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ドストエフスキー論

リーザ、ソーニャ、キリスト

 「地下室の手記」はジッドによって『ドストエフスキーの全作品を読み解く鍵』と言われている。確かにそのとおりで、いわば扇の要に位置する作品と言っていい。この作品にはドストエフスキーの中の重大なものが既に投げ込まれている。

 

 変わった所から入るが、そもそも「問い」というのは何らかの「答え」が予想されているから発せられるものである。全く検討がつかない、盲目の状態では問いは発せない。逆に言えば、センスのいい問いを出せる人間はそれだけで、その人間がなにものかを持っている事を示す。センスのない人間は、無闇矢鱈に問いを発して、答えが出ないと怒り出す。しかし、大抵、そういうものは答えの出しようのないものだったり、答えを出しても意味のないものだったりする。

 

 ドストエフスキーは作品の中で問いを発する。その問いは、時の経過と共に深くなっていたが、それはドストエフスキーが先に答えを見出していたからである…という事をこの文章では書きたい。私はこれを寝起きに、急に思いついて、思いついた直後は立派な洞察を見出したような気がしたが、時間が経つと、割合普通な事のような気もする。しかしとにかくメモしておこう。

 

 ドストエフスキーの作品の中心には懐疑論者が存在する。自意識の夢魔に取り憑かれた懐疑論者である。この懐疑論者は、作品を経る毎に進歩していった。そこで、批評家の方も懐疑論者に目をつけて、その人物造形の巧みさを褒めたりする。しかし、自分で小説を書こうとするとわかるが、創作の立場においてはキャラクターの内面だけを創造しても小説にはならない。全体の構成が決まらないと、そこにキャラクターも当てはめられない。

 

 これはシェイクスピア「ハムレット」にも言える。ハムレットは最初の近代的人物と言われ、その人間像が云々される事が多いが、シェイクスピアは先にハムレットが何者であり、どのような過程を経てどう最後を迎えるか、洞察し、計算していた。そのあたりは小林秀雄「ハムレットとラスコーリニコフ」・福田恆存「人間・この劇的なるもの」で詳しく詳察されているので、興味がある人はそちらを見ていただきたい。

 

 さて、ではドストエフスキーは自分の生み出した懐疑的人物をどう料理したか。…つまり、この料理の仕方が、「地下室の手記」ではっきりと展開されている。だから後はこの作品の拡大深化と考えて間違いないと思う。構造は同じだが、螺旋を描くように少しずつ太く、大きくなっていた。

 

 「地下室の手記」の懐疑論者は、主人公の中年男である。この男の思想について云々するページはないので省く。とにかく、この男は自意識に取り憑かれた、人嫌いの、エゴイストである。では、この人嫌いの男は一体どこで救われるか。それをドストエフスキーは描きたかった。

 

 この男は作品の最後で、リーザというヒロインに抱きしめられる。この際、リーザは無言である。一方、懐疑論者の主人公は饒舌である。主人公はリーザに対して侮蔑・嘲笑の言葉を吐きかけるが、リーザは女性的直感で、そう言っている男性の「不幸」を見抜く。そうしてリーザは主人公を抱きしめてやる。

 

 この時、何が起こっているかと言えば、「愛」が「論理」に勝利したという事である。あるいは「愛」が「理性」に勝利した。ここでドストエフスキーは、西欧の近代の歴史に、彼なりの結論を出しているとも言えるだろう。西欧には啓蒙主義があり、理性の絶対謳歌があった。それはキリスト教を乗り越えるものとみなされていたが、西欧を批判する立場に変わったドストエフスキーは、むしろ古代帰りをして、キリスト的な愛が理性に勝利する様を想像したのだった。

 

 これは大げさな事を言っていると思われるかもしれないが、私は本当にそうであると思う。というのはこの、リーザ・主人公の関係は、「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」、その中でのキリスト・異端審問官にまっすぐ続いているからだ。

 

 ※

 

 「大審問官」とは懐疑論者のイワンが考え出したストーリーである。その中で異端審問官はキリストに対して、キリストなど今は必要ない、何故今更出てきたのだ、などと言う。異端審問官の言う事は全て正しい。正しい、現実的な論理である。彼の論理に隙はない。

 

 しかし、それを聞いて、現代に出てきたキリストは黙っている。そうして沈黙のまま、異端審問官にキスをする。異端審問官は敗北する。キリストは、異端審問官の正しい論理を全て飲み込み、飲み込んだ上でそれら全てを包み込むように「愛し」た。ここでも、愛が論理に勝利している。私はこの時、キリストにしろ、リーザにしろ、彼らが「沈黙」している事に着目したい。

 

 この時における愛の発露は、必ず沈黙していなければならない。そうでなければ、語り始めるやいなや、それは相手の「正しい」論理と同じ地平線で戦いを繰り広げる事になってしまう。神的なもの、女性的なもの(ファウスト)、キリスト的なもの、キリスト。そうしたものは相手を沈黙のまま包み込む事によって愛し、それによって相手に勝利する。それは絶対的な敗北を受けいれる事によって始めて現れる勝利である。

 

 この時、ドストエフスキーの念頭にあったのは、キリストその人だっただろう。ドストエフスキーはキリストの姿を改変させた。ドストエフスキーは、キリストの愛の概念を全く融通無碍に変えてみせた。それは最も柔軟で、豊かで、人間の度量を越えた大きい愛である。彼の作品が成功しているのは、この愛は基本的に、人間の論理では「語れない」とわかっていたからだ。論理とか理屈ではなく、「ただ」相手を愛するのである。相手が不幸であるというただそれだけの理由で相手を愛する。ここに理性や理屈が生じた途端、懐疑論者と同じ土台で論争する羽目になるとドストエフスキーはよく知っていた。

