喧嘩しました
エメラルドが最初にとった行動は、未だに髪を引っ張っているエミリオの手を掴むことだった。
「何をーーっ」
怪訝な顔をしたエミリオが全てを言い終わる前に、手をつかんだままがら空きのお腹に蹴りをいれる。うわぁ、容赦ない。
5才の少女の蹴りだから大したことないかなと一瞬思うが、エミリオの様子を見て考えを改めた。お腹を押さえたまま、身体を縮めて必死に息をしている。相当痛そうだ。
エメラルドは苦しむエミリオを見下ろして言った。
「ここは私の家ですよ。礼儀がなってないのはどちらかしら?」
私の家ですけどね。
冷静に突っ込むももちろん口には出さない。
それにしても、兄のお嬢様言葉は中々しっくりきている。怒れば怒るほど女言葉になるのはなぜだろう。
前世の兄にはそんな属性は無かったはずなので、現世で女性になっているというのが原因なのだろう。恰好って大事だな。はい、現実逃避に関係ないこと考えています。
だって、目の前でお嬢様がお坊ちゃんの手を踏んでいるんですもの。しかもぐりぐりしてますよ。
何かもう、一種のプレイかと思いますよ。え、これ私が止めないといけない感じですか? 全速力で他人のふりして逃げたいんですけど。
と、困っている私に救世主が現れた。
「エミリオ、どこにいるんだ?」
「おっ、お父様」
声と共に現れたのはちょび髭が似合っているナイスなミドルでした。茶系にそろえたスーツがよくお似合いです。声と共にエメラルドは足を離したので、エミリオくんは慌てて立ちあがってそのおじ様――エミリオくんのお父さんらしい、に駆け寄った。
「おや、こちらは?」
エミリオパパが私達に目を向ける。エミリオくんが涙に滲んだ目で私達の悪口を言う寸前、エメラルドがスカートの裾を持ってお辞儀をした。
「エメラルドと申します。初めまして。エミリオくんとは、少しお話をしておりました」
まるで白薔薇が咲き誇るかのような綺麗な挨拶。私も慌てて、同じように挨拶をする。私が名を名乗っている間、エメラルドの睨みがエミリオくんに刺さっていた。
まさか、お前女の子に喧嘩で負けましたとか父親に言うわけじゃねぇよなぁ? ああ?
横にいる私にもしっかり聞こえた目での会話に、エミリオくんが真っ青になっています。そんな哀れな息子に気づかず、エミリオパパは「君があの……」とエメラルドに近寄っていく。
「初めまして。エミリオの父、デオールです。デオール・デ・ルジオール。どうぞお見知りおきを。イソラ・モラ・カジュール」
そうしてデオール様は片膝をついてエメラルドの手にキスをする。最後に言った呪文のような言葉はこの世界での固い挨拶みたいなものだ。この言葉ははるか古代の言い回しらしく、意味は分からない。ゲームの中でもたびたび登場人物が口にしていたが、恐らく『貴方に神の祝福がありますように』という感じだと思われる。
「いそら、もら、か、かじゅーる」
エメラルドも同じ台詞を返した。実は彼女はこの言葉を言うのが苦手だ。舌が回らないらしい。そういえば、兄は英語が苦手だったな、と思いだす。まあ不良なので、英語どころか全教科まともに勉強していなかったようだが。
因みにおじ様は私にも丁寧に挨拶をしてくれました。
順番がエメラルドの次になってしまうのは仕方がない。この世界は階級がものを言うのだ。たとえ、我が家に住んでいるとはいえ、エメラルドは伯爵家の娘である。騎士身分の娘より優先されて当然だ。
「さて、麗しいお嬢様方にも会えたことだし、そろそろお暇しよう。エミリオ?」
振り返ったデオールおじ様は目が点になった。私とエメラルドもその場に固まった。
エミリオくんが、ボロボロと大粒の涙を流している。
そして彼のズボンはぐっしょり濡れていた。
恐らく、女の子にこてんぱんにやられてしまった悔しさと、エメラルドの恐ろしさと、父親の姿を見た安心感などもろもろの感情が入り乱れてお漏らしをしてしまったらしい。
子供とはいえ、プライドの高いエミリオが人前で漏らすなど由々しき事態だ。私はそっとレースのハンカチーフを出してエミリオくんに渡した。股を拭くようじゃないよ、涙だよ。一応言っておくけど。
それに気づいて初めて彼が私を見る。が、それも一瞬でハンカチーフをひったくるようにして受け取ると、その場を走り去ってしまった。
慌ててデオールおじ様も追いかける。私達に一礼をして。
「……ああいう時はさ、気づかないふりをしてやるのがいいんだよ」
ぽつりとエメラルドが私にアドバイスをくれるけど、これ、八割以上あんたのせいだからね?