胎動
ホッホー! ホッホー!
勇斗は布団の中で目を覚ました。眠気の海に体を浮かべつつ、フクロウの鳴き声に設定したアラームを消すため、ブラックのスマートフォンに手を伸ばす。画面を開くと、光太からメッセージが届いていた。
『ヒマなら神社の掃除を手伝ってほしい!』
光太の家は神社であり、学校が休みの日は朝から掃除をさせられている。これまで何度か手伝った経験はあるものの、今日は家でのんびり過ごしたい気分だった。しかし、断る理由がどうにも思いつかない。気づけば『OK』のスタンプで返信をしていた。
カーテンを開け、伸びをした。
ぼんやりと外を眺めていると、空が紫へと変化し、ぐにゃりと歪んだ。
瞬間、左手に焼けるような感覚を覚えた。
袖をまくり、小さな四芒星の形をした痣を見つめる。左手首に生まれつきあるものだ。この痣が、一ヶ月くらい前から時々痛む。不安だったが、すぐに痛みは消えるので、誰にも相談はしていなかった。
そうだ、空が――
空を再び見る。淡い青色の中で、真っ白な雲がゆっくりと流れていた。
「勇斗ー、ごはんよー」
階下から、母の大声が聞こえてきた。慌てて一階に降りた。
朝食を食べながらテレビを見る。ニュース番組だ。『刃物男、射殺される』というテロップが表示されている。どうやら、警官は刃物を持った犯人を追い詰めたが、逆に襲われ、とっさに拳銃を発砲してしまったらしい。コメンテーターが警官を批判した。
自分にはあまり関係ないなと思い、チャンネルを変えた。
食事を終えた勇斗は、自室に戻り、黄色のプルオーバーパーカーに着替えた。ブラックのスマートフォンをイージースラックスのポケットに入れる。忘れ物がないか確認し、電気を消した。
玄関の外まで、母が見送りに来てくれた。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
高日町は人口およそ三千人の山あいの町である。屋根瓦の古い民家が立ち並び、天陽山の麓に沿ってのびるように町が広がっている。都会から電車で数時間離れた場所に位置し、朝は鳥の声と風の音しか聞こえない。かといって、完全な田舎ではなく、山から少し離れるとスーパーもあるし、大きな病院もある。
町の北東寄り、山裾に向かって十分ほど歩くと、塗装されたアスファルトがいつの間にか苔むした石畳へと変わる。ゆるやかな坂道を登っていくと、二匹の狛犬がこちらを見つめていた。
「勇斗ー!」
石段の上から声がした。見上げると、光太が鳥居の下で手を振っていた。紺色のジャージを羽織り、首から白いお守りをぶら下げている。
「急にごめんな。なんか用事あった?」
「ううん、暇だった」
「そっか。今日のはちょい大変だから、マジ助かる。真弘も手伝ってくれるし、さっさっと終わらせてゲームしようぜ」
「怪我は大丈夫なの?」
「全然平気! じゃ、行こうぜ」
蔵は本殿から少し歩いたところ――天陽山への、今では使われていない登山口近くにある。神社の敷地は広くないので、たどり着くまであまり時間はかからない。銀杏の葉を眺めながら歩いていると、眠気が襲ってきた。
「珍しいな。勇斗があくびするなんて」
「うん、あまり寝られなかった」
「美咲に言われたこと、気にしてんのか?」
勇斗の動きが固まった。
「図星だな」
光太は、腕を頭の後ろで組みながら、にやりと笑った。
「別にあいつの言うことなんか聞かなくてもいいんだよ」
「でも」
勇斗は肩をすくめて俯いた。
「勇斗」
しばしの沈黙のあと、両肩に感触を覚えた。顔を上げると、光太と目が合った。
「勇気は小さな一歩から生まれる。それがきっかけで、勇気はどんどん大きくなるんだ。だから頑張って、その一歩を踏み出してみろ!」
鋭く芯のある声が、胸に刺さり込んだ。
光太は、勇斗の目をじっと見つめたあと、白い歯を見せた。
「なんてな。漫画のセリフを言ってみただけ~」
戸惑いと安堵が入り混じる。
「うぎゃあああっ!」
本殿の裏側から大きな悲鳴が聞こえてきた。
「真弘っ」
光太は血相を変えて走り出した。
蔵の前で、真弘が丸く屈んでいた。目元まで覆い被さったフードを両手で押さえ、がたがたと震えている。
「真弘!」
「に、にいちゃん。あ、あれ――」
真弘が指差す先には、大きな蜘蛛がいた。扉の上枠から糸を垂らし、ぶらぶらしている。
