揺れる心
空が裂けた。
滝のような雨が山肌を叩く。
少年は獣道を駆けていた。黄色いパーカーは泥に染まっている。胸元で揺れる白いお守りが雨粒を弾いた。
『落ち着いて避難してください!』
サイレンと防災スピーカーの声が雨に溺れた。
背後から崩落の音が聞こえる。
稲光が地面を裂く。土が跳ね、足場が砕けた。少年は反射的に跳び、枝をつかむ。崖上へ身を投げ込み、地面を転がる。
さっきまで走っていた道が、闇に飲まれて消えた。
急がないと、両方の世界が終わる。
荒い息が白く震える。崖上に身を投げ込んだ少年はお守りを握りしめ、ぬかるんだ地を踏み出した。
その刹那、空から岩塊が降る。
跳躍しようとした足が泥に絡まり、体が宙へ放り出された。
鈍い衝撃。視界が反転する。
奈落へ落ちた少年は、泥に顔を埋めたまま動かない。
冷たい雨だけが、血に染まった背中を容赦なく打ち続けていた。
◇
すっきりとした青空の下で、日向勇斗は鼻歌を歌いながら歩いていた。穏やかであどけない顔立ちと低めの身長から、小学生かと間違ってしまいそうだが、胸につけられたネームプレートには高日中学校と印字され、新一年生のカラーである赤色が黒い学ランに映えている。
今日は父が一年ぶりに帰国する。どんな土産話が聞けるのだろうか。
勇斗の足取りが軽くなる。ブラウンの髪がさらさらと揺れた。
「おいガキ! てめえどこ見て歩いてやがる!」
角を曲がろうとしたところで、荒々しい声が聞こえた。肩が跳ねる。おそるおそる振り返るも、誰もいない。自分へ向けられた罵声ではなかったみたいだ。少し安堵する。
進むと、背の高い男子二人組の姿が見えた。学ランについているネームプレートのカラーは青色。三年生だ。ランドセルを背負った小柄な子に対して、恐ろしいほどの剣幕を見せていた。
勇斗は電柱の影に素早く身を隠した。
「ご、ごめんなさい」
ボソボソと喋る声が聞こえた。そっと覗いてみる。
「真弘くん?」
男子二人組に絡まれているのは、知り合いの小学五年生である夏野真弘だった。
黒いパーカーのフードを深々と被った真弘は、男子生徒二人組に頭を下げている。
「あの、もう行ってもいい、ですか」
「ああ? なに言ってんのか聞こえねーよ」
「とっ、通して!」
「じゃあ通行料よこしな。おっと、ぶつけられたところが痛み出した。これは慰謝料も追加だな」
男子生徒の一人がわざとらしく膝を押さえている。もう一人はケラケラ笑っていた。
「あの、ほんとに、通してください」
真弘の声は、震えていた。
「かわいいねぇ。おい、スマホ出せ。動画撮ろうぜ」
「や、やめて」
真弘はうんと背伸びをして、自身に向けられたスマートフォンのカメラ部分を小さな手で押さえた。
「触んな」
男子生徒は、真弘の腕を振りはらった。その反動で真弘は尻もちをつき、ランドセルから教科書が飛び出た。
鼓動が速まる。助けに行きたい。でも、そうしたら自分もいじめられるかもしれない。なにも見なかったことにして引き返そうか。でも、それじゃあ後味が悪いような気もする。
勇斗の足は、一歩下がっていた。
「お前ら、何やってんだ」
聞き慣れた幼馴染の声が、耳に飛び込んできた。
少し大人っぽい顔立ちをしたツンツン髪の少年、夏野光太が声を荒げながら走ってきた。学ランの裾から出た白シャツが、風でばたばたとなびいている。
「に、にいちゃん」
「なんだてめー? こいつの兄貴か?」
「そうだけど?」
顎を上げた光太は、男子生徒二人組を睨みつけた。太い眉毛の間にしわが寄っている。両手を広げ、「今のうちに逃げろ」と小声で言った。
しかし、真弘は地面に座り込んだまま、動こうとしなかった。両手で頭を押さえつけ、小刻みに体を震わせている。
「おいおい、弟くんまだ震えてるぜ」
「可愛いじゃん。ズボン、脱がしてみる?」
下品な笑い声が、閑静な住宅街に響き渡る。
「お前ら、いい加減にしろっ!」
光太が叫ぶ。しかし、次の瞬間、彼のみぞおちに男子生徒の拳がめりこんだ。ごぷぉっ、と口から液体が吐き出される。
「なんか言ったか? え?」
男子生徒たちは、うずくまっている光太の脇腹に無数の蹴りを浴びせた。一方的な暴力だ。
「ったく、下級生が上級生に逆らうからこうなるんだよ。おい、こいつらの写真撮っとけ。クラスの人気者にしてやろうぜ」
