二月八日
彼女がその屋台を出て、電車の停留場へ行く途中、しなびかかった悪い花を三人のひとに手渡したことをちくちく後悔しだした。突然、道ばたにしゃがみ込んだ。胸に十字を切って、わけの判らぬ言葉でもって烈しいお祈りを始めたのである。
おしまいに日本語を二言囁いた。
「咲クヨウニ。咲クヨウニ」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩をつくり、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。
春ちかきや?
どうにか、なる。
(葉・太宰治)
小学館編集の言葉を読む。
その終わりにもあったが、ほんとうに慎重に、丁寧に言葉を選んで発信していると感じた。
芦原さんが自殺した原因というのは誰にも不明であり、たしかに例の映像化の際の軋轢がそのひとつになったかもしれない。わからないけれども、でも彼女は自分の作ったものを世に広く示すために奮闘していたわけで、そこに情熱を燃やしていた所では無かったかとも思う。何が言いたいのかといえば、やっぱり自殺の原因は、本人でしかわからない、藪の中なのだろう。
だから映像化に際し企業側のパワーが強かったとか原作の扱い方が悪かったとか、そういう問題は自殺と関係あるかもしれないし、無いかもしれない。一旦別にして、それはそれでおかしいやろと言わなくてはならない。何故かといえば芦原さんは犬死にだからである。
犬死にと言って悪ければただ死んだと言おうか。芦原さんに限らない、戦争で玉砕しようと天皇の死に殉じようと、訳の分からない、あるかも分からない「責任」を取って死のうと、飢え死に、事故死、自殺、老衰、すべてただの死であってそれ以上にはなりえない。だから死に意味を見出すのは所詮、後世の他人であって、到底何か期待できるものでもない。僕らのうちの誰が死んだって、世の中は何ひとつ変わりはしないし、地球は悠然と回転しているだろう。よしんば地球ひとつの回転が止まったとて、宇宙は整然と、それがさも当たり前の事のように静謐を保つだろう。だからもし、自殺者当人がその自殺に何らかの意味を見出しているのなら、それはただ酔っているだけである。
死をメディアが扱うと、何かしらの意味づけ、レッテル、そういうものが拡散していく。それによって、かえって何か失っているという感じを抱かせる。まるで、僕らの死に何か意味があるみたいだ。まるで、自殺や放火でもしない限り、社会に自己の主張が通せないみたいだ。否、じっさいに、通せないのかもしれない。その構造には大いに問題がある。もう、一度この国のありとあらゆる構造を破壊してまわりたい気がする。
死んで、おしまい。そういう考えには大いに魅力があって、私はいつでもそれに惹かれてしまう。それはもうチンケな、いのちの電話の番号を見てせせら笑ってしまう。でもやっぱり、悔しいから、一度位は幸福の欠片みたいなものに触れてみたいと思うから、だからまだ死なずにいる。