「無理! あれ、殺して!」
普段はボソボソと喋る真弘なのだが、今は割れるような大声を出している。
「はぁ」
光太は立てかけられていたホウキを手に取り、蜘蛛をなぎ払った。
宙を舞った蜘蛛は、真弘の目の前に仰向けで着地した。
「ぎゃっ! なにやってんだこのバカ兄貴!」
真弘は後方に大きく跳び、叫んだ。その瞬間、彼の体から何かが転がり落ち、乾いた音を立てた。
「お前なぁ、また不良にでも絡まれたのかと思ってヒヤヒヤしたんだぞ」
「おれは不良より虫の方が嫌いなんだ!」
真弘はがばっとフードを外し、濁った瞳を見せた。歯ぎしりをしながら、じりじりと兄の元へと歩み寄る。
「真弘くん、もうそのへんに」
勇斗が足を動かすと、硬いものが靴に当たる音がした。足元を見ると、カケラようなものが転がっていた。紅く、禍々しい光を放っている。
「あっ、だめ!」
真弘は、素早く紅いカケラを拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。
「それ何?」
「なんでもない。気にしないで」
真弘はフードを深く被ったあと、唇を噛んだ。
蔵の中は薄暗く、埃っぽかった。天井近くにある小さな丸い窓からうっすらと光が差し込んでいる。棚には陶器や金色のローソク立てなどの神具が並んでいた。
埃と砂にまみれた木の床を掃いていると、一部だけ色の違う箇所を発見した。なんだろうと思って眺めていると、突然、目の前に真鍮の花瓶が出現した。鈍い音が響く。
「すまん、大丈夫か?」
光太が脚立から飛び降りた。
「う、うん。間一髪だった」
勇斗が声を振るわせながら答えると、光太は申し訳なさそうに花瓶を拾い上げた。
「マジごめん」
花瓶に傷はついていなかったが、代わりに床がひび割れていた。
「にいちゃん、これみて」
屈んだ真弘が、割れた床版を指差した。勇斗と光太も顔を近づける。ひびの間から金色に光る何かが見えた。
「なんだこれ?」
光太は隙間に指を入れ、光るものを引っ張り出した。
金属製の取っ手だった。
「こんなのあるなんて知らなかった。ちょっと開けてみるか」
光太の手が、取っ手を引っ張り上げた。鈍い音と共に埃が舞い上がる。やがて、床下へ続く梯子が姿を現した。
「地下への入り口?」
光太は膝を曲げ、梯子の続く先をじっと眺めている。
「もしかして、降りようとしてる?」
もちろん、と光太は目を輝かせる。
「でも真っ暗だよ。危ないよ」
「大丈夫だって!」
光太は、蔵の隅にあったダンボールから懐中電灯を二本取り出した。
「俺はスマホのライトを使うから、お前たちはそれ使ってくれ」
二人が梯子を降りて行った。
一人残された勇斗は、おろおろと辺りを見回した。
「勇斗ー。はやく来いよー!」
「わ、わかったよ」
勇斗はおそるおそる梯子に足をかけ、ゆっくりと降りていった。
梯子を降り続ける。暗くて、長い。いつまで続くのだろう、永遠に終わらないのではないかと考えると、急に寒気が走った。息が上がってきたとき、ようやくスニーカーの底が固い地面に触れた。
着いた場所は、ひんやりとしていた。弱々しい懐中電灯の光が、岩の壁を照らし出す。洞窟のようだった。
「奥に続いてるみたいだな。行ってみるか」
光太は、リングストラップが付けられたオーシャンブルーのスマートフォンから放たれる光を、奥の通路へと向けた。
洞窟内を三人分の足音が反響する。道はどんどん狭くなっていった。
「この先に何があるのかなー。お宝かなー?」
先導する光太の陽気な声がエコーする。
「もう帰ろうよ」
「何言ってんだ。行けるところまで行ってみるぞ」
「もしかして、怖いの? おれは平気だよ。ぜんぜん平気」
前を進む真弘が、抑揚のない声で言った。
勇斗は黙り込み、二人の後ろをついて行った。
懐中電灯の光が消える。電池切れ? 同時に足元から不吉な音がした。
気づいたら、身体が降下を始めていた。加速。思考する暇なんてなかった。
水しぶきが激しく上がる。冷たい水がシャワーのように全身に降り注ぐ。
水面に浮かぶ大きな葉の上に、勇斗の体は乗っていた。落ちたことを理解するのに、しばらくの時間を要した。理解したあとは、恐怖が全身を駆け上がってきた。
「助けてぇー!」
叫んでも反応は返ってこなかった。
ところで、ここはどこ?
