二月十四日
仄聞するところによると、ある老詩人が長い年月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。僕はその話を聞いて、その人の孤独にふれる思いがした。きっと寂しい人に違いない。それでなくて、そんな長いあいだに渡って嘘の日記を書きつづけられるわけがない。僕の書くものなどは、もとよりとるに足らないものではあるが、それでもそれが僕にとって嘘の日記に相当すると云えないこともないであろう。僕は出来れば早く年をとってしまいたい。少し位腰が曲がったって仕方がない。僕はそのときあるいは鶏の雛を売って生計を立てているかも知れない。けれども年寄というものは必ずしも世の中の不如意を託っているとは限らないものである。僕は自分の越し方をかえりみて、好きだった人のことを言葉すくなに語ろうと思う。そして僕の書いたものが、すこしでも僕というものを代弁してくれるならば、それでいいとしなければなるまい。僕の書いたものが、僕というものをどのように人に伝えるかは、それは僕にもわからない。僕にはどんな生活信条もない。ただ愚図な貧しい心から自分の生れつきをそんなに悲しんではいないだけである。イプセンの「野鴨」という劇に、気の弱い主人公が自分の家庭でフルートを吹奏する場面があるが、僕なんかも笛でも吹けたらなあと思うことがある。たとえばこんな曲はどうかしら。「ひとりで森へ行きましょう。」とか「わたしの心はあのひとに。」とか。まま母に叱られてまたは恋人からすげなくされて、泣いているような娘のご機嫌をとってやり、その涙をやさしく拭ってやれたなら。
誰かに贈物をするような心でかけたらなあ。
(落穂拾い・小山清)
一番甘ったるい小説を読みたくて、思い出したのが落穂拾いだった。
落穂拾いは、どこかの“一世を風靡”するタイプの小説で書かれるような、ただ甘ったるい話ではないと私は思っている。口数の少ない、けれども率直なこの文章はとてもいい。師匠のような鮮烈さはないけれども、自然と染み入ってくる。私は今日、絵なき絵本も読んでいたのだが、まさにそうした所にルーツがあって、うっかり最後まで読まされてしまう、不思議な魅力を持っている。
甘さのある小説を読みたかったのは、嘘でも幸福のことを考えてみたかったからだ。それだけだ。




