40 年の瀬
(今年も今日で最後か。)
前世だと『日本ひきこもり協会』恒例の音楽番組を見ながら家族で年越しをするのだが、今の俺にはどちらもない。
テレビの代わりに目の前には暖炉があり静かに火が熾っている。
(暖炉がある部屋があるというのは、この時代に生きる特権かもな)
そんな益体もないことをふと思う。
ちょび髭は孤独な人間だ。
『私はライヒと結婚した』と公然と嘯くくらいの人間である。
ちょび髭の頭の中にはライヒしかない。
ちょび髭にも家族はいるが、非常に疎遠だ。
基本的にぼっちなのがちょび髭という男。
俺が転生するまでは寂しさを紛らわすためか、毎夜毎夜明け方まで宴を開いていたらしい。
その習慣はやめた。
取り巻き達には不審な顔をされたが、常識的な生活リズムで生きてきた中島勝にはちょび髭総統の生活リズムはキツすぎた。
取り巻き達も『なぜ今更?』と不思議がってはいたが、皆心の中では喜んでいるようだ。
ふとっちょのゲーリングも生活リズムが改善されたせいか、最近スリムになった気がしない訳でも無いわけでも無い。(多分気のせい)
生活習慣を改善してあげるなんて、感謝して貰いたいところである。
こうして今日も宴会はひらかず、1人静かに年を越そうとしている。
(ますます不審がられたが、たまには静かに過ごさせてくれ)
俺は独裁者ではあるものの、1人でライヒを動かせる訳ではない。
いや、むしろ独裁者というものは法律など外部の要素から権威を与えられる普通の首相や大統領と違い、自らで権威を会得しなければならない。
だからこそ、身の振る舞いや関係各所のパワーバランスに敏感でなければならない。
(そのせいで毎日会食は欠かせないわけなのだがな)
部下とのコミュニケーションが欠かせないのは社会人も独裁者も同じである。
明け方までの宴会こそしないものの、中身が中島勝に変わってからも毎晩どこかの省庁の誰かと会食をするようにしている。
(とりあえず今年やれることはやったと思う)
俺がこの世界線に来てもうそろそろ4ヶ月が経った。
我ながら怒涛の勢いで色々やった気がする。
陸海空軍その全てとタフな交渉をした。
(特に陸軍はうるさかった)
経済省とも外務省とも角を突き合わせてきた。
(独裁者なんだぞこっちは。いう事素直にきけよな。ヒムラーをけしかけるぞ)
ユダヤ人差別も出来るだけとめた。
(こっちはなかなかうまくいかないが・・・)
ヨーロッパにおけるユダヤ人差別の根は深い。
ちょび髭党が煽るまでもなく市民の心に元から存在するのだ。
(前世の日本も同じだがな・・・)
そこまでひどくないにせよ現代日本にも差別の根はあった。
息子も不動産が外国人に買占められているとよくぼやいていた。
それを聞いてなんとなく俺も嫌な気持ちになってものだ。
今のライヒは21世紀の日本とは比較にならない程追い詰められている。
21世紀の日本も万年不況で苦しんでいたとはいえ、恒常的に餓死者が出たり千万単位で失業者が出たりはしていない。
4か年計画でましになったとは言え、生活は苦しい。
皆スケープゴートを求めている。
(今迫害されているユダヤ人には申し訳ないが、焦らず取り組むしかないな・・・)
独裁者とは言え万能な訳ではない。
今年は仕込みの年といった具合だ。
経済も軍事も外交も、すべては仕込みのとき。
(来年は仕込みの中間発表だな)
俺は来る年への期待(?)に胸を膨らませつつ、静かに年の瀬を過ごすのだった。
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第二次世界大戦がいつ始まったのか。
狭義には宣戦布告がなされた日が始まりの日とされている。
義務教育においてはその通りであり、議論の余地はない。
だが広義の意味においては、ベルリンオリンピック閉会日から第二次世界大戦が始まったのだと多くの歴史家が口をそろえる。
特にちょび髭ドイツにあっては、ベルリンオリンピック閉会以降、実質的に戦時体制に移行したとされる。
第1次四か年計画において急速な再軍備を成し遂げたちょび髭ドイツは、1937年から第2次四か年計画を進めるが、これは実態として戦時経済そのものだったと多くの歴史家は指摘する。
第二次世界大戦中に活躍した兵器のほとんどがベルリンオリンピック閉会から数ヶ月以内に開発が開始。
軍需関連企業の技術開発は統合され、新規開発された兵器はどの会社でも生産できるよう産業界の共通規格化が急速にすすめられた。
生産資源の割り当てや備蓄もこの時期から始まり、まさにちょび髭ドイツの国家全体で戦争準備に総力を上げる体制となった。
そのことから実質的に第二次世界大戦は1936年暮れから始まったと多くの歴史家がみなしているが、当時の人々は今とは異なる受け取り方をしていた。
この年ちょび髭ドイツは新型戦艦の建造中止を発表。
また様々な兵器の調達速度も鈍化。
さらにはベルリンオリンピック開催に伴う一時的な措置と考えられたユダヤ人迫害の緩和が、閉会後も継続。
ちょび髭ドイツが軟化したと多くの人がとらえたのだ。
『さすが平和の祭典だ』などとオリンピア精神をたたえる声すらあったほどだ。
だが、新型戦艦建造の代わりに整えられたブロック建造システムはその後おびただしい量のUボートを建造することになる。
兵器の調達速度の鈍化は、軍需産業の生産規格を調整する為の副産物であり、むしろ開戦までの生産量は増加したと後世の統計学者は指摘する。
ユダヤ人迫害の緩和自体は続けられたのだが、その代わりにちょび髭ドイツは次第にドイツ人のアイデンティティをその精神性に求めるようになった。
アーリア人という人種ではなく、ドイツ語を話しドイツ人の誇り高い精神性を持つ者こそがドイツ人であると。
その結果、ユダヤ系ドイツ人は自らがドイツ人たる精神性を持ち合わせている事を強調する為に、むしろ他のドイツ人よりも積極的に軍民問わず国家に協力していくことになった。
信じられないことだが、大戦中には多くのユダヤ系ドイツ人が軍から勲章を受ける程の活躍をみせるようになる。
表面的には軟化したように見えたが、むしろあらゆる面を効率化し新機軸を軍民問わず取り入れ、まさにちょび髭ドイツが第二次世界大戦を戦い抜く原動力を得た期間と言えるだろう。
今では当たり前に全世界で使用されるコンテナシステムがちょび髭ドイツにて初めて採用されたのは有名な話だが、その開発もこの時期である。
コンテナシステムはまさにちょび髭ドイツの遠征の原動力であった。
この様な事から、多くの歴史家がこう指摘するのだ。
『第二次世界大戦はまさにベルリンオリンピック閉会式からはじまった』と。