悪魔と現代
今この世の中には悪魔が住みすいている。人々を惑わし。誘惑し。心から愛すわけでもない者たちが。悪魔という。
人と人とのつながりを消し。そして。運命さえも。変えてしまおうとしている。
それが21世紀。快楽は悪魔だということに気が付き始めている。
このPCも携帯もスマホも人間が考え出した悪魔だ。
私は。まず最初に授かってしまった。悪魔の道具を。携帯だ。
心を高揚させる携帯だがしかし、その悪魔の道具は人を寂しくさせる。
そして、犯罪のもとにもなり。いろいろなことを人間の心の中に産ませたわけである。
私は今。このことに制限をかけられていたため気づかなかったが。
悪魔と向き合っているうちに。
この悪魔との生存も飽きてきたというのが本当のところだ。
またいつもの人類に帰る時がもうすぐ来るのではないかと考えている。
私も。やっと、現実と向き合い人との触れ合いがどれだけ大切かを。
しみじみとわかりだす時が来そうである。
それが決していい判断だというわけでもなさそうだが。期待にはこたえたい。
私が悪魔に接していても。なぜ。悪に染まらないかという。その心のうちは
1人になりたいという願望があったからではないだろうか。
悪になっても信じて待っていてくれる誰かがいる。
私を決して見捨てない誰かがいる。
それが人の心にいる神(信)信じるという心に救われている。
何度も言った。
人の心の中にはそれぞれの神がいて。
それが修羅神だったり、貧乏神だったり。仏神だったりするわけだが。
その心を捨て清く美しく生きよというのが、私が習ってきたことである。
その悪い心を入れ替えよ、というのは。
いろんな神がいる中で自分素直なままの神を生かしておく場合ではないのだということ。
時には気づき邪気を捨てなければならないということ。
どれほどの時間をかけてでも。人は成長していかなくてはならない。
なぜ。こうやって文章を書いているうちにも私の中で悪魔がささやく。
こうゆう文章書くのも悪魔の道具を使ってだな。とか。
私よ。悪魔を征服しろ。出来るはずもないが。
悪魔とは真のいたずら心や。ぶれないすれすれのとこにいる。
悪魔はよく真実を知ってっている。
盆人よりも鋭いところを見ている。
そりゃそうだ。神と正反対のものであるため。
神の間違いを鋭く見抜き。そして。反論し攻撃してくるものだ。
悪魔がいなきゃ。神などもいない。っていうのが今の世の中だろうけども。
その人の心の宿っているものを惑わすのであれば。
やはり悪魔に罰を与える。神というものは必要なのではないだろうか。
悪魔と戯れているときは楽しい。
そのあとはしかし恐怖だ。
悪魔はそばにはいてくれない。悪魔は快楽であって。愛ではないのだ。
愛は人を元気にもさせ。くつろぎも与えてくれるのもだ。
そして。良い環境も与えてくれる。時には悪と呼ばれるように厳しいかもしれないが。
それは自分を高めてくれるという環境に置かれたのだとわかっていればいいのだが。
今の私はまさにそうだ。甘えて快楽にだけおぼれようとしていた。
だがしかし。こういう時間を過ごす、こうゆうものをいえてるっていうことを考えていかなければならない。
結構自分で自分を追い詰めてただけの人生であって。
もともとはとてもいい人生ではないだろうかと思ってる。
私の人生はこうゆう時間が作れるようになっただけでも幸せだと思える。
しかし。人間は愛の塊でできていて。歩いてる時も愛を詰め込んで生きているわけであって。
その愛のバランスが大きいかちぃいちゃいかは。その人のその時の愛なだけであって。
みんなが愛を持って生まれてきていることには違いない。
どんなに人に見られて悪い行為をしているとみられても。それが弱者からしたら正義かもしれない。
大物からしたら小賢しいことかもしれない。
でもその人の判断なのだから。愛を壊すようなことでなければ。
煙草も一つの悪魔ともいえるかもしれないが。
それは私の中では。張りつめた緊張感を消してくれるといった。
一つの道具にでしか思えないところにいるのだが。
それさえも悪魔といえるのであるのであれば。
私は。いつかは気づかないといけないとこになるのだろう。