広い、ドーム型の球場のようだった。天井がなだらかな曲線を描いている。岩壁に絡みついた無数の根が、うっすらと緑色に発光している。
わぁ、と思わず感嘆の声を上げてしまった。幻想的だ。ぼんやり眺めていると、葉が傾き、体が水の中に落ちた。溺れるかと思ったが、幸い、あまり深くはなかった。
勇斗は泣きべそをかきながら岩床に手をついて、水から上がった。服はずぶ濡れで、ポケットに入れていたスマートフォンも水浸しだった。
緑の発光体のおかげで、懐中電灯なしでも明るい。少し歩くと、壁の穴から声が漏れてきた。光太の声だ。
そわそわしながら穴を抜けると、暗闇に二つの光が浮かんでいた。
「光太! 真弘くん!」
「やっと見つけた。勇斗、怪我してないか」
「大丈夫。水の上に落ちたから」
「ラッキーだったな。でも風邪引くなよ」
「うん、ありがとう。あ、これ持っててくれる? 水浸しになっちゃって」
勇斗は、自身のスマートフォンを光太に手渡した。濡れたポケットに入れたままにしておくと、修理が難しくなりそうだったからだ。
「まぁいいけど。それより、これ見てみろよ。奥に絶対なんかあるぜ」
大きな石造りの扉が、光太が手に持つオーシャンブルーのスマートフォンから発せられる光に照らされた。扉には四芒星のが刻まれている。勇斗の左手首にある痣と同じ模様だった。
「開けるぞ!」
意気揚々と、光太は巨大な扉を両手で押した。しかし、開く様子は全くなかった。彼の肩が、がくりと落ちる。
「勇斗にいちゃん、押してみてよ」
「いや、絶対無理だって」
「ものは、試し」
真弘に言われるがまま、勇斗は扉に手をかけた。
瞬間、左手首の痣から眩い光が溢れ出した。戸惑っていると、扉が鈍い音を響かせた。
「開いた。つーかなんだよその光」
「ぼ、僕にもわからないよ」
「はやく、行こう」
真弘は開いた扉の中へと消えていった。
扉の先は、赤く照らされていた。
「なんだありゃ。気持ちわるっ」
部屋の中央には台座があり、サッカーボールほどの大きさの紅い球が乗っていた。小さな棘が生え、ドクドクと脈打ち、禍々しい光を放っている。よく見ると、いたるところが欠けている。
突然、激しい頭痛が襲ってきた。勇斗は両手で頭を押さえ、うずくまった。
「おい、真弘、触んなって」
痛みをこらえ、顔を上げると、球に手を伸ばす真弘の後ろ姿が見えた。
小さな手が球に触れた途端、地鳴りがした。部屋全体が揺れ始め、天井から砂と石がぼろぼろと落ちてくる。
「う、嘘だろ、こんなところで地震? おい、逃げるぞ!」
台座の前で、真弘が両手を天に伸ばした。
球が浮かぶ。
「真弘、何やってんだ!」
空間が歪み始めた。揺れがさらに激しくなる。
「うおっ、なんだこりゃ」
光太の体が淡い煙に包まれた。首から下げたお守りが光っている。
「うわっ!」
引き寄せられるように、光太の体が素早く部屋の外へと消えていった。
部屋の床には、オーシャンブルーのスマートフォンが転がっていた。
揺れが激しくなる。歪みは次第に広がり、やがて部屋全体を包み込むほど巨大なものとなった。
気づくと、闇の上に立っていた。
「光太ー! 真弘くーん!」
勇斗の声は虚しく消えていった。
ふと、自分の体を見下ろすと、肌色しかなかった。華奢な体が露わとなっている。
訳がわからない。
座り込み、ぼーっとした。次第に涙が溢れ出てきた。
「お母さん、お父さん――誰か助けてよ。怖いよぅ」
どれくらい時間が経ったのかわからない。ふと顔を上げると、彼方に光が見えた。
呼ばれているような気がする。
勇斗は立ち上がり、光に向かって歩き出した。水の上を歩いているような不思議な感覚だった。
光の正体は、立派な長剣と、黄金色に輝く鎧だった。
その傍に、裸の少年が倒れていた。さらさらとしたブラウンの髪にあどけない顔立ち。
勇斗は、固まった。
倒れている少年は、勇斗と瓜二つだった。
顔のパーツが全て勇斗と同じ。違う点は、鍛え抜かれた肉体と、四芒星の痣が右手首にあることだ。
世界には自分のそっくりさんが三人はいると言われている。だいたいは他人の空似で済まされることが多いようだが、目の前の人物は「似ている」だけでは済まされない。手首にある痣の形までまるまる同じなのだ。右と左の違いはあるけれど。
おそるおそる、勇斗は少年の手に触れた。暖かい。
刹那、お互いの痣が光り出した。
「えっ?」
光が、弾けた。