大切なもの
なかさんがいなくなったことに触れる人は誰もいなかった。姫はあれ以来、ニコニコしている。それが逆に不気味だった。なかさんが持ち去った橋本さんのアンケート用紙も、紛失の話さえでなかった。私はなかさんが持ち去ったことはもちろん、話した内容も口外しなかった。言えといわれてもほとんど思い出せないけど。
時間は粛々と流れていく。一つ変わったことといえば、翌日すぐにおつりを渡してくれたゆうちゃんがやたらとなついてくることだった。今度の公演で、私もゆうちゃんも端役をもらったが、ゆうちゃんの役には一箇所、長台詞があった。事ある毎に練習に付き合わされた。うんざりした。
公演が始まっても、いつもと変わりはなかった。姫は主役をやり、父親は初日を見に来て、客席はほぼ満員。ロビーにも姫の楽屋にも花があふれているが、私たち端役の楽屋には親族や友達からお義理で送られたおおよそ比べ物にならない花束が転がっているだけ。それでも、誰も文句を言わない。
事件が起きたのは、千秋楽直前だった。
トイレに行こうと、楽屋から廊下に出ると、ゆうちゃんが真っ青な顔をして立っていた。右腕を押さえている。肩から肘までぱっくりと割れている。ゆうちゃんはなるべく腕を遠くにしながら傷口を押さえようとしている。
「衣装が……よごれちゃう」
「……!どうしたの!」
私の次に気づいたのは姫だった。
「角材に引っ掛けて……」
「ああ、なんてこと」
姫は豪快にスカートの下に履いていたスパッツを脱ぎ、ゆうちゃんの腕を縛った。
「姫さん、衣装が汚れます」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ?!誰か!救急車呼んで!」
その声に脚本担当が楽屋から飛び出してきた。他にも人が集まる。
「あなたも!ぼんやりしてないで、それよこしなさい!」
「あ……」
私の腕から手拭タオルを引ったくり傷口を押さえる。
「今救急車はまずいよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
「私、できます。舞台立てます」
「なに言ってんの!傷跡残ったらどうするの?あなたは将来の大女優さんでしょ?」
その言葉にゆうちゃんは泣き出した。
そんな状況でも私は頭の片隅で、
(今トイレに行ったら、ひんしゅく買うんだろうな)なんてことを考えていた。だから、姫に指差されたときも、一瞬なんのことだかわからなかった。
「あなたの代役は、彼女が立派にやり遂げるから!!」
幕が開いた。
救急車の到着を待つよりも、病院にいったほうが早いということで、脚本担当が連れて行った。衣装の替えがなかったから、ゆうちゃんの着ていた衣装の両脇を切って脱がせて応急処置で縫い合わされた。ゆうちゃんは下にシャツを着ていたから平気だったけど、縫いあわせで少し小さくなってしまったから、私は衣装の下に何か着るわけには行かない。縫い目は直接私のわき腹に食い込んだ。
舞台に上がっても、わき腹が気になって仕方ない。終わって脱いだらきっと跡が着いているだろう。
『……!』
姫が台詞を言っている。時々私のほうを向く。それを合図に私はお辞儀をしながら、
『そのとおりでございます』という。何度も練習につき合わされたから、間違えることなんてない。
『……!!』
跡はどんな形なんだろう。レースの部分があるから、その形も残っているかも。でも、見えないからいいか。姫の口調がだんだん激しくなる。後四回こっちを見たら、長台詞だ。
一回……この出番が終われば、後は最後の挨拶だけだ。
二回……早く衣装脱ぎたいよぉ。
三か……
姫の袖口に血が着いている。そして、うっすらとにじんでいる。姫の汗と混じりあっている。なんだか、へんてこな気分だ。
四回目。姫は力強いまなざしで私を見る。間違えないで、とか、できるの?とかそんな疑いは微塵もない。
(ああ、私、この目を見るのは二回目だ)
そう思った。一呼吸おいて長台詞を始めた。
『茨の道も』
あれは面接に来たときだ。私、高校のときの演劇部が楽しかったから、なるべく団費の安いここを狙ってやってきたんだ。
『桜の道も』
