可愛いものは可愛い
「それで、慌てて逃げ出してきたと…」
「逃げ出したと言うと聞こえは悪いが、まぁそんなところだな」
「図星だよね、旦那様」
「あの、大丈夫なんでしょうか?ここにいる事を麗子さんにバレたら…」
麗子にドヤされ逃げるように飛び出した俺達は、寿町の外れにある喫茶「冠堂」に足を運んでいた。
冠堂はこの街で唯一珈琲を出す店だ。それもどういう理由か格別に市場価格を下回る値段で美味い珈琲を提供する提供してくれる。
この店の主人で、ここら辺一帯の顔役でもある冠國松氏は個人で海外との貿易取引を行う人物でもあるから、安さの理由はそういったところにあるのかもしれない。
「大丈夫大丈夫、麗子は昼過ぎまで小鳥遊医院に行ってるはずだから、少なくともそれまではここに来たりしないよ。まぁ由紀ちゃんが麗子にバラしたりしなきゃの話だけどね」
「わ、私バラしたりなんかしませんよ!」
そして珈琲を啜りながら話す俺達の前で慌てふためくこの少女は冠國松氏の一人娘である冠由紀。
華奢で気弱な子だが、國松氏の妻。由紀の母親譲りの整った顔立ちと愛想の良さから、この店の看板娘となっている。
「いつもお父さんが先生にはお世話になってますし、そんな事しませんっ!」
「そうだよ旦那様!由紀ちゃんがそんなことする訳ないじゃん、意地悪言っちゃダメだよ!」
「あぁ悪い悪い、少しからかってみたくなっただけさ」
由紀の焦る顔が見たくて少々意地の悪い事を言ってみたが、こんなに必死に返答されるとは思わなかった。
おまけに幸もなんだかムキになって噛み付いてくるじゃないか。
「由紀の困った顔が見たくてな、なんだか可愛いじゃないか由紀の困った顔って」
「なっ⁉︎」
「えっ…か、可愛いだなんてそんな」
「そうそう、その顔。その顔が可愛いんだよ」
駄目押しの一言で今度は困ったような何とも言えない表情を浮かべる由紀。
こう保護欲というか男心をくすぐるというか。
「意地悪ですよ…」
この顔を赤らめて俯き加減にこちらを見る仕草がなんとも良い。一緒に住んでる女二人どもじゃ決して満たしてくれない部分じゃないか。
「旦那様っ!うーわーきー!浮気だよこれっ!私に可愛いだなんて一回も言ってくれたことないのに!」
「何が浮気だ浮気、俺はお前の夫でもなければ恋人でもないわ」
「何言ってるの⁉︎私達婚約してるじゃん!」
「お前が何言ってんだこの馬鹿者!いつも言ってるだろ、俺はお前と婚約した記憶なんて一欠片もないわっ!」
顔を林檎のように赤く染める由紀とそれをニヤけた表情で見つめる俺の間に割って入って喚く幸。
俺と幸、そして麗子はひょんな事から住まいを共にし働く事となったわけなのだが。
幸はそれ以来俺の事を旦那様と呼び続けている。
最初の頃は俺の事を家の主人か何かだと思っていて旦那様と呼んでいると俺自身考えていたのだが、どうやらこの馬鹿は俺と婚約、つまり結婚の約束をした仲だと勘違いしているらしい。
何度も何度も、この半年間否定し続けてもこの有様で反論するのも面倒になって来たが、言い返さなければ認めた事になるとも思い、こうしてわざわざ毎回言い争いを繰り広げているわけだ。
「ずっと一緒にいてやるって言ったじゃん!あれ嘘なの⁉︎」
「捉え方が違うんだよ馬鹿」
「幸バカじゃないもん!」
「もんって何だもんって、子供かお前は」
「子どもでもないもんっ!」
「あ、あの二人とも落ち着いてください…」
頬を膨らませて必死に反論する幸と、少しばかり疲れて来て適当な返しをする俺を見て、またまた由紀が慌てる。
うむ…やっぱり可愛いな。
「あっ、今由紀ちゃん見て可愛いって思ったでしょ⁉︎また浮気ーっ‼︎」
「えぇ⁉︎」
可愛いものは可愛いのだから仕方がないだろうが。