一月三十一日
一人の遊蕩の子を描写して在るゆえを以て、その小説を、デカダン小説と呼ぶのは、当るまいと思う。私は何時でも、謂わば、理想小説を書いて来たつもりなのである。
大まじめである。私は、一種の理想主義者かも知れない。理想主義者は、悲しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽の感をさえ隣人たちに与えている場合が、多いようである。謂わば、かのドン・キホオテである。あの人は、いまでは、全然馬鹿の代名詞である。けれども彼が果して馬鹿であるか、どうかは、それに就いては、理想主義者のみぞよく知るところである。高邁の理想のために、おのれの財も、おのれの地位も、塵芥の如く投げ打って、自ら駒を陣頭にすすめた経験の無い人には、ドン・キホオテの血を吐くほどの悲哀が絶対にわからない。耳の痛い仁も、その辺にいるようである。
(デカダン抗議・太宰治)
デカダン抗議が実際の太宰の話だったかどうかは、どうでも良い事だと思う。無感動に生きていた以前と違う、曙光の僅かでも差す世界に生きる今の私には、以前よりもずっと美しく響く。
蛇足を付け加える。私は以前、へたなcriticismをしたことがある。その時上手く言えなかったのは、つまりこういう事だ。
私小説かどうかは関係ない。ただ美意識の問題である。美しい響が僅かでも欲しかった。
N氏に。