「や、やめろよ」
光太は立ち上がり、再び男子生徒たちを睨みつけた。しかし、両足はがくがくと震えていて、すぐに倒れてしまいそうだった。
「しつけえな」
固く、鈍い音が鳴る。光太の顔面に男子生徒の拳が炸裂した。
「にいちゃん!」
仰向けのまま動かなくなった兄の体を、真弘は必死に揺すった。その姿を見た男子生徒たちは悪びれる様子もなく、けたけたと笑っている。
勇斗の頭の中は、真っ白になっていた。
「アンタら、ほんとしょーもないことしてるね。バッカじゃないの?」
鋭く透き通った声が、勇斗の耳を横切った。スパイシーな香水の香りがふわりと漂う。背の高い少女が、ローズピンクの長い髪を揺らしながら、男子生徒二人組の前に躍り出た。
「なんだ女かよ。しかも一年だし」
「すげー美人。俺、好みかも」
男子生徒二人組の顔がにやける。
「み、美咲さん?」
真弘に名前を呼ばれた少女、白鳥美咲はため息をつく。彼女はしばらく間を置いたあと、男子生徒たちに向かってクールな声を放った。
「あなた達、三年生ですよね? いいのですか、こんなことをしていて」
「なにぃ?」
男子生徒のひとりが眉間にしわを寄せながら美咲に近づく。だが、美咲は動じず、男子生徒に強い眼差しを向け続けていた。
「このことは、生徒会で話し合っておきますね。それと、さっき警察に電話しましたので、もうすぐ来ると思いますけど。さっさと帰って受験勉強でもしたほうが良いですよ?」
美咲はにっこりと微笑み、ピンク色のスマートフォンをちらつかせた。
「マジかよ。おい、逃げるぞ」
男子生徒二人組の表情が青ざめる。やがて彼らは路地の奥へと消えていった。
「ホント、バカな連中」
「美咲ねぇちゃん!」
「真弘くん、泣かなかったね。えらいね」
ぽぅっと頬が赤く染まった真弘は、俯き、体をうねらせた。唇をわなわなと動かし、何かを言おうとしていたが、言葉になることはなかった。
「いやー、さすが副会長! 助かった!」
光太は、仰向けのまま、はつらつとした声を出した。
「アンタ、喧嘩弱いのに策もなく突っ込むクセ、どうにかなんないの? もっと考えて行動するべきだと思いますけど?」
「う、うるせーな。というか、マジで警察呼んだのかよ」
「ハッタリよ、ハッタリ」
美咲はふふっ、と笑い、スマートフォンをポケットにしまいこむ。
勇斗はため息をつき、体を反転させた。今のは見なかったことにしよう、そうしよう、と必死に自分に言い聞かせる。
「ところで勇斗、アンタはいつまでコソコソ隠れてるの?」
肩がびくつく。そろりと振り向くと、真後ろに美咲が立っていた。両腕を組み、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。絶句して息を呑んだ。
「ちょっと来なさい」
「いや、ちょっとそれは」
勇斗の手が、美咲によって強引に引っ張られた。
「あれ、勇斗?」
「ゆうとにいちゃん?」
光太と真弘の視線が、勇斗に向けられた。
「あ、これは、なんというか、ええと」
勇斗の目が泳ぐ。どんな言い訳をしようか考えるも、全く思いつかない。頭が回らない。
「あんたも変わらないね。その性格、どうにかしたほうがいいよ」
美咲は冷ややかに告げたあと、その場を去っていった。
勇斗はしばらく呆然と立ち尽くしていた。我に返ったあと、おそるおそる光太に近づき、右手を伸ばした。
「た、立てる?」
光太は少し微笑んだあと、勇斗の細い腕を掴み、ゆっくりと体を起こした。
「すまん、助かる」
「ご、ごめん。えっと、その――」
猫背になった勇斗は、声を震わせ、鼻水をすすった。
「気にすんな。帰ろうぜ!」
そう言った直後、光太はふらついた。
倒れそうになる光太の体を、勇斗はとっさに支えた。決して軽いとはいえない体重がのしかかり、一緒に倒れてしまいそうになったが、なんとか踏ん張ることができた。
「サンキュー親友」
「やめてよ、その言い方」
勇斗は目を細め、視線を逸らした。にわかに耳が熱を帯びた。
「ねえ、はやく、帰ろう」
真弘は服についた汚れを払ったあと、ランドセルを背負った。
「あ、ごめんね」
勇斗は光太を支えながら、そそくさと前を進む真弘の後ろ姿を追っていった。
夏野兄弟と別れた勇斗は、自宅である庭付き一戸建ての前で足を止めた。すでに辺りは薄暗くなっていた。この時間帯になると、空気が一気にひんやりとしてくる。
