38 幕間 Heurēkaberg
~2020年12月1日午前11時 ヘウレカブルグ ~
「「「エウレーカ!」」」
研究員たちの笑顔がもれる。
なにか新発見をしたとき、大きな実験が成功したしたとき。
この都市の人々は大声でこう叫ぶ。「エウレーカ」と。
「エウレーカ」とはラテン語だ。
もともとは「ヘウレーカ」と叫んでいたが、ドイツ系以外の科学者も構成員として増える中「ヘウレーカ」の語源であるラテン語にいつしか回帰していったのだ。
ちなみにこれは一種の科学者ミームとでも言うべきものであり。元ネタはアルキメデスが浮力を発見した時に叫んだ言葉とされている。
「やりましたな、ヴァルター教授。これで全世界は救われるでしょう!」
「我々人類はとうとう太陽を手に入れたのだ。これも皆の協力のおかげだ。本当にありがとう」
そう言うとヴァルター教授は深々と『OJIGI』をした。
2020年12月1日は全人類史に刻まれる偉大な日となった。
この日、ヘウレカブルグ素粒子研究所にて常温核融合式原子力発電所の稼働に成功。
人類はエネルギー問題の最終的解決を達成したのだ。
この情報は世界中を駆け巡り、原油価格は暴落。
世界の勢力図が一変する騒ぎとなった。
その騒ぎを引き起こしたのは研究都市『ヘウレカブルグ』だ。
過去にも様々な最先端技術を生み出してきた都市であり、特に今日には欠かせない半導体技術はほぼその全てがこの都市から始まったと言われている。
そのことから人によっては新大陸のシリコンバレーの対になる存在として「シリコンバーグ」と呼ぶこともある。
この都市の特徴のひとつは、人口比にして明らかにつり合いが取れていない研究者の数だ。
一般的な都市と比べ、1万人あたりの博士号取得者が100倍にも達する。
ユーラシア大陸西域全体から優秀な科学者・技術者が集まっており、科学者の楽園との名も高い。
この都市は外部には基本的に公開されていない閉鎖都市となっている。
出入りはとても厳しく規制されており、外部通信も基本的に許可されていないという徹底ぶりだ。
近年は顔認証システムと都市全域に張り巡らされた監視カメラ網がリンクし、全市民の動向が中央サーバーにて管理されている。
あまりの厳重な体制に、この都市を監獄とよぶ人もいる。
だがそれでもこの都市で研究することを夢見る人間は多い。
これまでの圧倒的な名声、予算、研究の自由度があるからだ。
当初はこの都市は秘密都市としての性格があったのだが、あまりに多くの革新的技術を世に送り出した結果秘密にとても出来ず公然とした閉鎖都市になったという経緯まであったりもする。
そしてこの都市がかの悪名高い「ちょび髭総統」によって設立されたことは世界的に有名な事実だ。
第二次世界大戦前夜とでもいうべき時期に設立された「先端科学技術研究所」がヘウレカブルグの前身とされている。
そこはかつてライヒと呼ばれた地域の科学者・技術者が、先端軍事技術の開発のため強制的に集められていた。
当初は電子技術業界の人間だけであったが、次第に自動車業界・航空業界からも出向者が数多く集まりだしその規模は拡大。
数棟の研究棟とアパートから始まった研究所は、その拡大と共に病院・学校など様々な行政機構も設置され村や街を飛び越え、都市とでも言うべき規模になるまでに至った。
その創設者、「ちょび髭総統」については様々な意見があり、特に彼の生涯前半に行った「ユダヤ人迫害」は未だに世界中から非難の声が少なくない。
ヘウレカブルグの封鎖の仕組みもその原型はちょび髭総統が形作っており、その強権的で権威的なあり方は科学者・技術者からは今もって評判は良くない。
一方で、ちょび髭総統の科学技術を重視する姿勢は際立ったものだったと記録されている。
当時、悪魔的に恐れられていた親衛隊ですら、不用意にヘウレカブルグの科学者に手を出そうとはしなかったほどだ。
情報漏洩防止の為、科学者・技術者達の外部との接触や行動の自由は厳しく制限されていたが、その埋め合わせの為か各社の基本給に加え多額の手当が政府から支給されていた。
また、戦時下においても嗜好品を含む物資は優先的に供給され、訪れた親衛隊の将校が『総統閣下よりも贅沢な生活をしている!』と憤慨したとの記録も残っている。
そして科学者・技術者を重視するちょび髭総統の象徴的な逸話が残っている。
この研究所を創設する際、ちょび髭総統はライヒ中の電子技術者を集め研究所行きを宣告したわけなのだが、その際深々と『OJIGI』をしたという。
当時『OJIGI』の文化がなかったライヒにおいては、ちょび髭総統が何をしたのか理解できず皆戸惑っていたらしい。
だが、当時隣でその姿を見ていた親衛隊隊長ヒムラーは何か思うところがあったらしく、その後度々ちょび髭総統の真似をし『OJIGI』をするようになった。
ちょび髭狂信者とも言われるヒムラーらしいエピソードだ。
そしてヒムラー率いる親衛隊の中でも『OJIGI』の文化は広まっていき、いつしかライヒ中に『OJIGI』はローマ式敬礼(現在においてはちょび髭党式敬礼として知られる)と共にちょび髭党員特有のしきたりとして広まっていったのであった。
しばらくの間は『OJIGI』がなんであるのかをちょび髭党員は知らないまま使っていたらしい。
『何かわからないが総統閣下が始めたしきたりであり、相手へ最大限の敬意や謝意を伝えるしきたり』という、当時のライヒでなければとても流行らなかった曖昧な理解で使っていたらしい。
だが、その曖昧な理解も同盟国となった大日本帝国との交流の中でライヒの人間も頻繁に『OJIGI』を目撃することで変わることとなった。
そして『OJIGI』への理解が深まると共に『OJIGI』は親衛隊やちょび髭党の垣根を越えて軍民問わずライヒ中に受け入れらることになった。
特に尚武の気質にもつながることが分かってくると、堅物の国防軍将校にすら受け入れられるようになる。プロイセン軍人の精神性とも共通点を見出したことがその理由とされている。
最終的にはなんと公式な儀礼項目としてすら『OJIGI』は取り入れられることとなったのだ。
もっとも、ちょび髭総統が『OJ IGI』をどこまで理解していたのかは議論の的であり、ちょび髭総統に批判的な立場の人々は、大日本帝国からの印象を良くする為意図的にライヒの文化に取り入れたという指摘が存在することも確かである。
しかしながら今日広く受け入れられている『OJIGI』の文化をちょび髭総統が広めたことは、多くの歴史学者の中で見解が一致しているところである。
学園都市ってロマンがあっていいですよね!




