五月九日
今日考えたことはみっつある。
ひとつは、平野啓一郎の「日蝕」に登場する唖の子の虚無について。確かブランコのようなものに乗っている描写があったような気がする。本日の冒頭にしたかったが手元にないので諦めた。
ふたつめは、浦島太郎って意外と深い物語だということ。現代社会の文脈では、好きなこと、楽しい事ばかりしているとあっという間に時が経って……という警句に回収されてしまうように思う。
しかし、楽しいことをしてあっという間に時が過ぎ去るのであれば、それに越したことは無いのではないか。ボードレールの言うとおり、僕らは常に酔っていなければ。言ってみれば浦島太郎は人生を全力で楽しむ理想の姿であると言えよう。
また、玉手箱を開けると煙が出て、浦島太郎がおじいさんになってしまうというのも面白い。幼い頃、私は老いというものを少しも好意的に捉えることが出来なかったので、もし浦島太郎が玉手箱を開けなかったら……と空想していた。しかし開けなかったらどうだろう? 浦島は心が若いままなので、あれから何年も経ってしまったことをうまく受容出来ないのではないだろうか。玉手箱を開けたからこそ、何十年も経った現実に根を張ることができる。 そのように考えれば、竜宮の姫の贈り物も、なかなか粋なものと言えはしないだろうか。
そして、僕らはやはり玉手箱を開けずには居ないだろう。箱に入っていると中身が気になってしまう。ただでさえうつつに戻り打ちのめされたところなので、希望を求めてしまうのだ。そのように考えれば、玉手箱を開けるのは必然と考えられる。必然と考えれば、次のような見方もできる。
心が若いものも、いつか玉手箱に手をかける時が来る。開いたが最後、歳を取ってしまう。あるいは、歳をとってしまったことに気づく。浦島の物語は歳をとったところで終わるが、我々の物語は歳をとってからの方が長い。
みっつめ。唖と打とうとすると、「推し」「推しが尊い۹(๛ ˘ ³˘)۶ちゅき♥」「推しがてぇてぇ」という変換候補が出てきて非常に鬱陶しい。邪魔すぎる。どう考えてもシチュエーションが限られるものを上に持ってくるんじゃねー。
そもそも好きなアイドルだのなんだのをいちいち「推し」「尊い」などと言って大袈裟に誇示する文化を全然好きになれない。もう勝手にしてくれ。




