〔3〕偽善のお手玉
あったま悪いからタイトルのままに何か難しいことを語ることや本当に理解して話せるかは――、見繕っても見繕っても足りないんだろう。
けれど、足りないのはわかってても、自分のやりたいことがあるならやってみればいいし、私のように自分のことをそう思っている人は行動したら初めてわかる。
しかし、この話はとても無責任である。
行動するには、自分一人だけが良ければいいことは少ないと思うから。少ないことに辿り着いたのが、これまで生きてきた中での経験と自分の中にある「これはきっとやべぇな…」という本能、感覚、何か内から湧いてくる自制心と恐怖心からだ。
自由に創作するってこと、自由に創作し、公に出すこと。誰かに見られているかもしれない行動、言動、「私」ということを発信すること――わかっているかわかっていないか。
楽しそうにしているか、馬鹿にされているのか。また楽しくしているのか、馬鹿にしているのか、そのどこに立つのか立とうと思うのか。わからずにいるのか、わかっててそうしているのか…したいことやりたいことをただ流されてやるか、押し付けられているのか、考えがあってか。
ときに無謀に強気に行く「真似出来るもんならやってみろや」――といなくちゃ投稿なんて出来ないんだろうと思う。世に出した瞬間にはどこかの誰かに見られているんだと思っておいた方がいい。
それは、ときに似たようなものであったり、逆のことであったり、全く知らなかったことであり、無視しようと決めたことであったり。人から与えられ、人に与え、見せつけられたら挫けるのか、クソ野郎と罵るのか、今に見ていろと自身を奮い立たせるのか。
怖い怖いで思っていたら何も書けないじゃないか。
自分と同じ人間なんていない。似ている人はいるだろうけれども。
どうあって、どう自由であるか結局決めるのは自分で、律するのも自分。自分と同じ考えではないから押さえ付ける自由などクソ喰らえ。
ただ――見渡さなければいけないのは、どの場所に立っているのかである。
人ん家で、人の家のルールを破って過ごしたらそら嫌われるし、追い出されるし、下手すりゃ警察呼ばれるわ。人にマイルールを押し付けて従わせたいなら自分ん家でやれ。
って自分自身に言い聞かせながら、創作しているときがあります。そういうときは、ただただ自作品に詰まって手持ち無沙汰の心が暇人なときであります。
自分と他人を比べて面白くないことをしている人間に向けて「それ間違いでしょw 私はちゃんとわかっているから〜」と汚い感情のときだな、となろうに登録してから散々愚痴っていたから楽しく創作しているユーザさんがとても輝いて見える。
私はもう遅いだろうか……と思ったり、すでに腐ってんなら……と開き直ったり、面倒くさいことを考え続けてやっていますが、素直が一番。
苦しい気持ちも、辛い気持ちも、書き綴るには客観視してそんな自分という感情を手玉に取って創作を楽しむのであります。
自由に創作するということは、やはり楽しむことだな〜なんて。
以上です。
楽しんでますか?