中編 一度だけのキスを
私の愛するただひとりの女性、ティナ。
シダージェ男爵令嬢の彼女と出会ったのは、私やファティマが貴族の子女が集まる学園に通っていたころである。
ティナも私達と同級生だったのだ。
最初のうち、私はティナを嫌っていた。
私は、というか私の実家で今はなきバーレト侯爵家は第二王子派なのだが、ティナはその第二王子に馴れ馴れしくしていたからである。
第二王子も私達と同級生だった。……ああ、ソウザ辺境伯もだ。当時はまだ第二王子派だったな。勉強しかできない私は、剣術大会で毎回優勝していた彼が妬ましくてたまらなかった。
学園内では爵位の上下に関係なく自由な交友関係を結ぶことが奨励されていたが、王族が在学しているときの生徒会長だけは王族が務めることになっていた。
ほかの役員はその王族の取り巻きが担う。第二王子派の私は副会長を任されていた。
昔から勉強しか取り柄がない私に、ほかの役員達は仕事を押し付けてきた。
それはいい。それは仕方がない役割分担だ。
しかし生徒会長である第二王子の署名がなければ仕事を進められないというのに、彼がティナとイチャイチャするばかりで生徒会室に寄り付かないので困っていた。
なにより当時の彼には婚約者がいた。公爵家のご令嬢で、ファティマの親友だった。
私は憎まれ役を買って出て、ティナに注意を促すことを決意した。
第二王子には大切な役目があること、彼には婚約者がいること、彼以外の生徒会役員(ソウザ辺境伯を除く)にも婚約者がいること、などを話すと彼女は泣き出した。
いつまで経っても泣き止まないので心配になって近づくと、ティナはいきなり私に抱き着いて唇を重ねてきた。しゃがんで覗き込んだ私の首の後ろに両手を回して引き寄せたのだ。
それは私が知っている唇を重ねるだけのキスではなかった。
生まれて初めての淫らな体験だった。
しばらくして唇を離し、余韻に蕩けている私を潤んだ瞳に映してティナは言った。
「本当はアタシずっとヒカルド様のことが好きだったんです。ヒカルド様のことを知りたくて第二王子殿下に近づいたら……穢されてしまったアタシはヒカルド様に相応しくないけれど、心はいつもヒカルド様を想っています」
詳しく話を聞こうとしたら逃げられて、私は混乱せずにはいられなかった。
その日ファティマと同じ馬車で帰りながらも、頭の中はティナでいっぱいだった。
何日も何日もティナのことを考えていたら、気づいたときは彼女を愛していた。けれど本人が言ったように、彼女はもう第二王子と肉体関係があり──卒業パーティでの婚約破棄(婚約者のいなかったソウザ辺境伯は除く)によって完全に彼のものとなった。
その後艱難辛苦を乗り越えて第二王子妃となったティナは、先日王太子暗殺計画の首謀者であることを暴かれた。
しばらくしたら都の大広場で絞首刑になる。
第二王子は王族なので王宮の隅にある塔で軟禁刑、卒業パーティの婚約破棄仲間とティナの愛人だったとされる男達は、私を除いて貴族籍を剥奪された。
私が省かれたのは、彼女の取り巻きの中でただひとり肉体関係のない男だったからだという。
それと、私がいなくなると王宮の財務が滞る。なにしろ財務を司っていた私の父、バーレト侯爵もティナの愛人のひとりだったのだから。
しかも父は私と違って彼女と肉体関係があり、立場を利用して横領した金を貢いでいた。
第二王子とその派閥を煙たがった王太子派による根も葉もない冤罪だ。
私はティナの絞首台の前で自害して愛を貫く!
──と、思っていたのだが、フィーゴ伯爵邸でファティマと会ってから気持ちが揺らいでいる。揺らぐというか、冤罪ではなかったのではないかと思い始めている。少なくとも父の横領は、私が書類を確認したので間違いのない事実だ。
私が死んでも男爵位を受け継いだ弟がいるのだが、父のせいで縁談が壊れた妹は引き籠っているし、母は寝込んでいる。
死ぬにしてももう少し稼いでからのほうが良いのではないだろうか。
ティナはシダージェ男爵の庶子で、学園入学前に引き取られたと聞いていた。
しかし、どうやらそれは嘘だったらしい。
ティナは下町の娼館に勤めていた売れっ子娼婦で男爵とは愛人関係だった。男爵の目的は貴族男性から金を巻き上げることだったのに、ティナが男爵のため勝手に王太子暗殺計画を立ち上げたらしい。成功した暁には第二王子と男爵を入れ替えるつもりだったともいう。
すべての噂を信じるつもりはないものの……とはいえ、きちんとした調査報告書に書かれていたことなんだよなあ。
ティナに関わった全部の貴族家を潰したのでは政務が立ち行かないということで、それぞれの家が持っていた下位の爵位を子弟に受け継がせることは許されている。
だが、父の存在を無視するにしても、私も学園時代からティナの取り巻きなんだけど。彼女が本当に愛しているのは私のはずなんだけど。肉体関係がなかっただけで、被害者扱いで捜査状況を教えてくれるのはどうかと思う。
まあ、たった一度のキスで永遠に想い合うのは無理だと、私も最近悟ったよ。