二月十一日
昔は、人々は自らの死を、あたかも果實がその核を持つやうに、自らの中に持つてゐることを知つてゐたものだった──或はそれを豫覺してゐたものだつた。子供達は小さな死を、大人達は大きな死を持つてゐた。女達はそれを胎内に、男達はそれを胸中に持つてゐた。そしてそのやうに自ら死を持つてゐると云ふことが、各自に獨特な威嚴と平靜な誇りとを與へてゐたのであつた。
(マルテの手記・リルケ)
一昨日、昨日と書いたものを見ていると、あまり考えていないように見える。何か、しっくり来ない。ひとつには出し切って居ない。考え切ることが出来ないまま半ば惰性で書いているのであり、いくら日記と言えどこれでは意味が無い。
もうひとつには、考えるための土壌が足りない。つまり私は一日過ごして、その中でも色々なことに出くわし、何らかの感想を持ち、ただ言葉にせずにいたものを、寝る直前の疲れや眠気を利用して、なんとか纏めているのだが、あまりに学びが多くて疲れて果てたり、反対に学ばない一日、何かを変えずに一日を過ごしてしまうと、頭が働かないわけで、一昨日、昨日のようなとおりいっぺんになってしまう。
どんな毎日でも、いくらかは仕事を、ライフワークをするための時間を設けるよう、習慣づけること。面白いものを探すこと。何かに挑むこと。人と話すこと。時間をきちんと作ることで、もっと考えることが出来るようになるかもしれない。




