29 クリスタルナハト
「ヒムラー、この暴動は軍を使って鎮圧する。もし参加している親衛隊員がいるなら即座にやめさせろ」
「か、閣下!それは、それはあまりに強硬すぎます!」
ヒムラーが目を剥いて反発する。
ヒムラーの後ろに従っているハイドリヒも険しい顔をしている。
1938年11月9日
とあるユダヤ系の青年が駐仏ドイツ大使館の職員を殺害した事が引き金となり、反ユダヤの暴動がライヒ全土で発生した。
ことの発端はライヒの隣国ポーランドがパスポートを有効にする要件を変更したことだ。
ライヒのユダヤ人差別が激し過ぎたのであまり触れられることはないが、この時代ポーランドでもユダヤ人差別はそれなりに激しいものだった。
ユダヤ人差別はライヒと大差はないが、ライヒと異なりポーランドは積極的な財政出動を行っておらず、失業率なども依然として高水準となっていた。
そうなると『同じように差別されるなら景気がいいライヒの方がまだまし』といったことを考えるユダヤ人が少なくなく、実際多くのユダヤ系ポーランド人がライヒに流れ込んできていたのだ。
そのポートランドからの事実上の移民がライヒの中で問題となっていたのだ。
『ポーランド人に職を奪われる』という移民への警戒感が市民の中で蔓延したのだ。
ちなみにこの心配は現状のライヒ経済からいうと取り越し苦労だ。
大規模な財政出動による需要創出、再軍備による労働市場からの大量の若者の抽出などによりライヒはどちらかと言えば労働力不足にこの時期陥っていた。
したがって、マクロ経済的にはポーランドからの移民は歓迎できることだったのだ。
だが、市民には世界恐慌の記憶が深く刻み込まれている。
失業率が30パーセントを優に超え、失業者が街にあふれかえる情景が生々しく市民の脳裏に残っているのだ。
そんな市民の声と、もともとユダヤ人を好ましく考えていないちょび髭党内の風向きを俺も無視出来なかった。
『在留資格制度』をライヒでより厳格に運用することとし、在留資格を満たさない外国人は国外退去としたのだ。
もっとも、ヒムラーの部下ハイドリヒが主張したような、軍や警察を動員し直ちにユダヤ系ポーランド人を追い出すといった過激な手段は取らなかった。
3年の猶予期間を与え、その期間中に在留資格を取得できないものは国外追放といったかなり穏便な政策を採用した。
市民や党内からは『ぬるい!』という批判もあったが、俺は押し通したのだった。
だが、隣国ポーランドは過激な政策で対応してきた。
なんと旅券法を改正し、『すべてのポーランド旅券は新たに検印を大使館等で受けること必須とする』としたのだ。
それだけを聞くと、『なんだ、システムが変わっただけか、多少手間だろうけどなんて事ないか』と思えてしまうが、これには裏テーマ裏テーマがある。
それは『国外ユダヤ系ポーランド人の排除』だ。
今回のライヒの在留資格制度の厳格化で、近い将来多くのユダヤ系ポーランド人が本国であるポーランドに帰国を余儀なくされることが予想された。
その対策として、『ライヒ滞在のユダヤ系ポーランド人の旅券を失効させ、送り返させない』という暴挙に出たのだ。
当たり前だがそんなことをされて黙っているほどこの時代のライヒ市民は大人しくない。
『そっちがその気なら無理やりにでも送り返してやる』と世論がヒートアップ。
先鋭化する対立に挟まれたのがユダヤ人達だ。
自身の旅券が効力を失うということは、国家の保護を失うということを意味する。
母国ポーランドの庇護を失ったポーランド出身のユダヤ人は悲惨だった。
ドイツ人にもなれず、ポーランド人でもない。
冗談みたいな状態に国家政策で追いやられたのだ。
何人でもない人間には『家を貸せない』『物を売れない』『商売できない』と、俺がユダヤ人に対して緩和政策を行った反動であるかのように差別が先鋭化した。
そして先鋭化した差別の中で命を落とす人々も出てきた。
駐仏ドイツ大使館を襲撃した青年もそうやって家族を亡くしたユダヤ人の一人だった。
『世界の耳目を集め、対応が後手に回るライヒ政府に圧力を』と考えたようだが、完全に逆効果となった。
ライヒ世論は瞬時に沸騰。
ポーランド系ユダヤ人への襲撃はドイツ系ユダヤ人にも拡大。
特にユダヤ人経営の商店やユダヤ教寺院は真っ先に襲われた。
これに対し俺は軍を動員して暴動を鎮圧することにしたのだが・・・
「恐れながら総統閣下。強硬鎮圧は非常にリスクが高いと考えます。なぜならこの襲撃を行なっていた人間の多くはちょび髭党員であり、武力を用いてまでの強硬な鎮圧は党員の猛反発を受けることは必至であります」
ハイドリヒが冷静沈着に指摘してくる。
(そんなもん分かっとるわ!)
当然なことを指摘してくるハイドリヒに苛立つが、圧倒的正論である。
政権の安定を考えるのであれば、しばらくは放っておき市民のガス抜きをする方が得策だ。
(だがな)
「ハイドリヒ。この暴動は我々が意図したものか?」
俺は氷のような声でハイドリヒに問う。
「い、いえ。違います」
いつもの激昂するちょび髭節でなく、静かに尋ねられたことにハイドリヒも思わず口ごった。
「そうだ。ハイドリヒこれは我々が意図したものではない。これは国家への暴力だ。反抗だ。同胞が殺されたから?殺した民族の一員が身近にいるから?そんなものは関係ない。我々は共産主義者どもとは違う。法に依らん暴力は徹底的に排除する。」
そういうとヒムラー、ハイドリヒを順に見やり俺は命令する。
「ごたくはいい。さっさと制圧しろ。ゲッベルス。緊急放送の準備をしろ。今すぐラジオ局に行くぞ」
「「「ハイルちょび髭!!!」」」
ただならぬ俺の様子にヒムラー達もそれ以上の反拍をやめ、事態の収拾に動き出すのであった。
その後俺はラジオ局から『戒厳令の発令を即時暴動の停止と法に則った処罰』を布告。同時に各州警察および軍を投入してまでの制圧作戦を実施。
暴動を起こした者の多くはやはりちょび髭党員であったが、各種法令に則り処断した。
当然、多くの処罰軽減の嘆願が寄せられたが『ライヒは法治国家である。』と突き放した。
この俺の行動は諸外国からは喝采をもって迎えられ、過激派以外の市民からも好意的に受け止められた。
ただしちょび髭党の中ではやはり大きな不和が発生した。
特に襲撃を行なったものが多く所属していた突撃隊との不和は決定的なものとなり、そちらの弾圧はより徹底せざるを得なくなった。
元々突撃隊はちょび髭党の実力行使部隊であり、初期のちょび髭党躍進の原動力の一つではあったのだがちょび髭党が政権を取ると過激すぎて持て余すようになっていたのだ。
4年前の長いナイフの夜でトップ層はちょび髭が粛清していたが、組織自体は残っていた。
だが、今回の暴動の責任を取らせるという形で解散という運びになったのだった。
そんな具合で俺は『水晶の夜』を収めたのだが、この時の俺は分かっていなかったのだ。
この俺の史実とは違う行動が、後日予期せぬ変数としてライヒに返ってくることを。