先生はお熱いのがお好き
幸福の尺度は人それぞれだ。
円満な家庭を持つこと
信頼できる友がいること
健康であること
裕福であること
得る人がそれを幸せと思えば幸せだし、それを幸せと思わなければ幸せではない。
かく言う俺にとって幸せとは何か、
子供の頃から家族愛というものを感じなかった俺にとっては円満な家庭そのものを創造することすら難しい。
信頼できる友と言える存在はいたかもしれないが、その多くが戦火の渦の中で命を灰にしてしまっている。
子供の頃から体は丈夫で、当たり前のように五体満足だから健康であることを幸福のように思ったことは無い。
物欲だってそれ程無い方だから、金に対する頓着も人より少ないだろう。
まぁ頓着が無さすぎて同居人にはよく怒られるが。
俺にとっての幸せとは、日がな一日庭を小さな庭を見ながらゆっくりと静かに珈琲を味わう事だ。
こういったものが嗜好品である事はわかっているから、贅沢と言われればそこまでであるが、俺にとっては唯一の癒しなのだ。
これぐらい許して貰えるだろう。
「せんせっ!ねぇ、旦那様ってば!」
誰にも邪魔されず、小鳥の囀りを耳に当てながらカップを口元に運ぶ、その瞬間が私にとっては堪らないのだ。
「聞こえてるんでしょ!無視しないでよ!ねぇねぇ!ねえったらねぇ!!!」
あえてもう一度言おう。
私にとっての幸福は
日がな一日庭を小さな庭を見ながらゆっくりと静かに珈琲を味わう事だ。
そう、ゆっくりと静かにだ。
「むーっ…」
手に届きそうで届かない、望んでいるのに叶わない。これが幸福というものなのだろうか?
私の横で口をへの字にしている少女、幸をを尻目に考える。
「あーそうですか…そういう風な態度取るんだねっ!それなら私にも考えがあるんだよ?」
「幸、口がへの字になってるぞ?」
「なにそれっ、やっと口開いたと思ったらそんなことしか言えないの⁉︎」
「うるさい…良いかよく聞け?俺にとってこの時間がどれだけ至福の時間かお前は全然理解してないんだよ」
「旦那様にとっての至福の時間は幸とお話しする事でしょ!珈琲をすすってる時間じゃないよ」
この娘は本当に…生意気な事ばかり言いやがって
「違う!静かな時間を珈琲飲みながら過ごす事が幸せなんだよ!お前に構ってる時間じゃないんだ今は!」
「あーもう良いです!そう言う事言うなら麗子さんに旦那様がまた勝手に珈琲飲んでたって言っちゃうから!」
「ま、待てそれは…」
それは不味い、不味すぎる…
昔に比べれば庶民でも珈琲が楽しめる時代になった事は間違いないが、それでも贅沢品である事に変わりはない。
そう、この珈琲には制約があるのだ。
仕事一件につき珈琲10杯、今月に入ってまともに依頼も来ていないから、本来の決まり事であれば珈琲を飲んではいけないのだ。
仕事もせずに過ごして珈琲飲んでましたなんて麗子にバレれば強烈な一発をいただく事になるだろう。
「なにが待てなのかなぁ?約束破ってるのは旦那様なんだよー?」
「わかった、俺が悪かった…だからこの件は麗子には内密に」
「んー、どうしよっかなぁー?旦那様最近冷たいし、うっかり麗子さんに口滑らせちゃうかもなぁ…」
この小娘がっ、人の弱みに漬け込みやがって…
「お前、この前歌舞伎見に行きたいって言ってたよな…今度連れて行ってやるからそれで手を打たないか?」
「えっ⁉︎歌舞伎?旦那様が連れて行ってくれるの⁉︎」
食いついたな、歌舞伎を観に行く金を考えるとちょいとばかり高くつくが麗子の拳を浴びる事を考えればまぁ良いだろう。
「あぁ、しょうがない。それでどうする?取引成立って事で良いのか?」
「もちろん、成立成立!やった旦那様と二人でお出かけだっ!ねぇ、おめかししてって良いでしょ?」
「あんまり突飛な格好はやめてくれよ?ただでさえもお前は目立つんだからさ」
「わかってるって!んーなに着てこうかなぁ…」
「さぁて、じゃあ取引も成立したところで俺はもう一杯お代わりでも頂こうかな?」
「旦那様っ?成立祝いに私が入れてあげるよ!」
「おぉすまんな!」
幸が満面の笑みを浮かべながら台所に走る。
コイツをを味方につければ当分の間、珈琲の杯数に気を使うこともない。いくら麗子が口煩いと言ってもバレなければどうと言うことも無いのだ。
「そうだ幸。歌舞伎座に行く事も麗子には内緒だぞ?あいつ無駄遣いにうるさいから、気づかれたら何言われるかわからんぞ」
台所の幸に届くよう、声を張り上げる。
「わかってるって!大丈夫っ」
これから幸はおめかしに時間をかけるはず、とりあえず今日のところ…いや、半日は自分の部屋にこもって静かにしているだろう。
そうすればその時間俺はゆっくりとした時間を過ごせるはずだ。
「あぁそれと、珈琲丁寧に淹れろよ?安物じゃないんだからなー!あと淹れ終わったらちゃんと洗っといてくれ!麗子に見られたら殴られるからな!」
ん?返事がない?普段めったに珈琲を淹れる事もないし苦心してるんだろうか。
「おーい幸!聞こえてんのか?」
また返事が無い…厠にでも行ったのか。
「あっ、あのぅ…旦那様〜?」
「なんだ居たのか、居るならちゃんと返事しろって」
ひょっこりと台所から顔を出す幸。
その顔は何故だか少し気まづそうだ。
まさか、珈琲こぼしたんじゃ無いだろうな。
「なんというか、その…返事ができる状態じゃなかったというか…」
「何を訳のわからん事言ってんだ?」
「訳のわからんこと言ってるのは先生じゃ無いですかね?」
そうか、これはとてもじゃないが返事をする状況じゃなかったろう。
俺の目の前には金色の頭に真っ赤なたん瘤を作り涙目の幸と、
その幸の横で般若の如き顔をしながらこちらを睨む麗子が立って居た。
きっと10秒もすれば幸の頭のコブより大きなそれが、俺の頭にも出来上がって居るだろうと思いながら、俺は精一杯の笑顔を麗子に向ける…
「お、思ったより早かったな麗子…お帰りなさい」