趣味の習い事みたいなものよ。だって、大きな声とか出すのって気持ちいいじゃない。だけど、姫に言われた。本気でやりたい人しかいれない、って。あなたはどうなのって。
『私たちには選ぶことはできません』
私はやりたいです、って答えた。だって入りたかったんだもん。団費が安いから。でも入ってみてちょっと閉口した。
『それは私たちには見えるだけで、選べる道ではないのです』
だって、みんな暑苦しいんだもん。やたらと語るんだもん。私はただ練習をして、お芝居をしたいだけなのに。
『あなたには見えないのでしょうか』
人を蹴落とすこととか、だめ出しに反論するとか、そんなことより練習したかった。
『私たちが今歩いている道は、二つの道の間にあります』
逃げ出すこともできたかも知れない。でも、一人じゃお芝居できないでしょ。
『それは頂のように高く、しかし平坦でどちらの道も見渡すことができます』
だから私は選んだ。一番いい方法を。
『そう、私たちは傍観者の道を選んだのです』
言い終えた。心が熱い。姫がじっと私を見据えている。そんな目で見ないで。そして、その言葉を言わないで。
『お前たちのいう傍観者の道が、頂のごとく高いものならば』
言わないで。
『茨の道を行こうという私が』
やめて。
『桜の道を見ることができないのは』
お願い、やめて。
『お前たちの道があるがためだということか』
舞台は暗転した。
目が覚めたとき、私は一人で楽屋に寝かされていた。奈落あたりに人が集まっている気配がある。台詞の終わりの暗転といっしょに私も暗転したんだろう。ふと見ると、私宛に小さな花が届いていた。そんなしゃれたことをする人はいない。添えてある封筒を開けると、小さな紙切れが落ちた。
『返しておいてくれ、なか』
封筒の中には橋本さんのアンケートが入っている。そこには橋本さんの住所が書いてあった。
全身の細胞があわ立つような感覚に襲われてあたりを見回す。あった。今回のアンケートだ。そこには住所が書いていなかった。
私は二枚のアンケートを握り締めて飛び出した。
『あなた方が大切なものを手放したことを知って失望した。そして、今日もう一つ失うこととなる。私はあなた方が成長する姿を見たかったが、残念だ。せいぜい頑張ってください』
会わなければ。なかさんに、橋本さんに。
奈落を突っ切っていこうとすると、姫に声をかけられた。
「あら、走っちゃだめよ」
「お客さんは?」
「もう全部はけちゃったわ。ご苦労様だったわね。気絶するほど緊張していたんでしょう」
心臓がばくばくいっている。それは前と同じだけれど、今は、みんながねぎらってくれる言葉が、耳の中で発せられているように大きく聞こえる。
「迫力あったよ」
どうしよう。
「すごく声が出てた」
どうすればいい??
「よっぽど練習してたんだね」
どんなふうに言えば、伝わる?今日のアンケートに橋本さんが住所を書いていない意味を。私たちが失ってしまった二つのものが何かを。どうしたら正確に伝えられる?
「どうしたの?まだ気分悪い?」
首を横に振る。みんなの顔がはっきりと見える。ヒロインの相手役は、汗でドウランの半分が溶け出している。姫の袖口には血がついている。
「ゆうちゃんは大丈夫だったからね」
頷く。言葉が見つからない。
「ゆっくりしてていいんだよ?」
心配されている。ここはあいまいに笑おうか。
「大丈夫?空気、読めてる?」
はっとする。笑い声に混じってなかさんの声が聞こえた。マジックで書いたふと文字のように目の前にも浮かび出た。手のひらで押し付けられたように、胸にこたえた。
「空気は読むものじゃない。作るものだ」
私は二枚のアンケート用紙を、ぎゅうっと握り締めた。少し湿った紙の感触がした。そして、からからに乾いた喉から、声を振り絞った。初めて姫に会ったときは違った、温度差を隠すために嘘をついたことにしてしまった、本当の魂を届けるように。
ブラックユーモアあふれる作品に触れて、執筆しました。正論は時に酷く、傷つけられたものを守る正義として放った矢は時に排除という名で正論を打ち砕きます。
何が正しいのかはわかりません。ただ、どんなことからも学ぶという姿勢だけは忘れないでいたいと、切に思います。