 

 同じ事が、ソーニャとラスコーリニコフにおいても起こっていると私は考えたい。もっとも、ソーニャは語っているではないか、と人は言うかもしれない。ただ、私はソーニャはやはり理由なく、ラスコーリニコフを愛しているのだと思う。それは明らかに恋愛ではないし、同情に近いが、もっと無償の愛である。だからソーニャは本質的には人間ではないと言っていいかもしれない。大抵、男性の文豪は、自分とは違う性、つまり女性の側に理想を投影し、そうして自分を救おうとする。これは女性の側からすると迷惑かもしれないが、近現代の作家は神を失ったので、それを投影させられる存在を探して、女性的なものの中にそれを見出したのだろう。この時、女性の中から人間的なものが失われて、ただ男性の理想によって捏ね上げられた偶像になってしまっている、それは許される事ではない……そのような批判が女性の側からもたらされるなら、それは私にはある程度正当な批判であると感じる。

 

 話を戻す。私は、ドストエフスキーの作品の根底にはそうした構造があると感じる。彼は答えを握っているので、無限に問いを深くできたのだろう。言ってみれば、彼の想起する愛は、時間の彼方にある。だから時間=現実=論理の世界をどこまでも深く掘り下げる事ができた。彼岸を意識しているから此岸の悲劇を徹底して描ける、というキリスト教的ヒューマニズムとでも言うべきものだろう。

 

 私はドストエフスキーはカントに近い事をやったのではないかと思う。カントにおいての答えは「物自体」であり、物自体はなんだか「わからない」ものだ。カントは「わからない」という事が答えだと知った時、始めて「わかる」という事が何なのか、「わからない」という事が何なのか、理解できた。物自体を想定せずに現象だけがあるとすると、現象とは何なのか、まるでわからなくなってしまうだろう。物自体と現象を分離する必要がある。その際、物自体は「わからない」もの、つまりは我々の世界の中にあるものではないと徹底して意識する必要があった。これが、現実に生きる人間にはいかに大きな思考的負担かは想像に難くない。我々は現実に生きているから、その解決策や結論をも現実の中に見いだそうとする。しかしカントやドストエフスキーの思考はこの現実という名の煉獄を徹底的に歩き、歩き通して、そうして最後の扉を開けたのだった。

 

 ※

 

 話を締めるが、ドストエフスキーの作品の根底にはそうした構造があると思う。つまり、理性による議論、現実的な利害、エゴイズム、果てのない論理、そうしたものをどこまでもたどっても、まっすぐに続いていく無限の道を歩いていくだけで、どこにも行き着かない。

 

 そうした懐疑に対して、同じ次元で答えを出そうとすると、不毛な、間違った方向に陥ってしまう。トルストイはどちらかと言えば巨人的な力で、現実内部に答えを見出そうとしたのだった。トルストイもドストエフスキーも、近代的な懐疑とかエゴイズムに、キリスト教的観念で解決を図った点では共通している。しかしトルストイは、どちらかと言えば問いと同一の次元で答えを出そうとした。だから、彼の問いは果てしなく続いて、生涯の最後まで安泰する事がなかった。というのは、彼は現実の内部に安泰を求めたからである。

 

 ドストエフスキーはその不毛をよく察知していた。ドストエフスキーはキリストの愛、リーザやソーニャの主人公を受け止める行為は無言の、無償のものでなければならないと感じていた。それを彼はロシアーー古代的なものの中に見たのだった。多分、現実的にはデカブリストの妻達……デカブリストの乱で捕まった夫についてった妻達、つまり、女性が、自分が犯したわけでもない夫の罪を忍苦する姿、そこにキリスト的な愛を見たのだろう。それがリーザやソーニャの原型になった。私はそれが後進国であったロシアに見られた姿だという点を、ドストエフスキーの為にも重く見たい。

 

 文明が行き過ぎると、おそらくそうした姿は見えなくなる。ブルジョアに倦み疲れたブルジョア作家が、自分達の理想を社会の底辺の人間に見出すというのは、そこに自分達が忘れてきたように見える「愛」や「誠実」があるからではないだろうか。だが、それが「ある」と言えるのはあくまでも、インテリが非インテリを眺めた時に発生するものだというのを、忘れてはならない。他人を無償で愛する事のできる人間が、自分が見られている事を意識し、それが自分の「美質」だと考えた時、それはもう汚れたものになってしまう。やはり、そうした人間の深所においては、理性は眠っていなければならないのである。

 

 ドストエフスキーはそんな風にして自分の答えを出したのだと思う。そうして答えの方から逆算して、問いを深めていく事によって後期の作品群は成立した。私はそんな風に考えたい。物自体は発見された。それで、現象の方をより深く、多様に描いていく事ができた。人間のあらゆる悪行を越える「愛」がある(間違っても「善」ではない)、それがドストエフスキーに信じられたからこそ、彼は前期の人道主義的作品を越えて、人間の悪を徹底して描く作家になった。彼は信じる人だったが、その信仰は口に出してはいけないし、論理に変換できないものだった。だがその急所があったからこそ、彼の作品はあれほど大きな展開が可能だったと思う。

 

 

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