うんこ
相手の趣味である釣りの話に、時折相鎚を打ったりやんわりと笑ってはいたが、重原和香は少し前からそれどころでは無かった。
心中穏やかに心がけ、どうか後三十分でいいから待ってくれと、ちらり時計を見やう。
「あ、そうそうこの間はね──」
止まることを知らない過去の釣果報告に、和香はにんわりと笑っては、子羊のステーキ肉に供えられていたグリーンピースをフォークで押し潰すのだった。
店の奥、一際大きな観葉植物の向こう側に、和香の求める楽園があった。
厳密には楽園と言うよりは“避難先”と呼んだ方がしっくりと来るものがある。行ってからが本番であり、災難厄難の始まりでもあったからだ。
ただそれよりも、今はそこへ向かうための口実や切り出し方の方が難しかった。
『すみません、ちょっとお手洗いへ……』
話の途中でもそう言ってすぐに席を立てる女を、和香は時折羨ましく思うのだった。間違っても、お花摘みになんて言える年頃でも、お金持ちでもない。心の中でフッと笑い、さり気なく時計へと目をやった。まだ五分と経ってはいなかった。
相手の死角でグリーンピースが全て潰れた頃合いを見計らってか、一段と痛みが激しくなった。内なるアナコンダが激しく這いずり始めたのだ。
三日ぶりのお出でましに和香は喜びの舞を奉納したく存じ上げたが、如何せん時と場所が悪かった。
まだ付き合ってもいない、ましてや一部上場企業の高給取りが相手である。ゆくゆくはお付き合い、そしてその先を見据えた和香にとって、初めての食事の場で天岩戸から大蛇を解き放つ事は極力避けたかった。
和香は潰れたグリーンピースをステーキの裏へと隠し、供えられていたブロッコリーを次なる標的へと決めた。
そもそも和香の内に潜むアナコンダはとても気難しい性格で、四日経って五日経ち酸化マグネシウムを供物として捧げても怒りが収まらぬかと思えば、時に二日連続に渡ってお出でましになられる事もあり、和香にとっては気心の知れぬ分からず屋みたいな存在だった。
そして何より暴れん坊で、その巨大で天岩戸、そして大河を堰き止め溢れさせる事をしばしするのであった。
自宅なればそれもたまには良しとしたが、出掛け先で大河を堰き止めてしまった時ほど心苦しい事は無い。
こっそりと静かに、なるべく音を立てずに清掃用具から三種の神器の一つである天叢雲剣を大河へ突き立てては、押し問答引き問答を繰り返し、アナコンダの川下りを願い出るしかないので、和香はなるべくは自宅で奉納の舞を踊ることを心掛けていた。
「あ、すみません! 釣りの話になると……つい」
釣果報告が途絶え、天照大御神が隙を突いて天岩戸に体当たりを繰り返すアナコンダを羽交い締めにした。行くなら今しかない。
「いえいえ。あ、ちょっとお手洗いに……」
「あ、どうぞどうぞ。お飲み物、頼んでおきます。何にしますか?」
男がメニューをさっと取り出した。和香はにっこりと笑っては、先程潰したばかりのブロッコリーを思い出した。
「同じ物で」
「ええ」
決して急がず、走らず、慌てず、ゆっくりとした動きで観葉植物の先へ。扉を閉めると全てを忘れ豹変するかの如く、天照大御神に退去命令を出した。
長居は無用。和香は奉納の儀を終えると素早く扉を開けた。アナコンダは無事に川下りへ。何も遺恨の残らぬ結果に、和香は満足げな笑みを浮かべた。
「すみません」
にっこりと笑うと、和香は釣りの話題を振り返るように切り出した。そして、勝利を確信した余裕の顔で相鎚を打つ。
どうして釣りの話題を振ったのだろうか。
和香はたった五分前の自分を激しく呪い始めた。アナコンダ2の到来だ。
終わることの無い、許された釣果報告に気を良くした男は、和香が釣りに興味があるもんだと思い始め、休日の予定を聞き始めた。
「エアコンの修理がありまして……」
和香はそつの無い理由で逃げた。釣りをするのは構わないが、私を決して巻き込まないで欲しい。そう願った。
アナコンダ2は気性が荒く、今にも天岩戸を破壊さんとばかりに暴れ始めた。
「すみません、お手洗いへ」
「どうぞどうぞ」
男はにこやかに笑い、気にもとめず、和香を送り出した。
観葉植物の裏へと進み扉を開けると、和香は光速で奉納の儀へと支度を始めた。
和香は焦った。アナコンダ2が大河を堰き止めてしまったのだ。
こっそりと清掃用具入れから三種の神器である天叢雲剣を拝借すると、大河に向かって突き刺した。
長くかかってしまっては、他の人が来てしまう。
和香はこなれた剣捌きで大河を堰き止めるアナコンダ2をなだめると、下流へと解き放った。
まるで何事も無かったかのように席へ戻ると、男が険しい顔をしていた。
「すみません、俺もトイレへ……ちょっとウンコしてきます」
なんとハッキリ物を言う人だ。和香はそう驚いた。そして羨ましがった。
「すみませーん! トイレ詰まっちゃいましたー!!」
程なくして、観葉植物の裏からヘルプを求める声がした。他の客が笑う中、声を聞きつけた店員が裏へと駆ける。
「いやー、すみません。久々の大物でして……マグロを釣った気分でしたよ、ハハ」
喩え方は人それぞれだと思い、和香は苦笑いを浮かべた。だが、自分は男のようにおおらかにはなれないが、この人なら自分の事を理解してくれるのではないかと、期待の気持ちが高まった。
気持ちが和らいだからか、和香はアナコンダ3の到来を察した。
「すみません、私もトイレへ……八岐大蛇を退治してきます」
そう言って席を立った。その顔には恥じらいは無かった。
だが、和香が戻った時、男の姿は無かった。
残された伝票の隅に、男の食べた食事代がそっと乗せられていただけだった。




