0 眠り
もうダメだ、体が動かない。
しゃべろうとするが、声がでない。
「お父さん!お父さん!」
自分を呼ぶ声がする。
(最後まで残るのは聴覚というのは本当だな)
なんて今わの際に益体もない事を思う。
幸せな人生だったと思う。
こうやって妻や家族に看取られて旅立つ。
十分だ、十分だった。そう思う。
昭和の半ばに生を受け、88歳まで生きた。
日本を代表する電機メーカーに就職し、家族をつくり、勤めあげた。
誰しもが認めてくれるだろう。
中島勝は大往生だ。いい人生を送ったと。
俺もそう思う。だからもういいじゃないか。十分だ。だからもう旅立とう。
と、思えたらどれだけよかったか。
思考すら薄れゆくなかで、心の奥底にずっとあった執着心が頭をもたげる。
確かに満足だ。十分だ。
父として、社会人として。十分だ。十分な人生だった。
では、漢としては?
今更ながら子供じみているかもしれない。
だが、思うのだ。
漢に生まれたからには、なにか歴史に残る事を成し遂げたかった。
チャンスはあったはずなのだ。
IT企業の黎明期に20代30代を過ごした。
なんなら、銀行みたいな名前の某IT企業の社長と肩を並べる機会もあった。
でも、安定を志向してしまったのだ。
後悔は・・・ない。
ただ憧れ、執着心が消えないのだ。
(いよいよ思考すら・・・か)
眠りに落ちる寸前のときによく似て、思考が分裂し濁っていく。
最後に残った執着心すらも薄れていく。
(俺はやっ・・ぱ・・・り・)
意識が暗転した。