛けた。説明を求められたアルトは、経緯を説明した。
「つまり、お前は異世界から来たってこと?」
「アンタ、ゲームや漫画の読みすぎじゃない?」
「いやいや、もうそうとしか思えないだろ」
「――そうね。信じられないけど、嘘をついているようにも見えないし」
美咲の手が、アルトの頭の上に勢いよく置かれた。アルトはむくれて美咲の顔を睨むようにして覗いたが、すぐに視線を戻し、顔を下に向けた。
違う世界か。マナがないことも、変な建物も、そう考えるとしっくりくる。
アルトは、向かいの壁に貼られた紙を見た。『敷地内禁煙』と書かれている。見たことのない文字だが、なぜか読めた。不思議だ。
「でさ、こいつが勇斗じゃないとして、本物の勇斗はどこに行ったんだ?」
「そのユートってやつは、ボクとそんなに似ているのか?」
「似てるもなにも、同じなんだよ。顔も髪も声も。性格は全然違うけどな」
光太は口を尖らせた。
「ふむ」
アルトは、顎に左手を当てた。
「どうしたの?」
美咲が尋ねる。
「ボクはここで目覚める前、夢を見ていた。真っ暗な空間で、ボクそっくりなやつが伝説の武具に選ばれる夢だ。そいつは武具と一緒に消えた。もし、あれが夢じゃないなら、ユートというやつがボクの世界に行った可能性はある」
「お前と入れ替わりで異世界に行ってしまったってことか? それじゃ、今すぐ連れ戻してきてくれよ勇者様」
「そうしたいところだが、元の世界に戻る方法がわからない」
「くそっ。何なんだよ、もう」
光太は、両手でツンツンとした黒髪を掻き回したあと、うなだれた。
「勇斗ーっ、どこにいるのー?」
遠くから女性の声が聞こえてきた。病室で聞いた女性の声と同じだ。
「まずっ、勇斗の母ちゃんの声だ。見つかるとマズい」
光太は勢いよくベンチから離れ、バタバタと慌てふためいた。
「仕方ない。アルト、アンタは今から勇斗のフリをしなさい」
美咲は立ち上がり、険しい顔をしているアルトを指差した。
「ま、マジで言ってんの?」
「今はそれしかないよ」
「んー、まぁ、そうだな。よし、そうと決まれば早速実行だ。俺たちが協力してやるから安心しろ!」
光太は腰に手を当て、ニッと笑った。
「くだらない」
アルトが静かに息を吐く。光太は、笑顔のまま凍りついた。
「大事なのは、どうすれば元の世界に戻れるかだ。馴れ合っている時間はない。これからボクは一人で元の世界に戻る方法を探しにいく」
「アンタねぇ」
美咲は、だらんと肩を落とした。額に手を当て、ため息を吐く。
「いい? 今アンタが消えたら、大騒ぎになる。学校にも連絡がいって、最悪、警察まで動くかもしれない。それに、一人で何とかしようったって、この世界のこと、アンタは何も知らないでしょ? 今やるべきことは、勇斗のフリをして、事情を知っているわたしたちと一緒に元の世界へ戻る方法を探すこと。そして、勇斗を連れ戻して、自然に元の状態に戻すこと。それしかない」
アルトは、顎に左手を当て、しばらく沈黙した。確かに、自分はこの世界のことを知らない。悔しいが、彼女の言う通り、ユートとやらのフリをして元の世界に戻る方法を探すことが最善の手段か。
「無駄な時間を使う気にはなれないが、それが最も効率的な方法なら従おう」
「オッケー。じゃあ、今からアンタは日向勇斗。わかった?」
美咲が言う。
アルトは無言でうなずいた。