玄関の扉を開くと、オレンジ色をした温かな照明の光に包み込まれた。
「ただいま」
たたきでローファーを脱ぎ、フローリングの床に足を踏み入れる。ダイニングキッチンの方からスリッパのせわしない足音が聞こえてきた。
「おかえり勇斗」
エプロン姿の母が、浮かない顔を向けてきた。
「遅かったけど、なにかあったの?」
「ちょっと色々あって」
「色々って――あっ、その汚れは?」
母の顔がどんどん曇っていく。勇斗の学ランには、光太を支えたときについてしまった汚れが点々としていた。
「えっと、ちょっと転んじゃって。今度クリーニングに出してて」
「ほんと? 大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫だって!」
「――ならいいけど。遅くなるときはちゃんと連絡しなさいよね」
「わ、わかった。気をつけるよ」
勇斗は急いで階段を駆け上がり、自室になだれ込んだ。スウェットのルームウェアに着替え、ベッドに腰掛ける。少しすると、階下から母の声が聞こえてきた。
「勇斗ー! ごはんできてるよー!」
そうだ、今日は久々に家族三人での食事だった。勇斗は慌てて階段を降り、ダイニングキッチンへと向かった。
食卓には、母しかいなかった。
「あれ、お父さんは? 今日帰ってくるんじゃなかったの?」
「お父さんね、急な仕事が入って帰れなくなったって。お昼に電話あったのよ」
勇斗は、ぼう然と立ちすくんだ。
「せっかく父さんの好物用意したのにね。あぁ、それ父さんの分だから、勇斗食べてね」
母は苦笑いしながらテーブルの上にハンバーグを並べる。勇斗の皿には、ハンバーグが二つ乗っていた。
かれこれ一年は父の姿を見ていない。仕事が忙しいのはわかるけど、このままだと顔を忘れてしまいそうだ。
勇斗はぼんやりと箸を動かしながら食事をした。ハンバーグは一つ残してしまった。
「ごちそうさまでした」
食器の後片付けは母に任せ、二階へと上がった。階段を上がってすぐ左に勇斗の部屋があり、廊下の奥には父の部屋がある。
自室を通り過ぎ、父の部屋に入った。
電気をつけると、海外のコレクションが目に入ってきた。色とりどりの切手、くすんだコイン、飛行機や船の模型、古びたパイプ。父が旅先で手に入れた品々が綺麗に並べられている。
一つだけ、周りのコレクションとは違った趣の品が飾られている。この国の、古い本だった。
知り合いの古本屋の店主から譲ってもらったという古い絵本には、様々な昔話が収められている。昔、よく見せてもらった。主人公の少年が、亡くなった親友を蘇らせるため、女神の試練を受ける――という話が特に印象的だった。最終的に主人公は試練に合格し、女神の力を分け与えられ蘇った親友と再会したところで物語は終了する。大きな樹の下で少年二人が抱き合っている絵を見た時、胸がじんわりと熱くなった記憶がある。
アンティーク調の机の上を見ると、小学生時代に家族三人で撮った写真が立てかけられていた。写真を手に取り、父の顔をじっと見つめる。目や鼻の奥がツンとした。
写真立ての隣には、木製の箱が置かれていた。ヒュミドールという、葉巻を適切な湿度で保管するための箱だ。
ヒュミドールを開くと、プレミアムシガーと呼ばれる手巻きで作られた高品質の葉巻がぎっしりと詰まっていた。柔らかい木々の香りが漂う。
勇斗は父の話を聞くのが好きだった。海外で出会った面白い人の話、絶景の話、食べ物の話。
そして、葉巻の話。
父は葉巻の世界を教えてくれた。種類、産地、保管方法、カットの仕方、上手な吸い方、味と香り。葉巻について熱く語る父の顔は、いつも輝いていた。憧れだった。
いつか、父と同じ世界を見てみたい。
勇斗はヒュミドールから葉巻を一本取り出し、眺めた。太くて長いボディは勇ましく、貫禄がある。
「僕には似合わないな」
葉巻をそっと戻し、部屋を出た。
――その性格、どうにかしたほうがいいよ。
布団の中で美咲の言葉を思い出していた。心の中で、幼馴染の少女の言葉が繰り返される。耐えきれず、布団から顔を出した。
勇斗は膝を抱えながら部屋を見回し、自身に問いかける。
「僕はどうしたらいいのだろう?」
静まりかえった闇の中で、枕元の灯りが揺らめいていた。